④ Know What I Mean?
1号館の学食のうしろの方にあるふたりがけのテーブルで、ひとりうとうとしていたボクのところに田中がやってきた。
青いバッグを持った田中が腰を下ろしたボクの正面の席には、さっきまでタマキがいた。
*
タマキとは学食の入口で行き会った。
「土井先輩、おひとりですか?」
「そうだけど」
「でしたら、せっかくなのでご一緒させてください」
断る理由もないから一緒にお昼を食べた。
食べながら音楽の話をした。
タマキに訊かれるまま、ボクはジャズとクラシックをよく聴いていると言った。
細かいことは気にしてなかったから覚えていないけど、タマキもこれから少しずつ聴くと言ってた気がする。
その後タマキは研究室へ、ボクはひとりうとうと、田中がそこへ、という流れだった。
*
「てことは、土井は大川とメシを食うまでの仲になっていたのか」
田中のそのセリフで、ボクがタマキと一緒に食事をしたのは学食ではあるものの初めてだったと気がついた。
「なんだよ、後輩と昼飯を食うのは変なことか?」
「ヘンではないぞ。『仲良き事は美しき哉』と書かれた実篤先生に共感しただけだ」
「どうして突然、武者小路実篤なんだよ?」
「この間、恵子とふたりで実篤公園と記念館に行ったからだな」
「あ、そ」
「大川が仲よくしてくれてよかったじゃないか、土井」
「うらやましいなら田中もあいつと昼飯を一緒に食ったらいいだろ」
「そこはほら、オレには恵子がいるからな」
「ボクとあいつは田中と恵子ちゃんのような関係じゃないぞ」
「それは今後のお楽しみだな」
田中は納得したげな様子でニヤリとした。
オレには分かってるとでも言いたそうに見えた。
「それはひどいんじゃないか、あんなにマジメな後輩に対して」
「オイ、ずいぶん大川の肩を持つじゃんか」
「ボクみたいなろくでもない先輩を立ててくれる、見上げた後輩だからさ」
「土井がそう言うなら、今はそれでいい」
田中はニヤリとした様子を続けて、もっとこの話題を引っ張りそうだった。
女の話となると極端にモチベーションが上がるヤツだ。
ところが、田中は次にこう言った。
「用件は大川のことじゃないのだが」
「ホントか?」
ボクはびっくりした。
「女の話以外はしないんじゃないのか」
「バカを言うな。アルコールの話とか、ギャンブルの話とか……」
「分かった、もういい。次に行ってくれ」
ボクは呆れた感じで返した。
「おお、そうだった。バカ話をしに来たんじゃなくてだな」
「バカ話という自覚があったのか」
「土井、今は蒸し返すのはよせ」
「そうですか。ではどうぞ、田中様」
「仕方ねえヤツだな」
今度はボクが田中に呆れた感じで返されてしまった。
「なら言うが、4年のO先輩に話しかけられてだな、土井のことを訊かれたんだよ」
「なんで?」
「なんでなのかは知らん。確かなことは、O先輩が土井のことを気にかけているということだ。『土井くんは去年からなんだかつらそうにしてるけど、大丈夫なのか』ってな」
「どうして田中が訊かれたんだろ?」
田中は言うまでもないという様子でこう答えた。
「O先輩はしっかり見てくれているんだよ、オレたちのような後輩でもな。土井とオレと広瀬がよく一緒にいるから、まずオレに訊いてみたってさ」
「なるほど」
詳細はうろ覚えだけれど、O先輩には去年お世話になったことがある。
ボクは合宿所行きのバスに酔ってダウンしたのだ。
「O先輩が今でも気にかけてくれているとしたら、ありがたいような、不思議なような……どうしてだろ?」
「土井みたいに暗い顔した後輩は初めてなんだろうさ」
「今日もよく言ってくれるじゃないか」
「ここでおべっかを使うようなつきあいじゃないしな」
「確かに」
「オレだってO先輩の真意は分からんが、次に先輩と行き会ったらひとことお礼ぐらいしたらどうだ」
「……そうだな」
「O先輩は土井みたいな後輩に関わっちまって不幸なことだ。運の尽きかもしれん」
田中にそう言われても、反論する気になれなかった。
*
去年、今よりずっと暗かったボクに、懸命に関わってくださった先輩。
もしかしたら立場上仕方のないことだったのかもしれないけれど、そんな先輩はO先輩ただひとりだった。
自分で言うのはおかしいかもしれないが、ボクがO先輩の立場だったなら、去年のボクに近づこうなんてまったく思わない。
なんだかんだと理由をつけて避けたことだろう。
O先輩だってそうしようと思えばできたはずなのに、いまだにボクを気にかけてくださっているとは……。
去年よりはマシになってきたものの、ボクは人づきあいを極力避けたままなので、O先輩と話をしたことはあれから一度もない。
それでも、ボクなりに敬意は持ち続けている。
O先輩には頭が上がらない、そう思っている人は多いはずだ。
ボクから見てもすごく人徳がある先輩なのだ。
* * *
別の日、必修科目終了後早々に教室を出たボクを追って、広瀬がやってきた。
「ちょっと待って、土井」
「広瀬? どうした、追ってくるなんて珍しい」
「話があってさ」
「ボクに?」
「そうに決まってるよ」
「なるほど」
「あんまり人がいない方がいいと思って」
広瀬とボクは、中庭を抜けて正門とは逆の方向に歩くことにした。
これなら人の流れと重ならない。
広瀬がボクを追ってきたことは田中なら分かったかもしれない。
でも田中の姿はない。
広瀬とボクの周りにはほとんど人影がなかった。
ボクは広瀬に訊いた。
「ヤバイ話か、それ」
「ヤバイかどうかは知らない。知っているのは土井だろう」
「いったいなんのことだ?」
「4年のO先輩から……」
「またしてもO先輩が?」
「なんかO先輩とあったの?」
「いや、この前田中にもO先輩のことを言われて」
「それじゃ同じ話かな。O先輩に頼まれたんだよ、土井に伝えてくれって」
ボクは田中に聞いた話の続きかもしれないと思った。
「だったらきっと、田中とは別の話だな」
「まあそれはいいけど、とりあえず言っとくと、土井と直接話がしたいんだって。アルバイトの件で」
「アルバイト? なんでなのか想像もつかないな」
「できれば前期の早いうちに決めたいからって、言ってた」
「なんだろな……」
広瀬はさっき「それはいいけど」と言ったときの表情になった。
「伝えたからね、きちんと」
「ああ、ありがとう」
「で、ここから先はぼくの想像なんだけど」
伝言についてはあっさりすませて、ようやくまともな出番がきた。
ボクには広瀬の様子からそんなふうにうかがえた。
「かまわないから言ってくれ」
「うん」
広瀬はひとつうなずくと言い始めた。
「O先輩は4年だし、バイトを辞めようと思ってて、後釜を捜してるんだと思うよ」
「そうなのか?」
「土井は聞いたことないかな? 3年の先輩たちがときどき話してるんだけど」
「ちっとも分からないよ。3年生とのつきあいもないし」
「O先輩がしているバイトは人気があるらしくて、引き継いでほしがってるようなんだ、3年の先輩たちは」
「だったら、O先輩と交渉してみればいいのにな」
「バカだな、土井」
広瀬に呆れた感じで返されてしまった。
身に覚えがある場面だった。
「広瀬にそうはっきり言われると、ずいぶん応えるもんだな……」
「そうしたくないから、O先輩は土井と話したいってことだよ」
「あれ?」
どうやらボクはバカらしい。
「となると、つまり、O先輩はボクに引き継ぎたいってことなのか」
「ぼくの想像ではね。あながち、当たらずとも遠からずだと思うよ。悪い話じゃないだろうし。だからさ」
広瀬は続けた。
「次にぼくがO先輩に会ったら、今日のことは伝えておく。土井は土井なりに、O先輩と話をしてみたらいいんじゃない?」
それじゃ、英研に行くから。
広瀬はそう言い残して去っていった。
ボクはその場で広瀬を見送りながらおかしな気分になってきた。
田中に続いて、広瀬までもが。
広瀬の話の後半が仮の話だとしても、O先輩はどうしてボクになのだろうか?
想像もつかないまま時間が過ぎていった。
* * *
同じ講義はとってない日、田中はまた学食のこの席にやってきた。
今回もひとりだった。
「オイ、またこんなところで寝てんのか」
「どこでうとうとしてても、田中とは無関係だろ」
「冷たいヤツめ。それはそうと、ここでメシ食ってもいいか?」
田中は青いバッグの他に、A定食を持っていた。
「いいよ。遠慮すんなよ」
「サンクス。実はここに土井がいるんじゃねえかと当てにしてた」
田中は前回のようにボクの正面、あの日はタマキが座ってた席に着いた。
ボクはこの日、タマキの顔は見ていなかった。
「A定食か。好きだな、田中は」
「土井はB定だっけ、あれよく食ってんじゃん。お互いさまだ」
「確かに」
広瀬や恵子ちゃんはどうしたのか、ボクは訊いてみた。
「あいつらはそれぞれ、サークルの方だろうな」
ちょっとの沈黙のあと、早食いの田中は立ち上がって空の食器を持った。
「早けりゃいいってもんじゃないだろ」
ボクは言った。
田中がいつもタイム・トライアルをしているかのように見えていたからだ。
「まあそう言うな。部活に打ち込んでいた名残りだ」
田中はニヤリとしながら言った。
「早食いを競う部活なんてボクは知らないぞ」
田中はニヤリとしたままで、反論はなかった。
「片付けがてらお茶を持ってくるが、土井も飲むか?」
「早く食いすぎてどうかしちゃったんじゃないだろな」
「土井」
「なんだ、田中」
「うるさい」
田中らしいひとことだった。
「で、どうする?」
「ありがと。よろしく」
*
ボクは田中が持ってきてくれたお茶を飲みながら、引き続きテーブル越しに田中と話した。
「しかし土井はお昼の混む時間によくこの席をキープできてんな。なんか、裏でやってんのか?」
「例によって失礼なヤツだな。裏でこそこそなんて、そんな面倒なことボクがするもんか」
「おお、言われてみるとそのとおりだ」
田中はボクのコメントに納得したらしい。
「じゃあどうしてんだ?」
「ちょっとしたコツがあるんだけど」
いい機会だと感じたので、ボクは田中に伝授することにした。
「すぐうしろの壁際に、テーブルや椅子がたたんで置いてあるだろ」
「あるな」
「そのそばに、たたまれたテーブルクロスが何枚かと、『予約席』っていう小さい立看板みたいなのがいくつかあるよな」
「あるな。しかし、テーブルクロスなんて、どの席でも使ってないのにどうしてあるんだ?」
「よく気がついたな。そこがひとつのポイントだ」
「ポイントだって?」
「通常使われていないテーブルクロスが、どこかの席にたたんだまま置いてあったら、田中はどう思う?」
「そうだな……ん? てえことは」
「閃いたか? ボクはあそこからクロスと『予約席』をひとつずつ借りて、ここを出るときにこのテーブルの上に載せていくんだ。クロスはたたんだままテーブルの中央、その上に『予約席』を置いて」
「はあ? とんだ悪知恵だ。そんなのありか?」
「シッ、騒ぐな」
ボクは前屈みになって右手の人差指を鼻に当てると、多少声を抑えながら続けた。
「ボクは隠れてやってるわけじゃない。第一、隠れてなんてできっこないだろ。誰の目も気にせず、堂々とだ。だからなのか、今まで誰からもおとがめなしで現在に至っている」
「学食のおばちゃんにも?」
「そうだ」
「ときどきいる職員や先生にも?」
「そうだ」
「他の学生からもか?」
「そうだ」
「やってくれるじゃねえか! オレは土井を見直したぞ」
「落ち着け田中」
ボクは小声ながらビシッと田中を制した。
田中は慌てた様子で口をつぐんだ。
「だからな、田中。ボクがいないときはおまえがここを使えばいいよ。この方法で」
「それならありがたく引き継がせていただこう」
田中は腕を組んでニヤリとしたが、急に慌てたように言葉をつないだ。
「ってだが待て土井」
「なんだ、田中」
「土井はこれまでいい感じで学校に出てきてんだから、その調子でこれからも出てくるんじゃねえのか?」
「まさか」
「まさかって、オイ」
「年度アタマに正門のところで言ったとおりだ」
「土井……」
「田中の気遣いはありがたい。でも、ボクは無理をする気はないんだ」
「イヤ、オレだって無理をしろとは言わんがな」
「それがいい、そのままで頼むよ」
田中のくせに、神妙な顔で黙ってしまった。
「この席の管理は田中に任せる」
「……なんかすっきりせんが、とりあえずここでノートを書かせてもらうぞ」
田中はしばし顔をしかめていたが、気がすんだのか、青いバッグからノートを取り出した。
表紙に書いてある文字がちらっと見えた。
教科名ではなく「小野」と読めた。
「田中、それ恵子ちゃんの?」
「そのとおりだ。実はさっきの講義だが、オレは寝坊してサボってしまった」
「それでよくボクのことが言えたもんだな」
このひとことについて、田中はまったく気にしてないようだった。
「終わる間際に教室の外で待ってて、うまいこと恵子からノートを借りたんだが、早く返さんとイカンのだ」
「ノートなら、次のコマの教室ないし空き教室で書いた方がいいんじゃないか? 学食のテーブルよりよっぽど書きやすそうだ」
「そうかもしれんが、それじゃ目立ちそうだし、勤勉そうに見られるのが心配だ」
「面白いことを言うな、田中」
ボクはいつもの田中のまねをしてニヤリとしてみた。
「大丈夫だって。田中なんだから」
「それはどういう意味だ?」
「何してたって、田中を勤勉そうだと見るヤツなんていないから安心しろ」
「土井」
「なんだ、田中」
「どうして土井はオレにいつも遠慮がないんだ?」
「遠慮してほしいのか?」
「……イヤ、別にかまわん、か。土井らしくてけっこうなことだ」
田中はちびた鉛筆を右手に持ったまま、お手上げのポーズをとった。
「では引き続きこのままで」
「分かったよ、オレの負けだ。仕方のないヤツめ」