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リュックに付けられたキーホルダーの僕は、女の子の歩みとともにゆらゆらと揺れる。
僕の目に映ってくるのはどこにでもあるような普通の光景ばかり。
手を繋いで楽しそうに歩いているカップル、鬼ごっこをしているのか待て待てと声を出しながら追いかけている子どもたち、汗を流しながらリフティングの練習をしている男の子、音楽を鳴らしながらダンスをしている女の子たち。ここには笑顔が溢れていて、平和に満ちていて、誰も悲しんでいる人はいない。
秋風が吹いていて肌寒いなか、太陽の暖かい光は心地よくて眠気を誘う。
ここが夢の中だということが忘れそうなぐらいだ。
「公園には人がたくさんいるね。あんまりいなかったら手を離して自由に走らせたんだけどな」
「ワンワン!」
「マロンは賢い犬だから、たくさん人がいるなかで自由にさせても何も問題はないと思うよ。誰かに噛みつくとか、誰かにおしっこかけるとか、そんなことはしないと思うよ」
「クーン」
「よしよしいい子いい子。マロンは甘えるの好きだね、私は甘えたくても甘えられないのに」
「ワン?」
前からボールが転がってきて、そのまま後ろに転がっていって視界から消えた。
ボールを投げたのか取りに行かされてるのか、取り逃したのかどれかわからないが、こっちに走ってくる男の子の姿が見える。服もズボンも顔も汚れているから洗濯が大変そうだ。
そのまま走っていって男の子も視界から消えた。そして少ししてまた男の子が視界に入るかと思ったらそうはならなかった。
そんなに遠くまでボールは転がっていったんだ。取りに走ってお疲れ様、と労いの言葉をかけておく。
「あれ、お前あかりじゃん。こんなところで何してるんだ?」
その時後ろから声が聞こえてきた。女の子の声ではない。
「ビックリしたー! 急に出てこないでよ!」
ビクッとしてリュックが揺れたからビックリしたのは本当だ。
「あかりは怖がりだなー。そんなことじゃいつまでもお化け屋敷に行けないよ」
「別にそんなところ行かなくてもいいもん。わざわざお金を払って何で怖い思いしないといけないのよ」
「……そうだけどさ。遊園地ってそういうところなんじゃないの? お兄ちゃんが言ってたけど」
「けんすけ君は優しいよね。かんいちみたいにイジワルなことしないから」
「う、うるせーな! お兄ちゃんと俺を比べるなよ! そんなの反則だよ」
いきなり大声になった。お兄ちゃんと比べられるのが嫌なのだろう。
すると後ろからフフフッと笑い声がして、リュックが少し揺れた。
「なんで笑ってるんだよ! 俺は何も面白いギャグとか言ってないぞ!」
「かんいちはけんすけ君と比べられるといつも怒るよね。それがおかしくって」
「全然おかしくない!」
「おかしいよ。だってけんすけ君はかんいちと違ってカッコイイよ。比べるのも失礼だから」
「なんだソレ! ひどいな!」
「かんいちのことだよ。皆そう思っているよ」
「うるさい、ウルサイ! 皆じゃなくてあかりが思ってるんだろ。ブサイクなくせに偉そうにするからお前みたいな女は嫌いだよ」
「ブサイクでけっこう、偉そうでけっこう、けんすけ君はそんなこと言ったりしないからね」
「お兄ちゃんの名前を出すなよ! お前わざと言ってるだろ。だから嫌なんだよ、嫌いなんだよ」
「嫌でけっこう、嫌いでけっこう。そんなことじゃいつまでもけんすけ君には勝てっこないよ」
女の子が動いて、視界の中に涙目の男の子が入った。さっきボールを追いかけていった男の子だ。
服もズボンも、顔も汚れているから洗濯が大変そうだ。顔に関してはさっきよりもさらに汚れているからしっかり洗ってほしい。
それにしても何故かんいち君は泣いているんだ。女の子、あかりちゃんにけんすけ君とかんいち君を比べられたことがそんなに嫌なのだろうか。
けんすけ君はかんいち君のお兄ちゃんと言っていた。兄には負けたくない弟ということか。その気持ちはわからなくはないけれど、現時点ではかんいち君はけんすけ君に勝ち目というものはなさそうだ。
そもそも勝つとか負けるとかの問題なのかどうかもアヤシイ。勝ってやると思っているのは、巻けないぞと思っているのは、かんいち君のほうだけでけんすけ君は何も気にしていないかもしれない。
それがわかっているからこそ余計悔しくて、腹が立つし、嫌になってくるし、泣いてしまったとしたら。
それをわかっていてわざわざ比べて、容赦なく傷口に塩を塗って、男の子を泣かせて、冷たくあしらったとしたら。
ワンワン、ワンワン、とマロンののんきで元気な声が後ろから聞こえてくる。
お散歩したいよ! お散歩したいよ! マロンはかんいち君のことなんてどうでもよくて、ただお散歩がしたいだけだ。
「……さい! ……さい! ………うるさい!」
あかりちゃんが歩いているから小さくなっていくかんいち君。しかしその声はしっかりと聞こえた。
目を真っ赤にして泣いて、鼻水も出して、ぐちゃぐちゃに汚れてしまっているけど悔しいほうが勝っている。泣いているからなんだ、そんなの気にしないぞという感じだ。
女の子に泣かされたから恥ずかしいとか、けんすけ君と比べられて悔しいとか、それが涙の原因だろうけど、自分がいかに不甲斐ないかがわかったショックのほうが大きい。
俺ってこんなに弱いやつだったのか? 俺って口ばっかで何もできやしないやつじゃないのか? 俺ってけんすけお兄ちゃんに勝てる要素なんて一つもないのに何勝手に負けてるんだ? 俺ってただ誰かに構ってもらいたいだけなんじゃないのか? だからいじめるんだ、いたずらするんだ、強がってみるんだ。
その人は俺を放ったらかしにしてどんどん歩いていく。俺を泣かしたことなんて気にせず、素知らぬ顔で、どんどん歩いていく。
ふざけんなよ! 俺をバカにすんなよ! ただ泣いてるだけの俺じゃないんだぞ!
涙や鼻水や汚れたものを長袖で拭った。またこんなに汚してとお母さんに怒られるかもしれないけど、そんなの今はどうでもいい。
「あかり! 待てよ!」
かんいち君がこっちに走ってくる。あかりちゃんを呼んでいる。
しかしあかりちゃんはふりむかずにテクテクと歩を進める。振り向いてあげてもいいのにと思うけど、あかりちゃんは今マロンのお散歩の真っ最中なのだ。
かんいち君の事情はあかりちゃんには関係がない。あかりちゃんはかんいち君がどんな気持ちでいても関係がない。
あかりちゃんは冷たい子だねえと思われたとしても、勝手に突っかかってきたのはあっちだし、それで口喧嘩になって負けて泣いても知らないよという話だ。
「おい、あかり! 待てって、シカトすんなよ!」
かんいち君は、止まってくれないあかりちゃんにムカッとしたのだろう。負けたくせに強気な態度だ。
男の子のほうが女の子より力が強いから最終的には勝てるとでも思っているのかも。いやいやそれは大きな間違いですよと今すぐ教えたい。女の子は男の子より強いんだよと叫びたい。
本当に怒らさないうちに、まだ加減してくれているうちに、謝らないともっとひどい目に合ってしまうぞ。ごめんなさいと心から誤ったら、水に流してくれる可能性だってある。
謝るのは男してできない、と謎の強がりを通すならそれなりの覚悟が必要になってくるぞ。その時はもうどうなっても知らないからな、あの時強がるんじゃなかったと後悔しても遅いからな。
「あかり! ちょっと待ってくれよ! シカトするのは意地悪だろ!」
あかりちゃんに追い付いたかんいち君は、肩で息をしながら手を伸ばした。
「何?」
「聞こえてただろ……俺の声がさ。なのにさ……どんどん歩いてくから」
「私の勝手でしょ」
「……そうだけどさ、声聞こえてただろ。待てって言ったじゃん……だからさ……待ってくれてもいいじゃん」
「待たないよ」
「なんでだよ……俺のことが嫌いだから? そんなことわかってるよ……俺が酷いやつなのは俺がじゅうぶん……わかってるよ」
「それならわかるよね」
「それでも待ってほしいんだよ! 俺はさ……その……つまり……うまく言えないけど、待っててほしかったゆだよ!」
「耳元で大声出さないで」
「……ごめん。唾も飛んじゃったかもしれない……ごめんなさい」
「さいあく」
「ごめんって、わざとじゃないから、いじわるしてるわけでもないから……」
「私、マロンの散歩中なんだけど」
「それもわかってるよ、見たらわかるよ。でもさこのままひきとめないと、あかりが遠くに行ってしまいそうな気がしたからさ」
「遠くに行くよ」
「そうだよな、そう思ったから俺はひきとめたんだよ。俺にはわかるんだよそういうのが。人の心がわかるとかそういうのじゃないけど」
「ならほっといて」
「ほっとけないって! あかりが遠くに行ったら俺はどうするんだよ。寂しいじゃんか……」
「……」
あかりちゃんはかんいち君にたいして冷たい口調で話していた。しかし黙ってしまった。
あまりにしつこいから呆れているのだろうか。しつこい男は嫌われるから、しつこい男であるかんいち君のことを嫌ったのだろうか。そもそも初めから嫌っていた相手だから口も聞きたくないはずだから。
今更なんなのよ? さんざん意地悪してきたくせに謝りたいだと。謝るぐらいなら初めからやらなきゃいいんだよ、それを途中でやめやがって情けないし中途半端なやつめ。許してなんかやんねーよ、許すはずなんてないんだよ、お前は何様なんだよ。とあかりちゃんが、心の中で思っているのかもしれない。
それぐらいのことを思っていてもおかしくはない。かんいち君はそれぐらいのことをしでかしたのだから。
「俺はさ、最低なやつだとは思うしあかりに嫌われてると思うけど、それでもこのまま黙ってはいられないよ!」
「……」
「何で遠くに行くのかは知らないけど、人には言えない理由があるんだろ? そういうの俺もあるしわかるよ」
「……」
「大人はすぐに俺達のことをバカにするじゃんか。子供だからって言ってさ、何もできないと決めつけてさ。そりゃできないことのほうが多いんだけどさー」
「……」
「大人だって初めから何でもできたわけじゃないだろって思うよ。それなのにさー大人だからって偉そうにしてさ、目上の人にはどうのこうのってお母さんに言われるけどしらないよって感じ」
「……ふふっ」
「今俺何か面白いこと言ったっけ?」
「かんいちがそんな真面目なこと言うの面白いなって」
「……うるさいよー」
「ふふっ、かんいちは嫌なヤツだけどわかりやすいよね。それより手をどけてくれないかな」
「あっごめん、ずっと肩を掴んでた」
伸ばしていた手が引いていき、だらんと下に伸ばした状態になった。
かんいち君が意地悪していたあかりちゃんをそこまでして止める理由とは。それはなんとなくだけどわかったような気がする。だってわかりやすいから。
それよりも気になるのは遠くに行くということだ。お散歩を少し遠くまで行くという意味だと思うけど。
「かんいちはさ、どうしたいの?」
「えっ?」
「私の歩みを止めたんだから、責任とりなさいよ」
「ええっ!」
かんいち君は目を大きくして漫画のように驚いている。それはいくらなんでも大げさだよと言いたいけど、本当にそれぐらい驚いているのかもしれない。
空には鳥が何匹も飛んでいる。V字に隊列を組んで、何処かを目指している。
この鳥たちは渡り鳥だろう。食糧、環境、繁殖などの事情に応じて定期的に長い距離を移動するのだ。
一定の場所にはあまり長く留まらないのだろうか。ゆっくり落ち着ける場所があったほうが良いと思うんだけど。
彼らはまるで旅人のようだ。渡り鳥からすれば旅人が真似をしているように見えているのだろうが。
秋の風をその身に受けながら前に進むというのは、渡り鳥もあかりちゃんも同じだ。




