表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
3/8

③ I Didn't Know About You


 午後の風は強く吹くものだった。

 中庭に桜はないのに、はるばると花びらが飛ばされてくる。

 そのうちのひとひらが、タマキの黒いバッグの上に舞い降りた。

 それは暗い闇を照らすひと筋の光をボクに思わせた。

 でも実際はそう思う間もなく、タマキの髪を派手に揺らした一陣の風によって瞬時にかき消されてしまった。


「男かと思ったよ」


 挨拶に来てくれた後輩女子に向かって、深く考えることなくボクはそう言ってしまった。

 タマキはショックを受けたらしい。

「ガーン」という効果音が聞こえてきそうな表情になっていた。

 そんなタマキに遠慮することなく、ボクは確認してみた。


「今更だけどさ」

「はい?」


 タマキはしょんぼりと答えた。


「女の子だよね?」


 タマキは再度効果音が聞こえてきそうな表情になった。


「そうですけど……」

「タマキ、か。苗字なのか、名前なのか、両方なのか、よく分からんヤツだ」


 タマキの表情に赤みが差した。


「ひどいです、先輩。両方はないですよ」


 タマキはふくれてしまった。

 一見して「おかんむり」なのが明らかだった。


「冗談なんだって分かりますけど、ちっとも笑えません」

「ごめんごめん」

「きちんと言い直しますけど、私、大川おおかわたまきです。タマキという字は、『環境』のカンの字です。ファースト・ネームです」


 タマキはそこまで一気に言うと、さらに続けた。


「『かん』という字は、『車輪』のリンの字、『』につながって、『輪』はいんが『平和』の『』へ続く、素敵な字なんですよ」


 なるほど。

 耳に入ってくる音では分かりにくかったけれど、タマキが言ったことを冷静に頭の中で漢字にしながら、ボクは理解した。

 タマキは自分のファースト・ネームの「環」という字に誇りを持っているのだ。

 ボクは自分の名前になんの思い入れもない。

 親からいわれを聞いたときでさえ「そうですか」と思った程度だ。

 周知のようにこの5文字のひらがなは「何も言うことがない」という意味だった。

 ボクはとりあえずタマキの解説が理解できたことを伝えた。


「了解」


 タマキはまだ言い足りない様子で、左手を腰に当て、右手は人差し指だけを伸ばした形で前後に振りながら、プンプンした表情をあらわにしてボクに言った。


「それに、これでも『女』なんですから、もう間違わないでくださいね」


 タマキに言われたことは最もだった。

 ボクはそのままタマキの主張を受け入れた。


「よく分かったよ、ごめん。あらためてよろしくな、タマキ」


 ボクがそう言うと、タマキは一瞬にして嬉しそうな表情になった。

 表情がよく変わる。

 初対面のボクにいくつ表情を見せるつもりだろう。


「ありがとうございます、土井先輩。こちらこそ、あらためてよろしくお願いします」


 タマキはまたもボクに頭を下げた。


「そんなおおげさにする必要ないよ。ろくな先輩じゃないしさ」

「それは……今はまだどんな先輩なのか分かりませんけど、土井先輩が『いい人』なのは分かりました」

「は?」


 なんだそれ、とボクは思った。

 ボクを持ち上げたところでメリットがあるはずないし。


「これからもときどき、話しかけてかまわないですか?」

「んー、まあ、もう知り合いだし、話しかけられてもボクはかまわないけど」

「本当は、いやなんですか?」

「そんなことないよ。ただ、ボクなんかと一緒にいるのはよくないんじゃないかな」

「どうしてですか?」

「どうしてってこともないけどさ」

「でしたら、かまわないですよね」


 タマキは何故か積極的に攻め込んできた。

 ボクと話したがる女の子だなんて、いつ以来のことやら。


「仲よくしてください、土井先輩」


 ぺこりと頭を下げたタマキは、なかなかかわいい笑顔でボクの目を見ていた。

 でもそのかわいさは、ボクにはどう表現すればいいのかよく分からないものだった。

 ただ、ひとつだけ感じたことがあった。

 ボクにとってそのかわいさは「女」としてのものではない。

 そう感じたのだった。


    *      *      *


 それからと言うもの、タマキは本当によく話しかけてきた。

 別に待ち伏せをされていたようなことはないけれど、学内でよく行き会い、そのたびに声をかけられることになった。

 同じ学科だからニアミスの可能性は高いとは言え、田中や広瀬と行き会うよりもタマキの顔を見る方がずいぶん多かった。

 その上、驚いたことに、タマキはいつもボクと同じ路線の、同じ方向へ走る電車に乗っているのだと知ることになった。


    *      *      *


 ある日の必修科目の終了後、いつものごとく早足で教室を去ったボクの背後から、幾度目なのか分からない「ドイセンパーイ」という声が聞こえた。

 タマキであることは疑いようがなかった。

 しょうがないのでタマキが追いつくまで待っていた。

 タマキは初対面のときのような全力疾走ではなく、小走りでやってきた。

 歩いてでいいんだけどなとボクは思った。


「待っていてくださって、ありがとうございます」


 タマキは今回もぺこりと頭を下げた。

 何かのたびに頭を下げられるのはむずむずするので、ボクはタマキにこう言った。


「今後はボクに向かって頭を下げるの、禁止だ」

「え、どうしてですか?」


 それは困るとでも言いたげなタマキの表情だった。


「なんかボクが偉そうで、イヤなんだ」

「でも……」

「了承しないなら、これからボクは態度を変えるからな」

「脅すんですか、先輩」


 タマキはやや上目遣いでボクを見つめた。


「脅しではない。ボクにとって真面目な方針だ」

「でしたら……嫌われたくありませんので、分かりました」

「なかなか素直でよろしい」


 結局偉そうに言ってしまったボクだけど、「嫌われたくないので」とは何ごとかと思った。


「それと、だ。タマキ」

「まだ何かあるんですか?」


 不安そうな表情だった。


「いちいち敬語を使わなくてもいいんだけどな」

「そこは譲れません」

「なんで?」

「私は先輩に敬意を持っているからです。なあなあなおしゃべりなんて、失礼すぎます」

「そうかな」

「そうですよ、先輩。私はひとつ認めたのですから、先輩もひとつ、認めてくださいませんか?」

「律儀なヤツだな」

「はい?」

「分かった、認めるよ。了解」

「そう言っていただけて、嬉しいです」


 にこにこしている表情だった。

 ボクにはタマキがいつも元気に見えていた。

 まるでボクとは正反対だと思った。


「これから帰られるんですよね?」

「ああ、そうだけど」

「ご一緒しても、よろしいですか?」

「なんだって??」

「……いやなんですか?」


 タマキは少しうつむいた。


「そんなことないけど、もしかして、同じ路線なのか?」

「はい」

「……同じ方向で?」

「はい、そうなんです」


 顔の向きが戻って、にこにこしている表情も戻っていた。


「先輩のあとをつけていたわけではありませんけど、帰り道や通学途中で、よく先輩をお見かけしていました」

「なんてこった」


 これでタマキと会う可能性は飛躍的に高まった。

 会うとは言えなくても、前やうしろにタマキがいるかもしれない。


「帰り道ですと、先輩は私より先に電車を降りてしまわれますけど」


 それはつまり、ボクの最寄り駅をとっくに知っているという意味だった。

 そこまで知られていてはどうにもならない。

 ボクはタマキと帰ることを承諾した。


      *


 タマキはボクの左側を歩きながらにこにこしていた。

 無言のままなのは奇妙なので、何か話でもと思ったのだけど、話題がどうも思いつかない。

 駅が見えてきた頃、逆にタマキから話しかけられた。


「先輩は、普段は何をされているんですか?」

「何をって……呼吸とか」

「ひどいです、先輩」


 すねた表情。


「そんな意味じゃないって、分かってるくせに」

「んー、仕方ないな」

「仕方ないんですか? 私と話をするの、いやですか?」

「そんなことないよ」


 そう答えてみて、このパターンの会話が多いことに気がついた。

 ボクはタマキにいるのだろうか。


「もしご迷惑なのでしたら」


 改札に向かう階段を下りる前に立ち止まり、タマキが悲しそうな声を出した。


「遠慮なさらずに、そうおっしゃってください」


 うつむかれてしまった。

 さびしげな表情で。

 これではまるっきりボクがタマキをいじめているみたいだった。


「迷惑なんてことないから、そんな顔するのはよせ」

「え?」

「タマキがボクによく話しかけてくれて、嬉しいと思ってるよ」


 サーヴィスしすぎのひと言かもしれなかった。

 けれども、タマキと話していて悪い気分になったことは一度もない。

 人づきあいが苦手なボクにとって、女の子としては例外的な、とても珍しいことだった。

 タマキには、ボクに暗いイメージはないのかもしれない。

 去年のボクのことは知らないわけだし。

 ボクだってこれまでのタマキがどんなヤツだったのか知らない。

 でも、今ボクが抱いているタマキの印象は、「気遣いができて明るく元気で表情がよく変わる律儀なヤツ」、ということだった。

 これはボクにしてはかなりいい印象だ。


      *


 タマキの機嫌が戻ったところで、タマキとボクは同じホームに立っていた。

 数分後、各駅停車が本線からはしっこの1番線に入って、停まった。

 これから2番線に来る快速の通過待ちだった。

 ボクはなんの迷いもなく各駅停車に乗ろうとした。


「えっ?」


 タマキは小声で驚きを表現した。


「土井先輩は快速や急行に乗られた方が早く帰れるんじゃ……」

「それはそうなんだけどさ。この時間の各停ならがらがらだから確実に座れるし、慌てて帰っても特にすることもないし」


 苦笑いしながらタマキにそう言ったものの、いちばんの理由はそうではなかった。

 快速や急行には各停よりも人が多い。

 これだけでボクには充分回避したい理由になっていた。

 早く着けばいいというものではないのだ。


      *


 ボクが各停に乗り込んでシートに座ると、タマキはついてきてボクのすぐ左に座った。


「そう言えば、タマキの最寄り駅って、どこ?」

「あ、それはですね」


 タマキは開いているドアの上方に掲示されている路線図を見て、指を折りつつ何やら数えていた。


「先輩の最寄り駅から、各駅停車で5駅ほど先になります」

「ん? ということは……タマキこそ快速や急行に乗った方がいいだろ」

「いえ、私も、そんなに慌てて帰ってもすることがありませんので……」


 タマキはボクの方は見ずに、足元を見ながらそう言った。


「無理してボクに合わせなくたっていいんだぞ。もうすぐ快速が来るし、そっちに乗れば」

「私が隣にいるの、イヤですか?」

「そんなことないよ、ってまたこのパターンか」


 タマキはくすっと笑った。

 どうやら今のセリフはわざと狙って言ったらしい。

 快速は2番線に停まり、車掌さんが客の乗り降りを確認すると、そそくさとドアを閉めて走り去った。

 タマキはボクの左に座ったままだった。


「土井先輩は、他の先輩方からうかがったお話とはずいぶん違う人ですね」

「なんだそれ。もしかして、どうせろくなこと言ってないんだろ、どいつもこいつも」


 タマキはさらにくすくすと笑った。

 軽く握った右手を口元に添えていた。


「土井先輩は、とっても面白い人ですよ」


 たぶんタマキはそう言ってくれたと思うのだけど、各停の出発の音が重なってよく聞き取れなかった。

 各停が本線の線路に戻るとき、いつものように車両が揺れた。

 タマキがボクに寄りかかる形になった。


「あ、ごめんなさい、先輩」


 慌てて体勢を戻すと、タマキは言った。


「何が?」

「……ありがとうございます、先輩」

「お礼を言われるようなことをした記憶はないけど」

「それは違いますよ。私、楽しいですから」


 タマキは不思議なことを言った。

 楽しいのはけっこうなことだけど。


      *


 停車駅間が短い各停は、ほどなく次の駅に停まろうとしていた。

 そんなふうに、既にふたつの駅をやり過ごしていた。

 通過待ちはしばらくないはずだ。


「そうだ」


 ボクはひとつ話題を思いついた。


「前々から訊こうと思っていたんだけど」

「はい、なんですか?」

「どうしてわざわざ挨拶に来てくれたんだ?」

「あ、そのことですか。私、お話ししてませんでしたっけ」

「聞いてないぞ」

「すみません」


 タマキの頭がぺこりと下がった。

 膝の上に載せているバッグすれすれのところまで。


「タマキ」

「はい?」


 タマキは顔を上げてボクを見た。


「ちょっと前に言ったことだけど、ボクに態度を変えてほしいようだな」

「あ、ごめんなさい」


 そう言いつつ、タマキはまた頭を下げかけた。

 しかし、途中でどうにか動作を止めた。


「危なかったな」

「はい……すみません」


 頭は下がらなかったものの、うつむいてしまった。


「これからは頭を下げないように鍛え直してくれ」


 ボクの言葉はタマキの予想を超えていたらしい。

 顔を上げたタマキの表情は、驚いた様子になっていた。


「先輩」

「なんだ、後輩」

「ありがとう、ございます」


 何故かタマキは肩をすくめてもじもじしていた。


「なんでそうなってんだ?」

「私にも分かりません」

「面白いヤツ」

「え?」


 タマキの印象に「面白いヤツ」が追加される頃、各駅停車はまた次の駅に停まろうとしていた。

 ボクの最寄り駅にどんどん近づいている。


「私」

「ん?」

「土井先輩が最後にいてくださって、よかったと思っています」

「それって、なんのこと?」


 はっとした表情に、タマキはなっていた。

 まるで口を滑らせたかのように見えた。


「あの、それは……」


 タマキが言いきらないうちに、ボクは電車を降りることになった。

 ボクの質問に深い意味はなかったので、お気に入りのバッグ……黒くてでっかい袋型、通称ズタ袋バッグ……を肩にかけ直し、粛々と降りることにした。

 電車が停まり、ドアが開いた。


「またな、タマキ」

「あ、はい。失礼します」


 タマキの頭がぺこりと下がった。

 ドアが閉まる間際に、ボクは敢えて指を差し「頭下げんなよ」と突っ込みを入れた。

 ドアの音や走り出す際の音のせいで、タマキには聞こえなかったかもしれない。

 けどボクには、ドア越しに「しまった」という表情の、両手で口元を押さえたタマキが見えていた。

 電車はそんなタマキを乗せたまま、次の駅へと動きだした。

 タマキもボクと一緒にここで降りて、快速や急行に乗り換えてもよかったはずなのに、口元を押さえることに全力を尽くしたらしい。


「やっぱり面白いヤツだ」


 遠ざかる電車を見送りながら、ボクはつぶやいていた。

 Aさんのようにニヤつきながら。

 そう気がついて、自分に驚いてしまった。

 こんな明るい気分になっているのはいつ以来だろう。

 暗いトンネルの中にいることに変わりはないけれど、出口から入ってくる光は次第に明るさを増している。

 どうして挨拶をしに来てくれたのか、その答えは聞けないままとは言え、タマキにお礼をしてもいいかもしれない。

 そんなことを考えながら、ボクは改札に向かっていた。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ