よん
「で、俺はどう責任をとればいいの?」
「私をゆうかいして」
「……えっ、いまなんて言ったんだ?」
「誘拐して」
あかりちゃんのその言葉は衝撃的だったのか、かんいち君は目をパチパチさせて驚いている。
そりゃ驚く、いきなり誘拐してと言われたら誰だって驚く。驚かない人のほうが少ないはずだ。誘拐という言葉は日常で使わない言葉だから余計に驚く。
遠くに行くとはそういうことだったのか。それじゃあマロンのお散歩はその口実というわけか。これではママのお昼はいつまでたってもあのゴミだらけのリビングに届かない。
「あかり大丈夫か? 俺のせいでおかしくなったのか?」
「私は正気だから。かんいちは何も悪くないから、私をいじめたことは悪いけど」
「ごめんって……あかりは何で誘拐してほしいの?」
「理由なんてどうでもいいよ。それにかんいちには関係ないから」
「俺にはそれを聞く権利はないってこと?」
「そんなの当たり前じゃん。何で教えないといけないのよ、かんいちは罪の意識があるならちゃんとつぐなってよ」
「誘拐することが償うことになるのかなー」
それには頷ける。いくらなんでもメチャクチャだ。
あかりちゃんはどこかの国のわがままお姫様で、かんいち君はお姫様に仕える執事といったところか。いや執事ではない、家来といったほうがしっくりくるのは何故だろう。
その時おーいとか、遅いぞーとか、誰かを呼ぶ声が聞こえてきた。
あかりちゃんが動いた。振り向いたのだ。
「やべ、遊んでたの忘れてた」
「あーいつも一緒に遊んでいるかんいちの友達だね。なんて名前だっけ、ピザが好きな男の子とのんびりしてる男の子だよね」
「それでいいよ。遊んでる時間はなさそうだから」
「それどういう意味?」
「お前を誘拐してやるから、あいつらと遊んでる時間はないんだよ」
その言葉に何かを思ったのか、リュックが反対側へ向いた。
あかりちゃんの足にリードが絡み、その先にいたのは声しか聞こえなくて姿を見れていなかったマロンだ。大きな目と大きな耳が特徴の、世界的に公認された犬の中でも最も小さな犬種であるチワワだ。
マロンは僕のほうをじっと見ている。僕はそんなに珍しいのだろうか、普通のキーホルダーだと思うんだけど。僕を見たのが初めてだから警戒しているだけなのかもしれない。
さっきみたいにワンワンと元気な声を出すことはなくておとなしい。あたたかい太陽の光と、冷たい秋の風が混ざりあって心地良いのかな。
「それ本当なの? からかってはないよね?」
「あかりだけが一人で、どっか遠くに行くのは寂しいんだよ」
「へー」
「なんだよその反応! 恥ずかしいじゃんか!」
「恥ずかしがってたら誘拐なんてできないよ」
「う、うるさいな。わかってるよそんなこと! ちょっと黙ってよ」
「なにイライラしてるのよ。バカみたいだよ」
「俺はバカだよ、だからあかりにあんなことしてたんだよ」
「弱いものいじめ、女の子をいじめる、最低なことだからね?」
「わかってるってば! ちょっとあいつらと話があるから向こうで待っててよ」
「じゃあベンチに座ってるからね。ごゆっくりー」
あかりちゃんが動いたから、僕の視界からマロンが消えた。
歩くことを再開して嬉しいのか、ワンワンという元気な声が後ろから聞こえてくる。
前ではかんいち君が、友達の二人に何かを話していた。少し離れたし、秋の風の音で声がかき消されて聞こえない。
なんて言ってるのかを想像してみる。今からあかりちゃんを誘拐するから君達と遊んでいる時間はないんだとか、君達も誘拐犯になってみるかい今ならまだ間に合うからさあ一緒においでとか、俺はあかりちゃんをいじめていた罪滅ぼしとして誘拐犯となって指名手配されてブタ箱で反省してくるそうしないとこの罪は一生消えないとか、俺は誘拐なんてしたくないんだけどあかりちゃんが誘拐してくれなきゃどうなってもいいのねと脅してくるからしょうがないんだとか。色んなことが頭に出てくる。
果たして何を言っているのか。それは気になるし、僕にとってはどうだっていいことでもある。
かんいち君があかりちゃんの王子様になれるとは全く思えないから。今までさんざん意地悪していたのに、急にいい人になるのはちょっと考えられない。
悪い人には悪いものがその体に流れていて、いい人にはいいものがその体に流れている。悪いのとはどんなものか、いいものとはどんなものか、それはよくわからないいけど。僕のこの体に流れているものは良いものなのか悪いものなのかもわからない。
いや今はキーホルダーだから何も体に流れてなんかいないはずだ。
「ねえマロン、歩き疲れてないかな? 私はちょっと休ませてもらうね」
「ワンワン!」
おそらくこの夢を見ているのはあかりちゃんで、僕はあかりちゃんを助け出さないといけない。
あかりちゃんが悪い夢を見てしまった原因はママだろうか。あの冷たい言葉は子どものことを何も思ってはいない。身体的に、精神的に、傷つけられたのかわからないから児童虐待とは決め付けられないが。
もしそうだとするなら悪い夢を見てしまったのにも頷ける。悪い夢は外で起きたことに影響されて、それが夢のなかに広がってしまう。それは人や物を作り、花や木や緑も作り、建物や川や山までも作る。その一つ一つはとてもリアルで、触れることや温度や匂いも感じることができる。
ここは現実の世界なんじゃないのかと思えてくる。ここが夢だとはわからないぐらいに。
あの日見た思い出がそこに広がる、あの時の懐かしい顔がそこにいる、あの一瞬さえ間違えなければ大切な人を失うこともなかった。それらに戻ることができる、あの日あの時に戻ることができる、出来なかったことや叶わなかったことさえも手に入れることが。
なんてたちが悪い、いやなんて素晴らしい。どう思うのかは人それぞれ、夢でしか喜びを得ることができない人もいるのだ。そんな人にとっては、外の世界にいるよりも夢の中で過ごしたほうが幸せなのかもしれない。
しかし所詮夢は夢であって、そこにあるものは全て本物ではなくて偽物なのだ。どんなにリアルに作られていても、どんなに感触があったとしても、どんなに美味しい匂いや自然の匂いや太陽の光をいっぱい浴びた布団のあたたかい匂いがしても、偽物が本物になることはない。
もうここしかすがり付くところがない。そんな人にとっては夢であっても、偽物であっても、気にしないし考えないし本物に思えてくる。それで幸せになれるのなら簡単だから。
そこまできたら夢に溺れたといってもいい。本人は溺れていることには全く気づいていない、でも第三者から見ればもがき苦しみ何かを掴もうと必死に手を伸ばしている。
その何かとは希望だったり、光だったり、明日だったり、生だったり、それもまた人それぞれで多種多様だ。
そんな人の心が弱っている時に現れるのが、真っ黒で気持ち悪い笑い声を出して夢を悪へと染めてしまう奴ら。奴らにはこれといった名前はない、名前なんて付けたくもない。だから奴らとか、アイツらとか、そんな適当な呼び方をしている。
奴らはとにかく人の不幸が大好物。弱っている相手にしか手を出せない最低なやつで、夢という誰かが邪魔しづらい世界で調子に乗っていて、夢を悪に染めるために言葉巧みに操ったり力でねじ伏せようとする。
外では悪いことをする犯罪者を捕まえるための人達がいる。夢では悪いことをする奴らを捕まえるための人はいない。夢は何でもやりたい放題、無法地帯といってもいいのだ。
だけど少年は奴らを捕まえることができる。少年は悪い夢から悪い夢へ、ありとあらゆる悪い夢に現れる。誰の夢に現れるのかはわからない、少年が選んでいるかもしれないしランダムなのかもしれない。
わからないことが多いのは、外でもここでもどこでも同じなのは共通しているようだ。それはわかっているのにわからないフリをしているのか、わかってしまったらその真実を知るぐらいならわからないほうが良かったと後悔してしまうからなのか、本当にわからないから知りたくて知りたくてたまらないのか。
世界のことなんて何もわからない。いったい誰が世界のことを知っていて、牛耳っていて、操作しているのかさえも。
それがわかったところで、どうにかできる立場であるのか。その立場にいたら何も悩まずに立ち向かえばいい、間違っていることにはノーを突き付ければいい。そんな簡単に戦えるのか、そんな人など存在するのか。
あいつは目障りだと世界から消されないだろうか。世界の力で何もかも消されないだろうか。人ひとりを消すぐらい、世界にとっては容易いことだろう。人の命は等しく尊いけど、案外脆くてすぐに壊れるから。
「……遅いね、かんいちのやつ」
「ワンワン!」
「女の子を待たせるなんて最低だよね」
「ワンワン!」
「やっぱり王子様なんていないのかな……」
左側からあかりちゃんの声が聞こえてくる。
リュックはベンチに置かれて、僕の目に映るのは芝生だ。そこには沢山の人がいてそれぞれの休日を楽しんでいる。
そこにはあかりちゃんと同年代らしき子どもたちもいて、その子どもたちは皆笑顔で溢れていてその側にはお父さんとお母さんらしき大人がいた。我が子を見る親の目はどれも優しくて、冷たい目は一つとない。
そんな目で我が子を見るのはどこかオカシイ。大切なネジの一つが取れているのか、何かが欠けてしまったのか、子どもに対する思いが薄れてたのか。
「ねえおうじさま、私の声聞こえてる?」
「……」
「何も反応がないとさみしいね。何でキーホルダーなんだろうね」
「……」
「でもさ、私の声は聞こえてるよね? 物にも何かしらの命が宿るってきいたことがあるんだよ」
「……」
「なんだかこれじゃあひとりごとを言ってるみたいだね。そうじゃないのにね、おうじさまに話かけているのに」
「……」
「キーホルダーから人になれないのかな? ここでもその願いは叶わないのかな」
「……」
「私にはどこにも助けてくれるおうじさまなんていないのかな。こっちのかんいちに助けられてもむなしいだけだよ……」
「……」
「あっちのかんいちは逃げたんだよ。さっきみたいにさ、誘拐してって言ったらさ、そんなのできるかバカじゃないのって走っていったんだよ」
「……」
「いつも意地悪くせに逃げるなんてかっこわるい、いつも意地悪くせに勇気がないのかっこわるい、いつも意地悪くせにおうじさまとはかけ離れていてかっこわるい」
「……」
あかりちゃんは僕に話しかけている。でも僕は話したくても話せない。
キーホルダーの僕は目に映る世界に起こる出来事をただ見ていることしかできない。傍観者の僕はこの世界に関わることはできない。これでは助けたくても助けることなんてできない。どうするこの状況。
あかりちゃんが自分だけで解決してくれることを願うしかないのか。それともかんいち君があかりちゃんの王子様になって導いてくれるのか。他力本願になってしまうのが情けない。
それより奴らがあかりちゃんの前に現れた時が問題だ。僕はこの様だしどうすることもできない、じゃああかりちゃんが奴らを追い払ってくれるのか。そんな状況にはなりたくない。奴らをあかりちゃんに近寄らせたくはない。
その時右から声が聞こえてきた。お待たせーという元気な声だ。
かんいち君しか頼れる人がいない。あかりちゃんもかんいち君しか頼れない。かんいち君は僕とあかりちゃんの救世主なのか。
こうなったら僕の力をかんいち君にどうにかして送れないかと、力を入れてみた。




