ケース1 石塚 恭子様 82歳 ぼた餅
情報収集課の情報では、東北の出身。東北出身の女傑で、22歳で京都出身の旦那さんと結婚して旦那さんの地元に引っ越しし、嫁姑の関係をソツなくこなし。旦那さんとの間に3男2女の子供をこさえ、立派に育て、孫にひ孫にと囲まれて、大きな病気をすることもなく80歳まで来たそうな。
しかし、寄る年波には勝つこともできず。昨年の終わりごろに肝臓癌を患い、気が付けばステージⅣにまでなってしまったとのことだ。その癌も転移に転移を重ね、胃・食道と癌細胞に侵されてしまったことから、食事も満足にできず、点滴ばかりの生活になってしまったそうな。
そんな石塚さんの好物は、五分突きの米で作った通称《半殺し》というぼた餅だ。お萩・ぼた餅と季節毎に呼び名が変わったり、地方によってご御飯の突き方で呼び方が変わったりと何とも洒落っ気のある一応和菓子の部類に入る一品だが。要は、ご飯を餡子で包んだモノだ。
都会なら、時期になるとに店に並ぶが、田舎では自家製が主である。勿論そこには家庭の味が存在し、塩加減や砂糖の加減、終いには大きさに至るまで家庭ごとに違いがある訳だ。
ふむぅ・・・、東北出身の女史が旦那さんについて京都まで・・・文化から食生活までまるっと違う環境でゥン十年と暮らしてきた訳だが、さぞ故郷の味も恋しかったろうに。しかし、この科学万歳のご時世、お取り寄せなら幾らでも故郷の味が味わえるはずだ。
まぁ、あくまでも故郷の菓子屋の味ってだけで、家庭の味とは些か違うことも有るだろう。
間違いなく、この微妙な味付けの匙加減が、石塚さんの心を満足していただけるかどうかのキーポイントになるだろう。チョット気になることがあるので、情報収集課の飯島主任に調べてもらうことができたかな。
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◎石塚様視点
『・・・此処はどこでしょうか?』
病院のベッドの上で、半ば諦めにも似た心境で、死するその時を待っていた訳だ。80を迎え、子に、孫に、更にその子供たちに囲まれた生活は、若い時の苦労に十二分に報いるに十分な環境だと自分でも思える。お医者様から聞いた病状は、癌・・・それも末期との事で、回復する見込みが無いならと、無駄と思われる延命治療はやめて、少しでも子供たちに財産を残し、負担にならないように幕を降ろすとしよう。
と、かなり強気で遺書やら何やらを準備したまでは良かったのだが、現在頭の中を占めるのは、朽ち果てるその時よりも、空腹からくる飢餓感だった。お医者様に射たれた痛み止めで体中の痛みは麻痺し、思考もぼやけてはいたが、この胃の締め付けられるような感覚だけはどうしようもならなかった。
『別に、満腹になるまでご飯を食べる必要は無い。ナニか・・・そう、菓子をたった一口だけでもいいから口にしたいわ。』
無駄とは判っていたが、私は最期の我儘を口にしてしまった。
しかし、その我儘を叶えてくれるという方が現れ、私に無骨なヘルメットをかぶせた。その後、数分の内にこの見知らぬ場所に立っていた訳だ。
身に纏う衣は、薄い紫の訪問着。それを下品にならない様に薄い黄金色の帯で締め、外套を羽織っている。髪は後ろで一本に束ね、そのまま流してある。足袋に草履を履き、手には着物と同じ色の巾着を持っていた。
日本庭園と見られるこの場所は深い霧に覆われ、遠くまで見渡すことはできないが、一件の家屋だけは遠目にはっきりと・・・寧ろ、私とその家屋の間だけは霧がかかっていない感じで佇んでいる。
一歩、足を踏み出して気付く。歩くこともままならず、病院のベッドで横になっていたはずの私が、杖もなく歩くことが出来ているではないか。更にもう一歩、自分の思うがままに歩を進めることに感動し、一路家屋の方へ向かう。
家屋の玄関付近には女性が立ち、私の方を向いていた。ナニか話が聞ければと、近付いてみたところ、私が声をかける前にその女性は深く頭を下げたあと・・・
「いらっしゃいませ、石塚様。お待ちしておりました、さぁ、どうぞ此方に。」
◎石塚様視点
女性に案内され、家屋の中にお邪魔させていただきました。通された処は、茶室程度の大きさで、卓袱台と座布団だけの華美な装飾品は一切ない小さな部屋でした。
途中、案内をしていただいた女性より、此処はゲームな中の世界だと聴きました。私がベッドの上で零した愚痴の様な我儘を、叶えてくれる為にこの様な場所を作り上げたそうです。
どうやら、私のように病気で苦しみ、食事ができない人はかなりの数いる様で、そういった方々の心のケアをする為に、あのような機械を使い、このような世界へと誘い、食事を提供するようです。
難しい事は判りませんが、食事ができない方々の為に、食事を摂ったと思わせ、心だけでも満足していただこうって事ですね。
私の向かい側の障子を開けていただくと、綺麗な庭園が目の前に広がりますが、その奥は霧がかかっていて、この世界が現実ではない、架空の世界だと思い知らされます。
案内をしてくださった女性が立ち去ったため、座布団に座り景色を眺めていると、また、別な女性が盆に箸や小鉢をのせやって来ました。
女性が置いた小鉢は三つ。朱・緑・青の小さな花形の小鉢の中には各々別の料理が盛り付けられており・・・
朱い小鉢は、焼いた魚をほぐしたモノに大根おろしを合わせ、醤油で味付けしたもの。
また、緑の小鉢は、肉厚な椎茸を焼いて薄切りにし、生姜をのせたもの。
最期の青い小鉢は、沢蟹を油で揚げて、砂糖醤油のミツと胡麻を絡めたもの。
・・・のようですね。
「いらっしゃいませ石塚様、小鉢3種になります。調理主任から、少し味が濃い目に作ってあると言伝がありますが、お飲み物は如何いたしましょうか?」
目の前に置かれました小鉢は、どれも一口ないし二口で終わりそうながらも、しっかりと人の手が加えられた、私の地元では良く食べられる料理といいますか肴ですね。僅かに薫る、醤油の匂いが望郷の念を抱かせます。
「では、日本酒をいただけますか?1合で結構ですので、辛めの物を常温でお願いいたします。」
夫の元に嫁ぐまでは、父の晩酌に度々付き合わされていたので、お酒は嫌いではないのです。しかも、この肴の様な小鉢を目の前にして呑まないのは、もったいないでしょう。
徳利とお猪口が届き、給仕の女性にお酌をしていただき、食事が開始となりました。
まずは、朱い小鉢の焼き魚のほぐし身と大根おろしの和物からいただきましょう。
小鉢の中身の実に半分を箸で取り口に運びます。咀嚼していくたびに、舌の上に魚の脂が広がります、この魚は・・・鰺ですかね、大きくはないですが身がしっかりとした鰺を、干物にして強火で焼いたものでしょう。
それに大根おろし、ふんわりとした感触と大根の水分が、鰺と醤油の塩味を程良く柔らげながらも、大根特有の辛さが一本味に芯を通しているようです。
食物を口にするのは久方ぶりの為、上手に飲み込むことが出来るか不安でしたが、この料理はスッと喉の奥に入ってしまいました。恐らく調理を担当してくださった方も、それを見越してこのお料理を出して下さったんでしょうね。少し名残惜しいところも有りますが、此処に辛口の日本酒を一口。
「あぁ・・・美味しい。」
意識せずに出たこの言葉が私の心情を物語っているのでしょう。たった一口の料理とお酒でしたが、胃の腑に収まるこの感覚が実に懐かしく、且つ愛おしく感じます。
しかし、まだ一口。たった一口しか口にしていません。目の前にはまだお料理があります。
再度朱い小鉢に箸を付け、中身を平らげてから、次の緑の小鉢に箸を付けます。
かなり肉厚の椎茸を焼き、薄く切ったものに醤油を絡め、生姜を上に載せたものですね。生姜の香りに混じり柑橘・・・酢橘の香りがしますので、絞り汁がかかっているのでしょうか。全く憎らしい程、細いところまで気を使っていただいてますね。
これも文句なくぺろりと平らげてしまいました。先のおろし和えよりも歯応えがあり、噛むことが楽しくなってくる気がします。
最期の青い小鉢の沢蟹に行きましょう。子供の頃近くの沢で採ってきて、母に作って貰った記憶が蘇ります。これはしっかりと気合を入れないと顎が負けてしまうかもしれません。
たった二つしか無いので、一つを口に入れ、奥歯でゆっくりと噛み締めましたら・・・あら不思議、ホロホロと崩れていくではありませんか。
私がの顔が、鳩が豆鉄砲でも食らった様な表情を浮かべていたのでしょう。給仕の女性がクスクスと笑みを浮かべています。
理由を聞いたところ、料理長の悪戯だそうで、普段はやらないのですが、沢蟹を二度揚げしてサクサクにしたところに、崩れないように一杯ごとにハケで丁寧にミツを塗ったとの事です。
一般家庭なら、一度揚げてから鍋に作っておいたミツに放り込み、全体にミツを絡ませるものなのですが、そうすると足の一本二本が失くなったり、沢蟹自体が硬かったりと。見た目もそうですが、食感も多少悪かったりしますが、このお料理なら、見た目も悪くないし、硬くないので十二分に肴として通用するでしょうね。
良い意味で驚かされてしまいましたところで、小鉢が総てカラになりました。さぁ、次はどんなお料理を食べさせていただけるのでしょう。心が弾みます。
続いて給仕さんが持ってきたのは、お刺身のようです。量自体は少ないですけど、品数が多くその数は6点。説明によると、鮪の赤身・バイ貝・スルメイカ・秋刀魚・どんこ・鮟鱇だそうです。秋刀魚は大分前ですが食べたことはありますが、どんこや鮟鱇は初めてです。勿論、どちらも旬の時期になると、煮付けやお鍋で食べたことはありますので、一体どの様な味なのか大変興味をそそられます。
鮪は脂が少なくともよく熟成され、くどくない上品な味わいです。
バイ貝は子供の頃、海に行けばサザエ等と一緒によく採った記憶があります。母にねだり、お刺身にしてもらったり、煮付けてもらったりと、懐かしいですね。味わいも恐らく当時のままでしょう、適度な歯ごたえとともに磯の香りが口の中に広がります。
スルメイカは、あえてイカそうめんにせず、薄く削ぎ切りにした後に細かく包丁を入れることで、クキクキっとした食感を残しながらも、上顎に張り付くことなく、しっかりと噛むことができます。鮮度も良い様で、スルメイカ特有の美味しさが味わえます。
秋刀魚は皮を剥き、軽く酢で〆てあるようですね。青魚特有の香りを消すことなく生臭さを上手に消してありますので、美味しくいただけます。
さて、問題の二品の内の一つどんこです。白身特有のクセのない脂があり、鯛や鮃の様な、弾力は無いものの、ねっとりとした口当たりと醤油の小皿に広がる程の脂がこのどんこと言う魚の価値を作り上げているようです。
山葵と伴に口にすれば脂も気になる事もなく、上品などんこ特有の味が口内に広がる・・・これはクセになる味ですね。
そして最後の鮟鱇です。少し飴色に染まるその切り身は、昆布で〆たせいだそうで、微かに昆布の香りが漂ってくるようです。鮟鱇は時期になるとその肝ごと鍋で煮込み、味噌で味を付けた所謂どぶ汁にしたり、肝だけを蒸してをぽん酢で食べたりとするのが一般ですが、刺身は初めて見ました。
給仕さんが言うには、最近の冷蔵技術や輸送スピードの発達に合わせ、このように従来の常識を覆す新しい料理が開発されて来ているとの事です。全く、料理の世界も日進月歩なのですね。では、その鮟鱇を早速いただきましょう。
「・・・っ、これは、本当にあの鮟鱇なのでしょうか?」
びっくりです。水分が多く柔らかい身を昆布で〆ることにより、従来の水っぽく殆んど味もない鮟鱇の身が、適度な歯ごたえと風味を感じることができるようになるのです。その鮟鱇の独特の風味も昆布の風味と混ざり合いながら、いがみ合うこと無くお互いを引き立て合うように計算されているのか、『絶妙』と思わず溢れてしまいます。
さて、給仕さんが言うには、この後食事として御飯・味噌汁・漬物が出たあとにお楽しみがあるそうです。
という事で運ばれた食事ですが、ご飯が白くありませんでした。所謂雑穀米というものでしょう、麦・粟・粺・小豆等の穀物がお米と一緒に炊き込まれています。
今のご時世ならば健康のため等と言いながら有り難がって召しあがる方もいるでしょうが、白米がまだ其処まで流通していない田舎では普通に食べていたものです。いや、寧ろこの雑穀に米を混ぜて食べていた時期があり、時代によっては更に芋や蔦等を混ぜ込んでいた位です。
味噌汁も、味噌は私の田舎の味噌を使った芋茎と八頭の味噌汁で、漬物も胡瓜などではなく瓜の糠漬けとなっています。このご時世では割と高級品なのでしょうが、私の記憶の一番古いところ・・・幼少期では毎日のように食べていたような身の回りにありふれていたモノばかりです。舌の記憶もかくやと思うほどの懐かしい思い出に浸りながら、一口、また一口と噛み締めます。最期の一口分のご飯を漬物で掻き集め、咀嚼し飲み込んだら、味噌汁を流し込みます。
ほぅと一息をつき、給仕さんに差し出されたお茶に口を付けます。熱く渋めのお茶が口の中を爽やかにしてくれます。総てが一口二口サイズのため、まだ体には余裕があると思いますが、給仕さんが仰るには。
「頑張って食べ過ぎてしまうと、現実の体が吃驚して、現実の世界に戻ったとき非常に辛い目にあってしまう」
との事で、本日は次の菓子で終了とのことです。蓋のされた盆で運んできたソレは。
「ぼた餅ですね。」
夢に迄見て、渇望していたあのぼた餅でした。
◎石塚様視点
今、私の前にはたった一ではありますが、夢に迄見たぼた餅があります。少し小振りですし、形もお菓子屋に並ぶ程整っているわけではないですが、作った方の気持ちが込められているであろう優しい形のぼた餅です。
「ハイ、ぼた餅ですね。調理長の指示で匙等は付けておりませんので、此方の手拭いで手を拭いてお召し上がりください。」
匙や楊枝が付いてないのは、給仕さんのミスではなく、板前さんの心配りとの事です。そうですね、子供の頃は洒落た匙や串などなく、お母様やお祖母様が手ずから渡してくださったモノを食べていたので、気にしてはいけないですね。給仕さんより渡された手拭いで手を拭ってから、ぼた餅をこの手に取ります。
多少お行儀が悪いですが、大きく口を開けぼた餅の三分の一程度を口に入れます。
小豆の味を損なわない優しい味の粒を残した餡が、五分突きにしたご飯を包み込んでいます。一噛み一噛みと咀嚼するたびに、舌の記憶と言いましょうか懐かしい思い出が涙とともに蘇ってきます。
多少の差異はありますが、このぼた餅は幼い頃にお祖母様が、そしてお祖母様が亡くなった後はお母様が節句等の祝いの折に作ってくれたぼた餅の味です。
走馬灯のように脳裏に浮かぶ、幼い日のお母様やお祖母様の笑顔やその時々に作ってくれた、華美には程遠いけど愛情と手間が込められた料理の数々を・・・私は夫と一緒になるにあたり、故郷を離れてしまいました。けれど、惜しみなく注がれたその愛情を忘れたことは有りませんでした。そしてその愛情を子供・孫達に分け隔てなく与えることができたと思います。
それでも、時折後悔のように思い返す事があります。この、お祖母様やお母様が作ってくれたぼた餅の味を受け継ぐことができなかった事です。
市販のどんなお砂糖を使っても、同じ優しい味の餡子が作れなかったのです。当時砂糖はまだ高級品の部類に入るものでしたので、おいそれと使うこともできない物だったでしょう。それを、餡子に甘味がわかるほどしっかりと入れるのはかなりの贅沢だったでしょう。
でも、その味とほぼ同じ味を作り出した此処の板前さんなら、教えてくれるでしょうか?
気が付けば、指についた餡子も舐め尽くしていました。目の前で満足そうに微笑む給仕さんに無茶なこととは分かりつつ、このぼた餅の作り方を聞きました処、あっさりと了承の意を得てしまいました。
給仕さんの案内で調理場へと向かうと、作務衣を纏った板前さんが椅子に腰掛けて待っていました。
『いらっしゃいませ石塚様、調理担当責任者のグンジと申します』
椅子から立ち上がった板前さんの自己紹介を受け、本日出していただいたお料理が大変美味しかったことに感謝の言葉を伝え、最後にぼた餅はどうやって作るのかを伺ったところ。
『では、少し駆け足気味になりますが、実際に作りますのでご覧になってください。』
との返答があり、板前さんが座っていた椅子を勧められたので、其処に腰を下ろし、その作業を拝見させていただくことになりました。そこからは不思議の連続でした。
餡子に使う小豆は水に漬けておき、ふやかしておくのはまぁ判ります。
次に下ごしらえを始めたものは餅米ですね、それをしっかりと砥いで蒸し器で蒸し始めました。蒸しあがった餅米に粗めに砕いた麦芽を混ぜ込み、60度位のお湯を注ぎ密閉した容器の中に入れて。温度が下がらないように桶の中にしまい、しばらく放置します。
板前さんが仰るには、蒸した餅米の中のデンプンを麦芽の力で糖化させているんだそうです。
先程の餅米を蒸した時もそうですが、今回の容器の放置も本来ならかなりの時間がかかるのだそうですが、今回はこのゲームの世界の力を目一杯使って、時間を掛けずに行っているそうです。立ち居振る舞いは、テレビの3分クッキングを見ているような感覚にですね。
でも、今回はブラウン管の向こうではなく、私の目の前で行っているのですから、もう狐に化かされているのか、魔法なのか本当に不思議な光景です。でも、要所々々の大事な部分は確りと実演しているので大変判り易いです。
時間を測り先程の容器を取り出し、蓋を開けてみたところ、お粥状の餅米からほんのりとですが甘い匂いが漂って来ました。そして、このお粥状の餅米から水分をきっちりと絞り、その絞った水分を煮詰めていくのだそうです。
サラサラとした絞り汁が煮詰まり、水飴の様に粘り気を持つくらいになると流石に判ってきます。あぁ・・・これこそが、お祖母様やお母様が作ったぼた餅の甘味の元なんだ。
バットに入れて冷ましたその水飴を少し、匙で掬い渡してきたソレを口に含むと、控えめながらも柔らかく、そして優しい甘味が口の中に広がります。
この水飴は、『麦芽糖』と言い、砂糖という物が無かった時代から存在する甘味料だそうです。手軽で甘味が強い砂糖と違い、甘味が弱く、作るに当たり時間が大分掛かってしまうので、今ではあまり使う人がいなくなってしまったモノだそうです。が、大変体に良いという事や、この優しい甘さが良いという人がいる為、細々とながらも技術を失うことなく現代に伝わっているそうです。
そう言いながら割った割り箸の先端に水飴を付けて板前さんが給仕さんに差し出します。それを垂れないように両手で箸を一本ずつ持ち上手にグルグルと混ぜていくと、空気を含んで白くなっていきます。それを一気に加えた給仕さんの顔が幸せそうなこと・・・当時の私もこんな顔をお母様やお祖母様に見せていたのでしょうね。
その麦芽糖を使って炊き上げた餡子が、今目の前にあります。焦げ付かないよう頻繁に掻き混ぜながら炊いた餡子をバットに広げて冷まします。丸く纏めた半殺しに突いたご飯-餅米とうるち米(普通のご飯)を7:3で蒸した物-を餡子で包み込んで、ぼた餅が出来上がります。
あぁ…故郷を離れて六〇年、やっとこの味に・・・お祖母様の、お母様のぼた餅の味に辿り付きました。
郡司 陣大の手記より抜粋
その後の石塚様の生活環境は、旅立つその日まで精力的だったと云う他にない状況だったと記することにする。
確かに現実世界で女史は、余命幾許もない病に侵された体をベッドに横たえていたが、ゲームの世界にご家族を呼び寄せ、私が教えた…女史が伝えたかったぼた餅の作り方を教えたり、実際にゲーム世界を(勿論ゲームができる身内達と)冒険したりと、それはもう年齢を感じさせない輝きを放っていた。実際、【始まりの町・春】の【フードコート】に御越しになり、食事をされたりしていた。
後日、ご家族の方々から頂いた手紙の中に、感謝の言葉とともに書いてあった。
「没するその日まで一生懸命生き貫いた祖母は、笑って旅立つことが出来ました。
あの日、食事をしたいと涙を溢した祖母の願いを叶えて下さった皆様のおかげだと思っています。
他の方々には、たかがゲームだと思われるかもしれませんが、祖母を含め私たち家族には間違いなく現実での出来事の一つであり、祖母の心を救済してくれた事実なのですから。
~中略~
この素晴らしい技術で祖母のように救われる人達がいるのなら、是非一人でも多く助けてあげてください。」
スタッフ全員が、この手紙に涙した。私も柄にもなく嗚咽が漏れてしまう程に心を持っていかれた。
しかし判っていた事だ、考えていた事だ。たった一度、それもゲーム世界での食事が、此処まで人の人生に影響を与えることを…
だからこそ達成感以上に、失敗したときの事を考えると不安で気が狂いそうになってしまう。今回はたまたま成功した…かもしれない。だけど、次が必ず成功する保証なんかない。
だからこそチーム一眼となり、心を一つにして動かなければならないのだろう。