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⑧ I'll Remember April


 ボクの最寄り駅につくと、今回はタマキも各駅停車を降りた。

 次に来る快速電車をホームのうしろの方に下がって待つタマキに並ぶと、ボクはひとつ訊いてみることにした。


「ジャズ・スタンダードに“4月の思い出(I'll Remember April)”っていう曲があるんだけど、聴いたことないかな? こういうメロディーなんだけど……」

「歌ってくださるんですか!」


 タマキの期待に満ちた表情と声、組まれた両手に、ちょっと口を開けたままハッとしたボクは我に返った。


「……省略」

「ええっ?! なんでですか」


 不満そうな表情のタマキ。


「今のは通りすがりの悪霊に一時的に取り憑かれていたせいで、ボクの真の姿ではなかったからだ」

「え?」

「危うくこの名曲の品位を台無しにするところだった」


 表情を変えたタマキはくすくす笑っていた。

 右手を軽く握って、口元に添えて。


「土井先輩は変な人ですね」

「まあ、そうだな」


 ボクは自分がヘンだということを否定するつもりはまったくないので、あっさり認めた。

 タマキはまたくすくす笑っている。


「先輩はおかしいです」

「確かに」


 おかしいというのも納得できている。

 否定する気にならない。


「私は、土井先輩が暗いかただなんて、つきあいにくい方だなんて、ちっとも思いません」


 ボクはどういうわけか、タマキとの初対面のときに中庭の横の道で見た光景を思い出した。

 タマキの黒い肩掛けバッグにふわりと舞い降りた、ひとひらの桜の花びら。

 風にかき消されてしまう前のほんの一瞬、暗闇を照らした一筋の光のような。


「他の方々がどうおっしゃったとしても、私は自分の感覚を信じていますから」


 ついさっきボクを変人呼ばわりしたくせに、手のひらを返してフォローするように言ったタマキは、「気遣いができて明るく元気で表情がよく変わる律儀で面白くて愛想がいい上に用意のいいヤツ」。

 そして、ボクの後輩だ。


「そうだ、先輩」

「どうした、後輩」

「先ほどの曲について、もう一度教えてくださいませんか?」

「“4月の思い出”のことか」


 ボクはそれっぽく腕を組むと、タマキに言った。


「元のタイトルは“I'll Remember April”なんだけど、実は意外に悲しい歌詞がついてるんだ。だからゆっくりしたバラード演奏が主として想定されるんだけど、ボクは速いテンポの演奏が好きだな」


 ボクは無意識に腕をほどいて、握った左手をあごの下にくっつけていた。


「それに、ヴォーカルが入ってない方がいいな、うん」

「例えば、どなたの演奏がいいのでしょうか?」


 タマキは興味深そうに訊いてきた。

 瞳がきらきらしているような気がした。


「ボクの好みとしては、まずバド・パウエルのピアノか、クリフォード・ブラウンの……」

「すみません、ちょっと待ってください」


 タマキは緑色の表紙をした手帳とボールペンをバッグから取り出した。


「えっと、『バド・パウエル』、ですよね」

「ああ、メモるのか。そう、バド・パウエル。ピアノ・トリオでの演奏だ。もうひとつは、クリフォード・ブラウン」

「クリフォード、ブラウン」

「うん。トランペッターなんだけど、ドラムのマックス・ローチと組んだグループの演奏がとってもカッコいい」

「マックス、ローチ……」

「メモってどうすんの?」

「図書館で探してみます」

「なるほど」


 タマキの印象に「勤勉なヤツ」が加わった。


「……あります、よね?」

「今の2枚?」

「はい」

「そうだなあ、良心的で『分かっている』図書館だったら、あると思うな。特にバド・パウエルの方が」

「どうしてバド・パウエルの方なんですか?」

「より有名だと思うから」

「そういうことですか」

「うん。まずはこちらからどうぞ、って感じだな。もちろん、ブラウニーが先でも問題ないよ」

「ブラウニー?」

「クリフォード・ブラウンの愛称が『ブラウニー』なんだ」

「先輩って、よくご存知なんですね」

「は?」

「とても感心しちゃいました」

「真剣な表情でそんなこと言われると、本気にするぞ」

「もしかして先輩」

「なんでしょう後輩」

「私が言うことって、まったく信用してくださってないですか?」

「そんなことないよ、ってまたこのパターンか」


 タマキはくすっと笑った。


「先輩といると、楽しいです」


 いつか各停のシートで聞いたようなセリフだった。


「ありがとうございます、土井先輩」


    *      *      *


 ゴールデン・ウィーク期間中の平日、4月30日。

 とうとう今日で4月は終わりです。

 入学してから、1か月。

 まだたったの1か月だというのに、私には1年……はおおげさですが、何ヶ月もの時間が過ぎたように感じられました。

 それだけ充実した時間が送れたのだと思います。

 ひとり、ユニークで面白い先輩がいてくださったおかげで。


      *


 後方のドアから入った私は、大教室のほぼ中央の位置に腰かけました。

 この席なら、そばに私と仲よくしてくれている同級生もいるはずなのですが、どうやらお休みのようです。

 全体の出席率は前回の半分と言ったところでしょうか。

 連休期間中なので驚くことはありませんでしたが。

 それよりはっとさせられたのは、最前列の右隅の席……指定席に、土井先輩がいらしたことです。

 失礼なことですが、まさか今日土井先輩にお会いできるとは思っていませんでした。

 ゴールデン・ウィーク期間ですから、続けて休まれるものと思っていたのです。

 田中先輩はそんなふうに考えられたのでしょう。

 お休みでした。

 広瀬先輩はしっかり出席しておられましたけれども。


      *


 必修科目の講義がいつもより30分近く早めに終わると、この日はもう帰宅するばかりとなりました。


「よう、タマキ。元気か?」


 思いも寄らないことに、土井先輩ご自身から私の方に来てくださいました。

 私はぽかんとしてしまいました。


「今日はもう何もないだろ、帰るとしよう」


 研究室も今日は誰もいないだろうしな。

 そうおっしゃった土井先輩は、私を誘ってくださっている。

 その事実が私にはうまく飲み込めませんでした。


「タマキ」

「は、はい」

「何、その表情?」

「え? あ、すみません」


 私は思わず肩をすぼめて謝ってしまいました。

 頭は下げずにすみましたけど。


「やっぱ広瀬もいたのか。田中は……いるわけないよな」


 広瀬先輩がこちらに歩いてこられました。


「大川さん、こんにちは」

「あ、こんにちは、広瀬先輩」

「大川さんがいるのは当然として」


 広瀬先輩はそこで言葉を区切られました。


「土井がいるなんて、神様もびっくりだね」

「むむ。敢えて否定はしないけども」


 広瀬先輩の言葉に、土井先輩が返されました。


「ボクはゴールデン・ウィーク期間だから人が少ないと思って来てみたんだよ。予想どおり、電車も講義もすかすかでよかった。もちろん、今日出た分はあとでまとめて休むつもりだけどね」

「おいおい、らしいといえばらしいけど、単位は落とすなよ」


 広瀬先輩が苦笑いをされていました。


「せっかくだ、広瀬にタマキ、昼飯でも食いに行こうか?」

「土井が誘ってくれるなんて、今度は仏様もびっくりだけど」

「広瀬……田中がいない分、ボクへの口撃に遠慮がないな」

「このあとすぐ英研に行かなくちゃいけないから、悪いけど遠慮しとく」


 また今度誘ってよ。

 にこやかにそう言い残して行ってしまわれるかと思った広瀬先輩でしたが、2歩ほど歩くと、再びこちらを向かれました。


「そうだった……」

「どうした、広瀬?」

「O先輩に伝えておいたよ」

「ああ、そっか。例の件、O先輩、なんか言ってた?」


 O先輩は4年生で、Aさんいわく学年を代表する優等生とのことでした。

 私が挨拶したときは、何かの用事で忙しくされており、「慌ただしくてごめん」と言ってくださったことを覚えています。

 でも今、広瀬先輩と土井先輩が何について話をされているのか、O先輩のことも含め、私には分かりませんでした。


「土井がちっとも捕まらないって、嘆いてたよ」

「それは申し訳ないな……」


 土井先輩は、私にはちっとも申し訳なさそうに見えませんでした。


「もう避けているわけではないから、いつかは行き会うと思っているんだけどな」

「まったくのんきだなあ、土井は」


 O先輩の希望どおり、前期のうちに話を聞かなくちゃいけないぞ。

 広瀬先輩はそうおっしゃると、今度は英研に向けて行ってしまわれました。


「O先輩、か」

「どうかされたんですか?」


 私は「例の件」とはなんのことなのか気になっていたので、土井先輩に訊いてみました。


「んー、ちょっとだけ、な。それよりタマキ」


 土井先輩は私の質問を軽くあしらって、別の話題に替えてしまわれました。


「広瀬が行っちゃったということは」

「はい?」

「ボクとふたりになっちゃうけど、食べに行く?」


    *      *      *


「ボクから誘ったんだし、ボクは先輩なんだ。今回のところはボクのおごりだ」


 なんて言ったまではよかったのだけど、念のために財布をのぞいて持ち合わせを確かめてから、ボクはタマキにこう言う必要があった。


「ファミレスで、いいかな?」


 タマキはにこにこしながら「はい」と返事をくれた。

 とてもいい返事だった。

 そしてこう続けた。


「土井先輩にごちそうしていただけるなら、どこだってかまわないです」


 そこでボクは気がついた。

 広瀬がいたなら、頭の中で学校からのルートをたどって、上りの最寄り駅の近所にあるファミレスに行こうと思っただろう。

 いつもボクとタマキが使っている下りの最寄り駅の周りには手頃な店がないからだ。

 でも、今はタマキとボクのふたりだけ。

 帰り道が一緒ならそんなこだわりは不要だ。

 各駅停車でふたつ先の駅で降りるのもいい。

 定期の区間だから問題ないし、快速以上の電車は停まらない駅とはいえ、確か飲食店は充実しているはず。

 なんなら、各停にも乗らずにひとつ先の駅まで散歩がてら歩くのもいい。

 ボクの好きな店がひとつ、駅の近くにある。

 予算には注意だけど。


      *


 そんなことを脳裏に浮かべて正門へと向かいながら、ボクの左側から聞こえたタマキの声に、ボクは呼び戻されることになった。


「そうだ、先輩」

「なんだ、後輩」

「私、見つけました」

「何を?」

「“I'll Remember April”、です。バド・パウエルの」


 タマキは図書館のラベルが貼られたCDケースを、歩きながら器用に黒いバッグから取り出した。

 バド・パウエル・トリオ、ルーレット・レーベルの。

 国内盤では『バド・パウエルの芸術』というタイトル。

 帯がケースに貼られている。

 間違いなく、ボクが言ってたディスクだ。

“I'll Remember April”はディスクの冒頭で、バックはカーリー・ラッセルのベース、マックス・ローチのドラムス。

 レコーディングは1947年。


「あの、先輩、ひとつ確認しておきたいことがあるんですけど」

「何? どんなこと?」

「マックス・ローチって、確かクリフォード・ブラウンのレコードでドラムを担当しているんですよね?」

「ああ、そうだよ。そのマックス・ローチがどうかしたのか?」

「このバド・パウエルの演奏でも、マックス・ローチがドラムを担当していて……同じ人ですよね?」

「お、言われてみると確かにそうだ。さすがタマキ、よく気づいたなあ」


 ボクがそう認めると、タマキは大きくにこっとしてから、大事そうにCDをバッグへと戻した。

 CDなら言ってくれればボクが貸すのにな。

 タマキと並んで歩きながらそう思っている自分にハッとして、ボクはまた不思議な気分になっていた。


「もう聴いたんだろ。“I'll Remember April”、どんなメロディーだった?」


 ボクはさりげなくタマキに言った。


「そうですね、こんな感じです」


 タマキはテーマの1フレーズを「ラララ」で歌ってくれた。

 楽しそうに。


「ララララララーラ、ラララララー……あ!」

「おい、なんでやめちゃうんだよ?」

「だって」

「だって?」

「せっかくの名曲の品位を、台無しにしています」


 タマキは頬を赤らめながら言った。


「先ほどの私は、通りすがりの悪霊に……」

「取り憑かれていたんだな」

「はい」


 タマキは少しうつむきながら以前のボクのセリフを小声で引用した。

 そんなことを覚えているのがおかしくて、ボクは苦笑いではなく鼻からフッと吹き出してつい「ハハハ」と笑っていた。

 おまけに田中みたいにニヤリとしてしまった。


「土井先輩」

「ん?」

「初めてちゃんと笑ってくださいました」


 ボクは虚を突かれていた。

 タマキはにこにこしている。


「私、とても嬉しいです。カレンダーに花丸つけたいくらいです」

「なんだそれ」

「その調子です」

「何が?」

「笑顔です」


 タマキは自信ありげに言った。


「先輩は暗くなんかありません。そんなに楽しそうに笑えるんですから」


 タマキにそう言われて、ボクはニヤリ度がだいぶ上がっていることに気がついた。

 これでは「ニヤリ」と言うよりも自然な笑顔に近い「にこにこ」だ。

 まるでタマキと同じじゃないか。

 さらにそう気がついて、ボクは当惑した。

 ボクの、笑顔?

 なんとも言えない気分に、ボクはなっていた。

 タマキが光を当ててくれたのか。


「タマキ……」

「はい、なんですか?」


 タマキのにこにこは続いている。

 ちょっとからかってみたくなった。


「笑いすぎだ、タマキ」

「ええ? いいじゃないですか」

「やだ」


 タマキはふくれてしまった。

 どうしてそんなに表情が変わるのだろう。


「ごめんごめん。ふざけてみただけだから怒らないでよ。今日のタマキは笑顔が素敵だよ」

「そんなこと言われても、信じられません」


 今度はソッポを向かれてしまった。

 面白いヤツだ、やっぱり。


「でも今なら」


 タマキは立ち止まると、つられて立ち止まったボクをまっすぐに見直して、こう言った。


「おいしいコーヒー1杯で、許してあげます」

「そう来たか」


 タマキが敬語にこだわらずに話してくれることが、なんとなく嬉しかった。

 にこにこ顔に戻ったタマキの向こうに研究棟が見えた。

 ボクは研究棟のラウンジでお昼にするのも名案だと思いついた。


「ラウンジ・ブレンドでもいいかな?」

「なんですか、それ?」

「そうか、まだ知らないんだな」

「はい……」


 タマキはきょとんとしていた。


「ボクがお薦めできるおいしいコーヒーのひとつだよ。この学校の名物、だろうな」

「そうなんですか! でしたら、遠慮なくいただきます」


 タマキからゴー・サインが出たので、ボクは研究棟のラウンジにタマキを連れていくことにした。

 ゴールデン・ウィーク期間中だし、今日のラウンジはすいているに違いない。

 カレンダーどおりの営業だし、サンドウィッチやナポリタンくらいの軽食なら食べられるし……悪くないよな。

 タマキのにこにこは続いている。

 タマキは笑顔が素敵だと、ボクはついさっき冗談めかして言ったけれど、冗談になってないかもしれない。

 初めてラウンジ・ブレンドを飲んだとき、タマキはいったいどんな表情をするのだろう。

 ボクにはなかなか興味深いことだと思えた。


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