② Me And My Shadow ~ La Primavera
あの田中に簡単に指摘されるくらい、ボクが暗くなっている理由は簡単に言える単純なことなんだと、また思い返すことになった。
なるほど、そのとおり。
自分でも分かっている。
まだ時間が必要だということも。
理由が単純なことほど、深く突き刺さるものだということも。
そして、田中の読みは外れてないとは言え、それだけが理由ではないことも。
* * *
偶然だと分かっていても、ボクにとって重すぎる事案が重なったことに耐えきれなかった。
つきあっていた彼女との別れ。
ボクはひどく打ちひしがれることになった。
その後間もなく両親の離婚。
ボクにとってはどちらも青天の霹靂だった。
両親の離婚には、もう子どもとは言えない年齢になっていたというのに、ボクは説明できないほどのものすごい衝撃を受けてしまった。
うちは幸いなことに明るく平和な家族なのだと思っていたから。
離婚してしまうほど両親の関係が悪化していたなんて、まったく気づけなかった。
自分の目の節穴さ加減に呆れるべきかもしれなかったが、弟もその事実にひどくうろたえていた。
ボクは現在通っている大学に合格していた。
弟は高二になろうとしていた。
しかし、父も母も離婚の理由について何も言ってくれなかった。
ただひとことだけ、「時間が必要だ」ということを除いては。
*
予想がつかない現実に出くわしたとき、人はずいぶん弱い生きものなのかもしれないとボクは感じた。
それまで疑いなく信じていた大切な関係が、いくつも呆気なく壊れてしまった。
ボクはどうしていいのか、何も思いつかなかった。
家を出てひとり暮らしをすることは受験前から決めていた。
機械的にひとり暮らしを始めたボクは、部屋に自分以外の人間がいないために言葉を忘れたかのように押し黙っていた。
*
……およそ一年が過ぎ、そんなボクでも学校に行く以外ほとんど外に出ない生活からは抜け出しつつある。
はず。
そんな気がしていた。
アップダウンの繰り返しはあるけれど、無事散髪に行けたのがその証拠だ。
ほんのちょっぴりずつでも前に進んでいると思いたい。
カタツムリ並みのスピードだとしても。
もうしばらく暗いトンネルの中にいるだろうけれど、出口は見えている。
そう思えるようにはなってきたのだから。
* * *
桜はようやく散り始めていた。
風がちょっとでも吹けば、並木の下にいわゆる桜吹雪が乱れ落ちた。
学校の敷地に沿ってできている歩道では、すれ違う人たちの肩や頭や靴、ときには鼻の頭にまで花びらがくっついた。
鼻の頭に、というのはボクのことだった。
*
正門付近で田中とやり合った翌週から講義は始まった。
まだ休講が多かったけれど、とにかく、全履修科目とも初回には出るつもりだった。
精神的に厳しいとしても、その後のことを見極める材料として。
それからのことはともかくとして。
*
今年度の唯一の救いは、火曜日の2限に「西洋音楽史」をとれたことだった。
昨年度は必修科目とぶつかっていてとれなかったのだ。
通年科目ではあるものの、一般教養だから苦もなく単位を取れると思うし、無類の音楽好きのボクにとっては、例え真面目に講義を聞かなくても好成績が修められる気がしていた。
単位が取れれば成績は気にならないけれど。
*
1回目の講義で、講師の先生が「出席は重視しない」と言ってくださった瞬間、田中ではないがボクの「負け」はなくなったと確信した。
出席をとることがないのだから、全部サボったとしても年度末の試験にパスすればいいのだ。
ペーパー試験でも小論でも、なんでも来いと思った。
先生は、年代順になるべく多くの作曲家を紹介する旨を伝えてくださった。
主要な曲を鑑賞するということも。
クラシック好きのボクとしては是非それでお願いしたい。
ボクの「勝ち」は揺るがないにしろ、趣味の一環としてサボる気はなかった。
癒しの時間を逃す手はない。
*
最初に採り上げられた作曲家はヴィヴァルディだった。
となると、当然ながらおなじみの“四季”を聴くことになった。
ヴァイオリン協奏曲集「和声と創意への試み」、全12曲中の第1曲~第4曲。
すっかり聴き飽きてる曲にしろ、たまに聴く分には悪くない。
悪くないから今も生き残っているのだ。
ボクにとって名曲とはそうした曲であり、ヴィヴァルディの“四季”は間違いなく名曲だ。
その1曲目はもちろん“春”。
春にまともに“春”を聴くというのはベタなことだけど、雰囲気的には合っていると思えた。
ストラヴィンスキーの「春の祭典」より、はるかに。
*
ボクは講堂の最前列、向かって右隅の席を確保していた。
ここならまず他のヤツらは近づいて来ないだろうし、いざとなれば1秒後には外に出られる。
この科目ならうちの学科の人間はいないだろうし、いたとしても顔が分からないのでどっちでもいいけれど、とにかく話しかけられることはまずないだろう。
ボクにとっては万全の席だ。
「ギター協奏曲」の第2楽章をゆったり聴いたあと、講義は終了した。
すかさず一目散に講堂を出ると、ボクの名前を呼ぶ声が聞こえた。
気がした。
「ドイセンパイ」
まったくおかまいなしに、振り返ることもなくボクは立ち去った。
声は女の子のようだった。
女子に呼ばれるような覚えは学内でも何ひとつない。
ましてや「センパイ」なんて呼ばれることがあるはずない。
幻聴が聞こえるほど体調が悪いのでもない。
気のせいに違いない。
でも理由は思いつかない。
* * *
その後も日を変えて、場所を変えて、「ドイセンパイ」と呼ばれた。
気がした。
何度も。
こうなってくると気のせいではすまない。
幻聴とするには生々しすぎる。
ボクは考えてみた。
ボクを「センパイ」と呼ぶからには、声の主はボクの後輩、つまり1年生ということになる。
はてさて、1年生に知り合いなんぞいるはずがない。
どれだけ1年生が入ってきたのか知らないけれど、誰ひとりとして心当たりがない。
仮に高校の後輩だと考えられるヤツが入学してきたとしても、ボクが声をかけられるとは思えない。
なのに、どうして?
ボクのことを一方的に知っているなんてことがあり得るのだろうか。
どう考えても謎だった。
謎である限り、近づかないでおく方がいい。
うかつに関わるのは危険と判断した。
ということで、ボクは極力聞こえないふりをすることに決めた。
不安からは逃げ切っておきたい。
誰しもそう思うのではなかろうか。
*
しかしこの作戦には大きな弱点があった。
遠くから、あるいは後方から呼ばれたならば、充分有効な手ではあった。
ところが、今、こんなふうに中庭の横の道を、見通しがすごくいい道を歩いているときに前方から声をかけられると、もうどうにもならない。
逃げ出すことは充分に可能だけれども、露骨に避けていることが明らかになるのは心苦しい。
本来、ボクがこそこそするような理由は何もないし。
ため息ひとつのあと、諦めて堂々と会うことが最善だろうとボクは判断した。
一度でも会っておけば、もう呼ばれることはないだろうし。
*
午後の風は強く吹くものだった。
中庭に桜はないのに、はるばると花びらが飛ばされてくる。
「ドイセンパーイ」
もはや幻聴の可能性はない。
「すぐ行きますのでえ、待ってくださあい」
大きな声でそう言って、花びらが舞う中をボクの方へ走ってくるヤツが見えた。
いかにも全力で走って来る。
これなら花びらがくっつくことはないだろう。
服装は白いシャツに黒い、ジーパン?
髪は肩ぐらいまである。
声は女の子のように聞こえたけど、その姿は長髪の男子に思えた。
まあ、男だろうが女だろうがかまわない。
ヤツはボクのすぐ目の前で止まると、ハァハァしながらこう言った。
「すみません、息をと、整えま、すので、もう少し、だけ待って、いて、ください」
ずいぶんしんどそうに見えた。
両膝に手を当て、下を向いている。
汗ばんだ背中に花びらが載る。
靴はきっとジョギング・シューズ、ブランドはニュー・バランスだった。
白いシャツは大きめ、明らかに男物。
第1ボタンは外している。
袖を2、3回めくってある。
肩が上下するたび、肩にかかった黒いバッグが揺れる。当然だけど。
厚みはそれほどでもないのに、A3サイズまでは折らなくても入りそうな、案外大きなバッグだった。
それにしても。
「そんなに急いで走ってくることもなかろうに」
ボクはつい言葉に出していた。
「でも、急がな、いと、土井先輩は、すぐに……」
まだ息をはずませている。
下を向いたままで。
「いなくなってしまわれ、ますので」
口調が落ち着いてくると、声の主は絶対にこいつだと分かった。
とはいえ、ボクになんの用があるのだろう。
「まあとりあえず、落ち着けよ」
ボクがそう言うと「ありがとう、ございます」と返事があった。
しばらくしてひと息つくと、こいつはこう言った。
「すみません。お待たせしました、土井先輩」
顔を上げてきちんと立ち、ボクの目をまっすぐに見ていた。
にこにこした表情になっている。
すぐに男ではないと直感できた。
手にしている白いハンカチには、よく分からないけど細かい刺繍が施されているし、なんとなくただよっている匂いは汗をかいているのに男くさくはないし、ヒゲは見当たらないし……。
可能性としては、「あちらの世界の人」というのもあるけれど。
「私の顔に、何かついていますか?」
話しかけられて我に返った。
ついまじまじと見てしまった。
「いや、そんなことないよ。目と鼻と口ぐらいかな」
ボクのボケはスルーされた。
「あの、今更なのですが、土井先輩でいらっしゃいますよね?」
「確かに今更だな。でも、呼ばれて待ってたんだし、間違ってないよ」
「よかったあ」
そう言って右手を胸に当てると、ひとつ大きな吐息が漏れていた。
心底ほっとしているように見えた。
「しかし、なんでボクの顔と名前を知ってるんだ? ボクはおまえのこと知らないぞ」
「あ、それはちょっと……」
「ほう、言えないような理由なんだな。所詮、初対面のボクには」
「違うんです。その、特別な事情があって、無理にお願いして、こっそり内緒で……見せていただいたんです。誰にも言わないって、約束で」
声は次第にフェード・アウトしていくようだった。
「……助手のAさんに」
かすかな声が、ボクの耳にはそう聞こえた。
さては、入学当初に提出したあの書類か。
ボクはすぐに思いついた。
履歴書に貼るものよりは大きめの顔写真をわざわざ貼った覚えがある。
それにAさん。
ずんぐりとした体格に大きな目、よくにやにやしている人だ。
Aさんならその書類を管理していてもおかしくない。
うちの科にいる助手の人だし。
噂によると、彼女いない歴イコール年齢なのだとか、研究室に寄りつかないボクでも聞いたことがある。
それで女の子には甘いのか。
「土井先輩は、その……見せていただいた写真と変わらないご様子でいらしたので」
ほぼ1年前に提出した書類に貼った証明写真、それは入学前に町の写真屋で撮ってもらったものだ。
そこに写っているボクは、今よりずっと暗い表情をしていたと思う。
なのに、「変わらないご様子」と言われてしまった。
そんなものだよな。
ボクは納得した。
田中には「年度頭から湿気た面」と言われてしまったことだし。
「あの、先輩?」
「なんだ、後輩」
「私、何か気に障るようなこと、言ってしまいましたか?」
こいつはなかなか気遣いができるヤツなのだと思った。
「そんなことないよ。で、Aさんの名前が出てきたし、うちの学科の新入生ってことで、いいんだよな?」
ボクは気を取り直していちおう確認してみた。
「はい。あ、申し遅れましたけど、私、タマキです。よろしくお願いします」
タマキはボクに向かってぴしっとお辞儀をしていた。
ボクは「タマキ」という後輩が存在しているという事実を、この世に生を受けて以来初めて知ることになった。