① Spring Is Here
はあ……。
新年度になって初めてボクがしたこと。
大きな、ため息。
* * *
何故日本の学校には、幼稚園、保育園も含めて、桜が植えてあるのだろう。
物心ついた頃から、春には桜が咲くものだと知っている。
だから新年度になるたび、いや、桜が咲くたびに新年度を意識することになる。
人づきあいが苦手なボクとしては、花見なんて無縁になりたいことのひとつだし、桜を愛でる気持ちは特にない。
だから桜イコール新年度、それは憂鬱なだけだ。
花がきれいと言う人の気持ちが分からないでもない。
しかし、散ったあとの地べたにくっついた花びらの様子はいかにも無残で、目にしたくなる代物ではない。
ボクは花が終わったあとの新緑が好きなのだ。
桜が散ったあとで新年度になったらいいのに。
きっとさわやかな気持ちで新年度を迎えられることだろう。
ボクのこの意見を耳にした人たちは、例外なくボクにこう言った。
── ひねくれ者。
日本人は和を尊ぶ民族なのだった。
* * *
憂鬱で気が向かないとは言え、年度初めの学校に行かないことにはこれから約1年どうなることか分からない。
とりあえず最低限のことはやっておかなくてはならないのだ。
時間割の確認、登録、教科書のチェック、研究室の掲示板とゼミの前期予定の確認、等々。
1年の後期が終わる時点で、2年になってどのゼミに所属するかは決まっていた。
だからと言って、そこでいつ何をするのかが決まっているわけではない。
ゼミの予定確認は必須なのだ。
ボクは「ゼミ志望調査票」に書いたみっつのうち、第1志望のK教授のゼミにすんなり入れることになっていた。
広瀬、田中と同様に。
どうしてK教授のゼミにしたのかと問われると、カッコいい答えは返せない。
広瀬が「K教授のゼミにしたい」と言い、田中とボクは広瀬に倣っただけだ。
このことはいざとなれば広瀬を頼るという姿勢の表れだった。
*
田中とボクと広瀬は、入学当初のガイダンスだかオリエンテーションで名簿順に着席したときからのつきあいだ。
ボクの前に田中、うしろに広瀬がいた。
よくあるように、ボクは前後のふたりにまず声をかけた。
隣にいたのは女子だったので、ボクから話しかけるのは困難だった。
以来、おおげさに言うと、ボクを含めた3人の同盟関係が成立した。
人づきあいが苦手とは言っても、誰とも関係しないのは死活問題になるのは間違いないことだから、田中と広瀬、このふたりとうまく知り合えたのはボクにとって幸運だった。
そしてこのふたり以外、ボクから声をかけた人はいない。
学校の事務の人や研究室の助手さん、先生方を除いて。
*
今、ボクのうしろから「土井」と呼ぶ声が聞こえた。
ボクを呼ぶなんて、例のふたり以外はまずいない。
それにこの声は田中に決まっている。
*
ボクもだけど、田中も無事に進級できたのはめでたいことだ。
広瀬は優等生なのでなんの問題もなかったけれど、ボクも田中も広瀬のノートがなければ留年していたかもしれない。
広瀬は命の恩人だ。
そんな広瀬が、今でも同盟に残ってくれていることは天の采配とも言うべき僥倖であり、広瀬はそのことを鼻にもかけないとてもいいヤツなのだった。
*
田中はいつものように青いバッグを左手に持って登場した。
「なんだよ、土井。年度頭から湿気た面して」
「新年度早々、うるさい。田中に言われる筋合いはない」
「頭はさっぱりしてきたようだが」
確かに、ボクは数日前に散髪をしてきた。
いわゆるスポーツ刈りに戻した。
1970年代のロック・スターをまねたような状態だったのがつらくなってきたからだった。
それだけにしろ、アクティヴに動けたのはよい傾向と言えた。
「田中は後期のあたりから服装がまともになってきたように見えるけど、気のせいか」
「おお、それはだな、すべて恵子のおかげだ」
「そうだと思っていたけど」
「ただし、バイトで貯めておいた夏の予算がすべて吹っ飛んだ」
「ま、仕方ないな。もう一度貯めればいいんだし」
「そのとおりだ」
「それまではボクと大差ないカッコだったのにな」
「バカを言うな。オレはあれでも土井よりはまともだったはずだ」
「ハイハイ」
「土井より上背があるし、やせている」
「そうかい」
「しかしなんだ、留年は避けられたんだろう土井も」
「広瀬のノートのおかげでな」
「だろう。オレの場合はそこに恵子のノートがあったから万全だった」
「そういうのを『万全』と言えるおまえの太い神経がうらやましい」
田中の彼女である恵子ちゃんが偉大なだけだろう、と言うのは控えておいた。
恵子ちゃんには敬服させられることしきりだ。
「で、無事に2年になれたわけだし、土井は心機一転して今年度は真面目に出てくるんだろうな?」
「まさか」
「まさかって、オイ。卒業する気ないのかよ」
「そんな先のことは分からん」
「だがなあ…」
「いや、なんだかんだ言っても、心配してくれている田中の気持ちは嬉しく思っているんだ。それは信じてくれ」
「土井にしてはいい心がけだ」
「だけど、ボクはやっぱりなるべくひとりでいたい。人づきあいと人混みはできるだけ避けたい」
「まだそんなこと言うのかよ、困ったヤツだ」
「田中だって、今こそ恵子ちゃんのおかげで救われているけれども、それまではボクとあんまり変わらなかった気がするが?」
「成績はな。しかしオレは出席だけは努力したし、土井のような暗さはかけらもないつもりだ。土井みたいに暗くしてたら女だって寄ってこんだろうが」
「結局また女の話に落ち着くか……」
「女のことはすごく大事なことだぞ」
田中はニヤリとした。
「そうかい。ボクには寄ってこなくてもけっこうだよ」
「土井はちっとも話してくれんけど、そんなふうにずっと暗くしているのだって、どうせ女が原因なんだろう? 別れたことを今も気にしてるとか」
「やかましい」
「分かりやすいヤツだ。そういうヤツのことを単細胞と言うんだぞ」
「他人事のように言えたセリフかよ」
「オレの場合は正直者と言ってもらいたい」
「了解しとくよ。だから今日のところはこれで勘弁してくれ」
「土井だって、明るい顔をしてりゃあひとりやふたり……」
「ほっとけ」
「女のことで苦しんでるなら、新しい女ができれば一発で立ち直るだろうが」
「一発でとか、人聞きの悪いことを大声で言うなよ」
「なんだ、田中も土井も相変わらずだね」
広瀬がいつの間にやらボクの隣に立っていた。
眼鏡を新調したらしい。
フレームの形が以前より細めになっている。
田中より多少背は低いけれど、縦も横もボクを上回っている。
しかも体格がいいので実際より大きく見える。
「ふたりとも正門からほとんど離れていないようなところで立ち話はよくないと思うな。ひとまずは」
広瀬はボクと田中の顔を交互に見ながら続けた。
「研究室への顔出しと掲示板のチェックは行った? 行ってないよね。こんなとこにいるようじゃ」
ボクも田中も着いたばかりでの立ち話だったから、広瀬の言うとおりだった。
「なら、新年度はそこからスタートだね。行こう」
「広瀬は今年度も頼りになりそうで、ありがたい」
田中が言った。
「そういつまでも田中や土井にかまっていると思うなよ。今年度のぼくはサークルで忙しくなる予定なんだから」
「あれ? いつサークルに入ったんだ?」
ボクは訊いた。
「春休みの間に、ちょっとね」
「なんの?」
今度は田中が訊いた。
「英語研究会」
「エイケンってヤツだな」
田中がさらに訊くと、広瀬は答えた。
「そういうこと」
広瀬と田中のあとをうつむきながらくっついて歩き、掲示板を取り急ぎチェックしたボクは、研究室のドアが開く気配を感じると、颯爽とその場を立ち去った。
「オイ、土井どうした」
「田中、広瀬、お先に」
「お先にって……大丈夫なのかな」
広瀬がそう言ってた気がする。
振り向いてふたりにひとこと告げたボクに、研究室のドアから4年生になったO先輩が出てきたのが見えていた。
O先輩が田中と広瀬に何か話しかけたところまでは。