第三話 老人
行く当てもなく、街をぶらぶらと歩く。
これからどうすればいいのだろう。金の当てもなく、妻の余命も短い。いっそのこと死んでしまおうかとも考えたが、少なくとも妻を看取るまでは死ねない。
「ちょっと、ちょっと。そこの御主」
話しかけてきたのは、小さな老人だった。背はかなり丸まっており、髭も髪も長く、フードを目深に被っているため顔はよく見えない。格好もみすぼらしく、一目見て乞食だろうと思った。
「すみませんが、あなたに恵むほどの余裕はありません。他を当たってください」
「いやいや、金はいらんよ。話だけでも聞いてくれんかね。老人の戯言と思って、忘れてくれても構わんから」
「はあ……」
「まあ、立ち話もなんだから、着いてきてくれ」
そういうと、返事を待たずに、老人はのらりくらりと歩き出した。
うさんくさかったが、時間には余裕があったし、失うものなどはもう何もない。少し悩んだ後、老人の後を追うことにした。
何度も路地裏を抜け、入り組んだ道を進む。住み慣れた小さな街のはずなのに、知らない道ばかりを通り、まるでどこか知らない街に迷い込んだような気分だった。
もう自分では元の場所に帰れないくらい歩いた頃、ようやく着いたのはボロ小屋だった。
「あの、ここは」
「わしの家じゃよ。ああ、そうじゃ。わしはここに住んでおった……。いや、住んでおる」
思い出したかのように、老人はつぶやいた。
中には、丸い、小さなテーブルと、椅子が二つ置いてあるだけの簡素なつくりだった。
「すまないね、何も出せるものがなくて」
「いえ、お構いなく。それで、話というのは」
「ああ、そうじゃった、そうじゃった。御主、最近何かあったじゃろう」
ぎくりとした。心臓を握られたような、そんな息苦しさが体を襲う。
それでも、と頭を振る。どこかで聞いたことがある。占い師がよく使う手だ。
「……確かに、ありました。とても大きな事が。しかし、そんな抽象的な問いでは、多くの人があったと答えるでしょう。特に、今の時期は何もないという者の方が少ない」
「そうじゃな。もっともじゃ。ではもっと具体的に答えるとしよう。お主の妻が、床に臥せておるな」
今度こそ本当に驚いた。どこかで聞いていたのだろうか。
なんとなくだが、そうじゃない気がした。この老人には、わかるのだ。
人生を見透かされているような、そんな気分になった。
「どうしてそれが……」
「そんな事はどうでもよい。それより、御主。御主の妻を助けられると言ったら、どうする?」
一瞬どきっとしたが、またすぐに首を振って、振り払う。
「やめてください。医者からはもうダメだと言われたのです。諦めようとしているのですから、下手に希望を持たせないでください」
「ふむ」
老人は席を立つと、どこから持ってきたのか、一冊の本を差し出した。
かなり古びていて、タイトルもなく、薄い。唯一、羊皮紙に包まれていることだけが、本であると主張していた。それほど、粗末な本だった。
「御主にくれてやろう。それはな、ある人物の日記じゃ。そいつに会うことができれば、お主の妻を救うことができるやもしれぬ」
「日記を、本にして出版されたのですか?」
「そうじゃ」
「どうして」
「決まっておるじゃろう」
そういって老人は笑った、ような気がした。
「誰かに読んでもらうためじゃ」