霧の向こう側
*クリスマス*
◆◇◆
ダガー工房にはバーがある。硬質で落ち着いた雰囲気の店は待ち合わせにも便利で、常連ならずともそこを利用する客は少なくない。サクラもまたその一人だった。珍しく懐が暖かかったので、それなりに良い酒を頼むと、これまた珍しいオーガニックターキーに舌鼓を打つ。食材の確保に奔走したリー・インには後で礼を言っておこう。ターキーは美味かった。
クリスマスの夜の店内は賑わっていた。客足はいつもより多い。ターキーの香り、ビーフの香り、鶏卵の香り──目を閉じて舌の上に転がる塩と脂のうま味に思いを馳せているため、香りでしか判断はつかないが、注文が多いと言う事は客も多いと言う事だ。
みな浮かれているのだろう。夜も大分更けてきたものの、まだ収まらぬ喧騒の中で、サクラは一人アルコールと塩と脂で時間を潰し続けていると、不意に背後から声がかかった。
「一人かい?」
「いや……待ち合わせだ。時間は約束していないから、遅れてるわけじゃない……俺が速かっただけだ」
「待ちぼうけって言うんだぜ、それ」
声の主は苦笑していた。不思議な事を言うものだ。遅刻は遅いが、決まっていない時間には速いも遅いも無い。
「定番だね。クリスマスに一人。待ち人来ず。流行のリリックみたいだ」
「顔も知らない相手でね。見かけたら教えてくれないか……」
考えてみれば、サクラは僚機について知らない事があまりにも多い。大隊番号、機体の名前、アセンブルの癖、そしてリズという名前。共に幾多の戦場を駆けながら、初めて声を聞いたのすら、数日前のことだった。
「大隊番号520番。リズ。機体名は──」
「ナインヘッド」
「知ってるのかい……」
驚きと言えば驚きだが、そうでないと言えばそうでもない。あのルオシュ救出作戦に間に合った数少ない存在だ。それに、一度戦場で会えば脳裏に焼きつく機体をしている。
「ちょっとした有名人だよ。アセンもかなり硬質で、ファンも多いとか」
「待ち合わせの相手は彼女だ。もしかしたらもう来ているのかもしれないが……」
「すまないが俺も顔は知らないんだ。ああ、ちょっと待って。大隊の名簿に照会をかければ顔写真くらい……」
「助かるよ。人を探すのも、文字を見るのも苦手でね」
手にした小さな端末に目を落とすと、彼はわずかに──ほんの一瞬(速い)──表情を変えたように見えた。それが何を意味しているのか、あるいは酔いによる錯覚なのか、サクラには判別つきかねた。顔を上げてこちらを向いた時、彼の顔は既にいつもと同じ涼しげなそれに戻っていた。店内をぐるりと一瞥し、残念そうに言ってくる。
「見た感じ、店内には居ないみたいだ」
あの戦闘の後だ。誘いのメッセージは送ったものの、疲れて寝ていることも考えられる。返事も待たずにバーに来たのだから、来るだろうというのは、漠然とした勘に過ぎなかった。
「遅いな。遅くはなるなと伝えたんだが……」
「まあ、好きなだけ待ってるといいさ。大丈夫、今日はカンバンを遅らせるよ」
「そうか……じゃあ、俺はもう少し飲ませてもらおうかな」
もしかすると、愛想でもつかされたか──つかされるほどの愛想など持ち合わせては居ないと思っていたが。それでも、目を覚ませば録音に気づくだろう。それをリズがどうするかはわからない。聞いた上で拒むのか、従うのか、あるいは聞きもせずに破棄するのか──サクラにはただ、遅い相手を待ち続ける事しか出来なかった。
◆◇◆