第四話 デルフィナ
はっとして、勢いよく目を開ける。
そこは、最初に老人に会った、街の中だった。
立ちすくむ僕を、不思議そうな目で見ながら、通行人が行きかう。
老人と会ってから大分経っているような気がしたが、日を見ると、ほとんど動いていなかった。
白昼夢でも見ていたのだろうか。そう思って自分の手をみると、薄い、一冊の本が握られていた。
「ただいま」
「おかえりなさい」
家に帰ると、デルフィナは厨房に立っていた。
「なにを……!!」
すぐに駆け寄り、近くに置いてあった車いすを引き寄せ、そっと座らせる。
「あれほど言ったじゃないか。どうして、おとなしくしておいてくれないんだ」
「ごめんなさい。でも、夕飯の支度をしなきゃと思って」
厨房の方を見ると、鍋が火にかけてあり、コンソメとコショウの香りが漂ってきた。
何を言っても無駄なのだ。デルフィナは優しすぎる。優しすぎるせいで、自分をどこかに置いてきてしまっている。
鍋が音を立てて吹きこぼれる。デルフィナがそれに気づき、厨房につかまりながらなんとか立ち上がって、火を消す。
僕は、動けなかった。その光景に、胸がうたれるばかりだった。
僕は彼女に何をしてあげられただろう。
デルフィナは、僕の幼馴染だった。
両親は農家で、様々な種類の野菜を育てていた。子供は少なく、その村に住んでいる子供は僕とデルフィナの二人のみだった。
最初は、とてもいい友人だった。歳も近かったし、暇があえばいつも一緒に遊んでいた。
僕が士官学校に通いだした頃だろうか。いつの間にか、彼女を一人の女性として愛するようになった。
プロポーズしたのは僕が十八の時だ。今でも鮮明に覚えている。なんとか、少しずつ貯めに貯めた貯金をくずし、期待と不安を胸に、街へ出かけた。煌びやかな店々に戸惑いつつも、最初に入ったアクセサリーショップで一目惚れした、アイオライトの小さな指輪を購入した。
覚悟を決め、彼女を呼び出した。一基の風車の下、花々に囲まれたあの丘は、僕たちが何度も遊んだ、思い出の場所だ。
快晴で、やや強い風の吹く、すがすがしい春の日だった。
想いを告げると、にっこりと笑って、うなずいてくれた。
それからすぐに戦争が始まり、すぐに僕も徴兵された。なんとか引っ越しだけは間に合ったが、式を挙げる暇はなかった。
厳しい状況の中で、生き抜くことだけを考えた。
当然武功などはほとんど上げられず、送ってやれる金もわずかなものだった。それでも耐えた。どんなに絶望的な状況でも、彼女のことを想えば、耐えることができた。
五年が経ち、ようやく戦争は終結した。その間にできた溝は、僕が考えているよりも、大きいのかもしれない。彼女は変わってしまった。きっと、辛いことがあったのだろう。僕が地獄を味わったように、彼女もまた、地獄を味わっていたのだ。僕が耐え忍んでいる間、彼女もまた、耐え忍んでいたのだ。
その苦痛が、彼女を変えた。素直で、美しく、時にわがままだった愛らしい彼女は、痛々しいほどの優しさを振りまく、哀しい人形になってしまった。
恨みと後悔だけが募っていく。
泣くまいと決めていたのに、一筋の雫が頬を伝って落ちた。
彼女は戸惑い、ただ、ごめんなさいと何度も呟いていた。