に
ドタバタと階段を駆け降りていく女の子。
僕はパンパンに詰まれたリュックに何度もぶつかる。痛くはないけど揺れ続ける視界に気分が悪くなりそう。
一階に下りてきて、埃やゴミが一つもない綺麗な階段が目に映る。後ろでは女の子のふーっという息をはく音がしてくる。そしてよしっという気合いを入れた声も。
そんなに散歩というのは気合いを入れるものなのだろうか。ただリードを引っ張って、ペットを歩かせて、ルートから外れそうになったら力を入れて引っ張って主従関係をしっかりさせる。そんなに難しいものじゃなさそうに思えるけど。
後ろからテレビの音が小さく聞こえてきて、そしてキーッという音とともにテレビの音は大きくなった。廊下からリビングへと目に写るものが変わった。
「ママ、わたし一人で準備できたよ! これでいいよね?」
女の子の声が後ろから聞こえた。
「そうなの、それは偉いわねよくやったわ」
次に聞こえてきたその声はママのものだろうか、何だか冷たい気がした。
「マロンのお散歩に行ってくるけど、ママはこのあとどうするの?」
「そんなのどうだっていいでしょ。私の自由なのよ何をするのも。邪魔される権利なんて誰にもないんだから」
「……でもね、わたしこれからお散歩に行くよ! ちゃんと準備できてるかママに見てほしいな!」
「何でわざわざ見なくちゃいけないのよ。私は今忙しいのよ、見てわからないのかな」
「でも……そんなのやめられるよね、何かボタン押せば。だからね、私のことを見てほしいな!」
「しつこいよ。私は今忙しいと言ったよね、だからほっといてくれるかな。いつも私をイライラさせてる癖に日曜日ぐらいゆっくりさせてよ」
ママの声は冷たくて刺がある。何かあったのだろうということはわかった。
「……わかったよ、ママ。じゃあお散歩に行ってくるね」
「はいはい行ってらっしゃい。ついでに何か適当にコンビニでお昼買ってきてくれない? テーブルに財布あるからさ。それとお菓子とかつまみとかジュースも」
「うん、わかったよママ! お散歩してからコンビニに行くからちょっと時間かかるけど」
「そんなの気にしないからお昼よろしく。じゃあ私も行ってくるね、今日こそ魔術師倒してやる!」
テレビの音が聞こえなくなった。どういうことかは見えないからわからない。
「……行ってきます」
女の子は静かにそう言って、たたっと走って体を動かした。
僕の目に映ったのはフローリングの上やテーブルの上にある沢山の缶ビールと、お菓子の袋とカップラーメンと週刊紙だ。そして真っ白な壁には何やら書き殴られていた。しかしその文字はなんて読むのかわからないぐらいぐちゃぐちゃだった。
大きなテレビに映っているのは、鎧を着た少年がモンスターに剣を振り回している映像だ。ヘッドホンを付けて手にもったコントローラーを操作しているこの女性が女の子のママだ。
ママの顔は見えないけど、死ね死ねとかそこだそこだとかという声を出しながら、テレビに映る少年を動かしている。ゲームに夢中だから冷たい言葉だったのか。子供よりゲームのほうが大切なのか。
女の子が歩いていくからママの姿は小さくなっていく。行け行け、回り込んで攻撃しろ、その声は静かな部屋に切なく響く。後ろでドアを開ける音が聞こえた。
「……ママのばか」
僕にしか聞こえないぐらいのその声はとても寂しげだった。
そして部屋を出ていった。女の子が体を動かすと僕の見る景色は変わる。もう僕の目にはママの姿はなく、散らかった缶ビールやお菓子の袋やカップラーメンもなく、絵画が飾られた真っ白な壁が見えるだけだった。
絵画は幾つか飾られていた。見える範囲のものはのれも見たことのないやつばかりだ。どこかの町を女の子が空を飛んでいる絵、どこかのビーチで浮き輪に入ってピースサインをしている女の子の絵、どこかのお店で女の子がナイフとフォークを持ってとても素敵な顔でステーキを見ている絵。
この絵に描かれている女の子はどれも同じ人物のようだ。しかしそれは今からお散歩に行く女の子ではない。絵の中の女の子は誰だろう。誰でもなくってただの絵かもしれないけど。
女の子が体を動かした。お散歩に向かうのだろう。
マロンという犬はどういう犬なのかな? 大型犬なのか、それとも小型犬なのか。可愛らしい名前をしているから大型犬ってわけではなさそう、なので小型犬だとは思うけど予想は合っているのやら。別に間違っていても何もないけど。
「マロン、お待たせ! おとなしく待ってて偉いね。さあお散歩に行くよ」
「ワンワン!」
女の子の優しい声のあとに、可愛い犬の声が聞こえた。
ちょっと待ってね、という声が聞こえたあとにリュックが上向きになった。僕は天井を見ていることになる。玄関内を明るく照らす照明は消えていた。昼間だから必用ないのだ。
よし、はけたはけた。その声のあとにリュックが動いていつもの位置に戻る。後ろからガチャッという音が聞こえて、ワンワンという元気なマロンの鳴き声も聞こえる。
早くお散歩に行きたいワン! 今日はどこに連れていってくれるのかワン! マーキングもしっかりしたいワン! とマロンは興奮しているのかもしれない。犬を飼っていると散歩をしないといけないから面倒くさそう。
犬の散歩のついでに自分の散歩にもなるしちょうどいいか、と思えたら苦ではないけどそれが毎日だと面倒くさそうだし飽きちゃいそうだし今日はいいやってなりそう。ペットは可愛いけどそれだけでは飼えない、命あるものを育てるのはとても大変なことだと思う。
人の子だけでも相当大変だと思うのに犬までいるなんて。それであの冷たい言葉が出てくるなら、ペットなんて飼わずにもっとちゃんとしっかり自分の子供を見てあげなよと言いたい。
言えるならもう言ってる。でもキーホルダーの僕にはそれはできない。
「いい天気だね、そうおもわない?」
ドアを開けた女の子はそう言った。
マロンにそれを聞いてほしかったのか、それともキーホルダーの僕に聞いてほしかったのか、どちらにしても上手く答えることはできない。ワンワンか無反応かのどちらかだ。
「はい、マロン外に出て。お散歩に行くんだからさ」
「ワンワン!」
「そうそういいこね。外は少し寒いけど、歩いていたらそのうちあたたかくなってくるからね」
「ワンワン!」
女の子が動いて門扉へと続く小道が見えた。
レンガの小道が外へと導いてくれるかのように伸びている。そのまりには花壇があったり、草が生えていたり、ちょっとした自然がここにはあった。
後ろからドアを閉めた音が聞こえた。女の子が動いて僕の目には鍵が閉められたドアが映る。
当たり前だけどここから女の子のママは見えない。このドアはとても頑丈で、どんなことをしても開くことはなくて、この中に閉じ込めた者はもう二度と外に出ることはない。何故かそんなふうに思えた。
それはこのドアが、この家が、何だか酷く冷たいように思えたからだ。
「何処に行こうかな? マロンのリクエストにこたえてあげるよ」
「ワンワン! ワン!」
「うんうん、嬉しいんだね。よしよし、マロンは可愛いね」
「クーン」
「マロンだけだよね、私のことを心配してくれるのは。ママはあんなんだし……パパは……」
その声は寂しそうな感じだ。
そりゃ寂しくもなるだろう。ママは女の子にたいしてあんな扱いだったんだから。パパの姿はなかったけど出掛けているのだろうか。
女の子が歩いているからドアが少しずつ遠くなっていく。
目に映るものが後ろから前へと動くことに苦手な人もいるみたいだ。電車に乗っているとそれに出くわすことがある。僕は平気だけど、苦手な人は気持ち悪くなって酔ってしまう。
レンガの小道が後ろから前へと動いていく。それは可愛くてお洒落だ。
色んな花が咲いている花壇が後ろから前へと動いていく。それは華やかで心を明るくしてくれる。
夜になると小道を照らす照明が後ろから前へと動いていく。それは優しい光で闇から守ってくれる。
屋根が付いている駐車場が後ろから前へと動いていく。それは皆で思い出を作ったり、楽しんだり、感動したり、癒されたり、何気ない毎日のスタート地点。
この家は二階建てで、門扉へと続く小道があって、駐車場もあって。今女の子が動いて見えたけど、庭もあってそこでバーベキューとかできそうだ。
二階のあの、白色のカーテンが見えるところは女の子の部屋なのかな。窓は閉められていて、電気も消えている。
「さあマロン、お散歩にいくよ! はい門からでてください」
「ワンワン!」
門を開ける音が聞こえてくる。
女の子が動いて、家の外が目に映る。そこはどこにでもあるような住宅街で、色んな家があちこちに建っている。
煙突がある家、渡り廊下で繋がる二世帯住宅、二階がガラス張りで生活が丸見えの家、畳で寝転びたくなるような和風の家、縦に長くて狭い狭小住宅、屋根には沢山のソーラーパネルがあるエコな家、倉庫のような家。
人通りはあまりなくて、天気がいいのに子供たちの声は一つも聞こえてこなくて、静かな住宅街で目を閉じていると風の音が心地よさそうだ。
「……寂しくなんかないもん。ママがバカだから、パパもバカだから、だから私はお散歩に行くんだもん」
「ワンワン!」
「マロンがいるから寂しくなんかないもん。私は一人じゃないから、寂しくなんかないもん」
「ワンワン! ワンワン!」
「それに私には王子様もいるから。おうじさまが私を守ってくれるから」
女の子は急に走り出した。僕の視界は激しく揺れる。
走ったら転んでしまうよ、そしたら痛くて泣き出してしまうよ、こんな静かな場所で泣き声あげたらどこまでも響きそうで恥ずかしいよ。それに急に角から誰かが飛び出してくるかもしれない、その人にぶつかったら怪我をするかもしれないし怪我をさせてしまうかもしれない。飛び出してくるのは人とは限らない。自転車だったら、車だったらどうする。
走るのはやめなさい、と言いたいところだけどキーホルダーの僕には無理な話だ。
せめてこの姿でも動くことができたら良いんだけど。力を入れて動こうとしているけれどできない。それが無理なら女の子とお話だけでもできたらいいのに。 とりあえず適当に読んでみようかな。突然真後ろで声が聞こえてきたらビックリするかもしれないけど。 ビックリして転けてしまって、人か自転車か車にぶつかったらどうしよう。声をかけるタイミングも考えなくちゃいけない。
ああ、なんてめんどいんだ! 関われないというのはこうもめんどいことなのか。
毎回関われるとは限らないということだ。僕は悪い夢を見ている人の夢に勝手に入り込んできているのだから。本来その人の夢には、僕という登場人物は出るはずがないのだから。
しかし僕は夢を悪くしようとしているマイナスの塊を消さなければいけない。それが僕の役目なのだから。
どんなにめんどい状況だとしてもこの夢を正常に戻す。そうしなければ夢は悪に染まり、奇妙で不気味な笑い声をあげるヤツらが調子に乗る。この夢から逃れられないように手を掴み、足も掴み、外へと変えれないように邪魔をする。
外に出れないということは、夢の中から出られないということだ。つまり夢に溺れて、外では目を開けることはなくてずっと眠っている状態になる。
体には何の異常もない。ただ眠っている、何時間も何日も何週間も何ヵ月も何年も。悪い夢とはとても恐ろしいものなのだ。
「マロン、ここは車がよく通るから危ないよ! はい止まって止まって」
「ワンワン!」
「そうそう、偉い偉い。今は車一台も走ってないけど、右見て左見て安全かどうか確認してから渡ろうね」
「ワン! ワン!」
この夢を見ているのは女の子だろうか。
地面に白線が見えた。綺麗な白線で、どこも消えているところはなかった。




