⑥ Hallelujah
田中先輩によると、昨年度の土井先輩は半分の出席を確保されるために、ほぼ隔週で学校に来ていらしたとのことでした。
もし土井先輩が今年も同じ考えでいらっしゃるとしたら、今日で3回目の「西洋音楽史」には出てこられる可能性が高いということになります。
私は幾分かの期待を抱いて講堂に向かいました。
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この日採り上げられた作曲家はヘンデルでした。
講師の先生がお見えになっても、土井先輩は最前列右隅の席にいらしてませんでした。
前回、バッハが採り上げられたときは欠席されてたはずですので、先輩がその席にいらしたのを私が確認しているのは初回だけです。
それでも、他の科目、例えば学科必修のもので先輩と私が同じ講義を履修していることがあるのですが、そこでも先輩は最前列の向かって右隅の席にいらっしゃいます。
出席されているときは……。
ですので、土井先輩はどの科目でもその定位置におられるのだと、私は思っていました。
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私のお気に入りである黒い肩掛けバッグから筆記用具とノートを出して顔を上げてみると、いつの間にか土井先輩があの席に座っておられるのが見えました。
おそらく、講師の先生に続くようにして、先輩の席のすぐそばのドアから入っていらしたに違いないと思います。
土井先輩は隔週で……田中先輩におうかがいしたとおりです。
私は胸をなで下ろしている自分に気がつきました。
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この時間に鑑賞したヘンデルの作品は、まず歌劇『セルセ(クセルクセス)』からのアリア“懐かしい木陰”でした。
この曲は元のタイトルが“オンブラ・マイ・フ(Ombra mai fù)”と言います。
鑑賞してみると、何年か前にウィスキーのCMでとてもすばらしい歌が流れていた曲だと分かりました。
もうひとつはオラトリオ『メサイア』から“ハレルヤ(Hallelujah)”でした。
「ハレルヤ・コーラス」としてよく知られている曲です。
私も知っていました。
堂々とした輝かしい響きの曲だと思います。
慣例として、この曲を聴く際には立ち上がって聴くものなのだそうです。
強制ではありませんが、私や土井先輩を含め3割くらいの学生が立ち上がったと思います。
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私が履修している午後ひとコマめの講義……学科必修科目は本日休講になっていました。
もうゴールデン・ウィークが近いからだと思います。
昨日の帰りに確認しておいた1号館そばの全学向けの掲示板は、休講を示す紙でほとんど埋まっていました。
うちの学科も、研究室前の掲示板は休講の紙がたくさん貼られていました。
ということはきっと、土井先輩は「西洋音楽史」終了後に講師の先生よりもずっとすばやく講堂を出て帰途につかれるはずです。
帰り道も電車も、私は土井先輩と同じとは言え、ちょっとしたタイミングで先輩が1本先の電車に乗ってしまわれるかもしれません。
「連休明けの次回はハイドンを採り上げます」
先生がそうおっしゃって講義が終わると、土井先輩は既に例の席にはいらっしゃいませんでした。
私は急いで筆記用具等一式をバッグにしまうと、一目散に講堂を出て土井先輩を追いました。
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土井先輩は私のずいぶん先を歩いておいでです。
私は先輩をうしろから呼んでみましたが、走りながらのことでしたので大きな声にはなりませんでした。
先輩は私に気づくことはなくあっさりと正門を出ていかれました。
駅までのルートは先輩も私と同じはずですからまかれてしまうようなことはないと思いますが、土井先輩は途中でどこかにより道をされるかもしれません。
もしそうなってしまったら、私には先輩を見失ってしまう可能性があります。
そんなわけにはいきません。
私は懸命に走っていましたが、土井先輩の歩くペースが速く、駅に着く前に追いつけそうもありませんでした。
それに体力的にも厳しくなってきました。
私は走るのはやめて、最後の一手を打つことにしました。
なるべく呼吸を整え、先輩の背中に向けて、思い切り声を出しました。
「土井先輩」、と。
日中のことではありましたが、道行く何人もの方たちが驚いた様子で私を見ていたと思います。
そのうちのひとりに、私のずいぶん先を歩いていた人が含まれていました。
びくっとして立ち止まり、おそるおそるこちらを向いてくださった土井先輩です。
先輩は少しうなだれていらしたように見えましたが、そのまま立ち止まられ、私が追いつくのを待っていてくださいました。
私は再び走っていました。
先輩をそう長い時間待たせてしまうわけにはいきません。
走るなよタマキ、そう聞こえた気がしましたが、私の足は止まりませんでした。
* * *
例によって「西洋音楽史」が終わった直後にボクは講堂を出て、脇目もふらず帰途についた。
この一週間ほどは時期的にほぼゴールデン・ウィークだから休講が多いはずだ。
ただしボクは掲示板のたぐいはひとつも見ていない。
休講であろうがなかろうが、しばらくは出る気がなかったからだ。
*
ボクは学校の敷地に沿ってできている歩道を進みながら、校内から張りだした桜の枝を見ていた。
淡い緑の若葉が萌えて枝々を飾り、気持ちよく風に揺れている。
たいへんよろしい。
あとはアメリカシロヒトリやモンクロシャチホコといった毛虫軍団がつかないことを祈るばかりだ。
歩道が終わり、いつものように右折すると、ボクは駅へと向かう道に歩を進めた。
もうすぐ4月が終わる。
後輩がひとりいるだけで、今までにない不思議な印象の4月になっている。
どう考えても不思議としかボクには言えない。
後輩と呼んでもかまわない連中は中学にも高校にもいた。
でもボクは部活に入っていたにせよ幽霊部員だったから、先輩とちょっとは会話したことがあっても後輩にはまったく無頓着で興味がなかった。
だから例え同じ部の後輩だったとしても、ボクが先輩であると気がついたヤツはほとんどいなかったはずだ。
大学に進んでもサークルに入る気はこれっぽっちもなかったので、これまでと同様に後輩とつきあうようなことは一切ないと思っていた。
ところが、思いがけずボクを「先輩」扱いするヤツが登場した。
タマキだ。
ボクにとっては初めての後輩と言ってもいいかもしれない。
これではタマキの存在を知ったこの4月が思い出として残ってしまいそうだ。
4月なんて昨年までは、進学しました、進級しました、その程度のひとことですむ出来事しかなかった。
こんなのは「思い出」とは言えない。
単なる事実、それだけのことだ。
去年の4月は田中や広瀬と知り合った。
でもこのことにしてもただの事実であって、「思い出」とするのは違う。
広瀬だって「思い出」などとおおげさに考えていないはずだ。
田中はひょっとすると卒業の頃に「いい思い出だった」なんて言うかもしれないけれども。
*
そんなことを考えながら歩いていると、背後からボクを呼ぶ声が聞こえた。
「ドイセンパーイ」
タマキだ。
他に選択肢はない。
おそるおそる振り返ってみると、案の定タマキの姿が見えた。
立ち止まって肩で息をしているようだったのに、タマキはすぐに走り出した。
ボクが振り向いたからだろうか。
やれやれ、とボクは思った。
そんなに急いで走ってくることもなかろうに。
タマキと初めて会った日のことを、ボクは思い出した。
あのときもタマキはこんなふうに走ってきて、ひどく汗をかいていた。
この分では今日も汗びっしょりだ。
風邪なんかひかないでくれよ、ボクはそう思っていた。
タマキのことを思いながら、タマキが来るのを待っている自分……どうしても不思議としか言えない。
それ以外にふさわしい単語が思いつかない。
「走るなよタマキ」
そう言ってみたものの、タマキには聞こえていないようだった。
タマキは息をはずませてボクに追いついた。
見るからに汗をかいている。
言わんこっちゃない。
「お待たせ、しました、土井、先輩」
ボクの目をまっすぐに見てにこにこしている。
ボクにとってタマキの印象は、「気遣いができて明るく元気で表情がよく変わる律儀で面白いヤツ」。
そこに「愛想のいいヤツ」を加えることにした。
「とにかく汗を拭けよ」
「そう、ですね」
タマキはジーンズのポケットからハンカチを出すのではなく、黒いバッグから白いハンドタオルを出した。
「用意のいいヤツ」だと思った。
せっかくだからこれも加えることにする。
つまり、「気遣いができて明るく元気で表情がよく変わる律儀で面白くて愛想がいい上に用意のいいヤツ」だ。
*
タマキが落ち着くのを待ってから、あらためて駅に向かった。
タマキはボクの左側を歩いていた。
「久しぶりにお会いできて、よかったです」
「久しぶり? そうだっけ」
タマキは何故かふくれてしまった。
「土井先輩は私のことなんか、ちっとも興味がないんだってよく分かりました」
「そんなことないよ」
「……嘘」
「嘘じゃないよ。興味が、というと語弊があるかもしれないけど、無関心なら待ってたりしないし話だってしないんだから」