ろく
マイナスに対抗できるもの、それはプラスしかない。
前向きなことを考えたり思ったり言われたり、とにかく何でもいいから前を向けたらそれでいい。それで心に蠢いているマイナスが消えてくれたら尚良い。
しかし心にできた傷というのはそんなに簡単に治らない。これが心じゃなくて体だとしたら、外科的治療や内科的治療で治すことができる。
でも心はそうではなくて難しい。心を落ち着かせる薬は存在している、だからそれを飲めば楽になるのだろうが心はどうやったって見ることができない。腕にできた傷なんかは腕を見ればわかる、足にできた傷だってお腹にできた傷だって。しかし心はこの目で見れない。
薬で落ち着く、それは薬の力なのだろう。どんな成分が入っていて落ち着くのかはわからない、でも飲めば落ち着くことができる。その時間はほんの少しかもしれない、それでも落ち着くことができる。飲まなければ心の傷は広がる、だから飲むしかない。
それで治る人もいる。治らない人もいる。いろんな人がいる。
「そんな事言われたの久しぶりかも」
「そうなの?」
「うん。最近はお父さんもお母さんも何も言ってくれないから」
「どうして」
「さあ何でかな、私ができそこないだからかな。だから何も言わないのかな」
「酷い親だねそれは」
「そうだね、酷い親だよ」
女子生徒の表情は晴れている。さっきもスッキリしたとか言っていたがあの時は晴れのち曇りで、まだ心のどこかでモヤモヤとしたものを持っていたのだろう。しかし今は曇りはなくて、快晴だ。
「ねえもう一回言ってよ」
「何を?」
「さっき言ってくれたじゃん。それをもう一回」
「何だったっけ、僕はよく忘れるんだよね色んなことを」
「なにそれ、全く面白くないんだけど」
「別に笑わそうとしてないよ」
「そういうことじゃなくってさー」
そんな話をしながらも二人は学校に向けて歩いている。風と雨はもう二人を邪魔しない、そんなものは妨害にならない。
「できるよ、君なら」
「……急にやめてよ、心の準備とかいるじゃん」
「頼んできたのはそっちでしょ」
「そうだけどさ、タイミングがあるじゃん」
「そんなのわからないよ」
「あーもう」
「元気出たね、それなら大丈夫だね」
二人は門の前まで来た。門はしっかりと閉まっていて、重そうでぴくりとも動かないんじゃないのかとさえ思えてくる。
さっき開けようとしたが全然開かなかった。その時の感覚はまだ女子生徒の手には残っているだろう。引っ張っても動かない、いくら引っ張っても力を入れても全然動かない。その嫌な感覚がまだ手にはびっしりと残っているはずだ。
少年は顔を上げてやつの様子を伺う。高層ビルのように高くなった校舎の窓には、目と口があって笑っている。こいつがこの夢を悪くした張本人だ。
イヒヒヒヒと気持ち悪い笑い声が耳に届く。とても耳障りだ、今すぐにでも手や耳栓で塞ぎたくなるぐらいだ。しかし二人はそんなことはしなくて顔を上げて睨んでいる。
女子生徒は怖がっていなかった。この世のものじゃない、とても怖いものを前にしても臆することなく戦うことに決めたのだろう。
ここは夢の中、そして今この夢は悪い夢。悪い夢ではこの夢を見ている人にとって目を閉じたくなるような、逃げ出したくなるようなものを見せてくる。こんなことをするのは心にできたマイナスを好む気持ち悪いあいつら。
やつらは心を支配したり、精神を崩壊されるのが目的のようだ。そうなった人はどうなるのだろうか。考えたくはない、なるべくそうなりたくはない。
「あいつムカつくでしょ」
「あんなのが私を苦しめていたの? なんだか腹が立ってきた」
「そうなんだよ、あんないじめるだけしかできない最低なやつに苦しまなくてもいいよ」
「馬鹿馬鹿しくなってきた。アイツ今すぐ殴りたい」
「暴力的だねー」
「今まで私が受けてきた辛いことは全部あいつのせいのような気がしてきた」
「そうだといいね」
「あいつのせいだよ。お父さんもあいつに操られていたのかな」
「それは外行ってから確かめてよ」
「そうだね、今はやることがあるもんね」
女子生徒は右手の五本の指を折り曲げて、しっかりと握って握り拳をつくった。気合を入れているんだろう。そして門へと手を伸ばす。
その表情は全く沈んでいなくて太陽のように明るく、悲しいことや辛いことを跳ね除けそうで、怖いものなんて何もないよと言いそうなぐらい自信に満ち溢れたとてもいい顔をしている。
その様子に応えたかはわからないが、草原にある沢山のドアは次々と消えている。この夢は悪いものから解放されようとしているのだろう。
そうとなったらアイツは黙ってはいない。目を大きく尖らせて、口を上下左右に動かして大きな声で女子生徒の心を動かそうとしている。
『ソンナコトヤメロ! オ前ガ辛イダケダゾ!』
その声に女子生徒は一瞬動きを止めたが、気にすることなくまた手を伸ばす。
『現実ハトテモ辛イ場所ダ。ソレハオ前ニハ分カッテイルハズダ』
ドアはどんどん少なくなっている。天気も回復してきて、真っ赤な太陽が再び顔を出した。
『マタ悪口ヲ言ワレルゾ、ソレデモ耐エラレルノカ? オ前ハ現実ニ居場所ナンテナイ。ダカラ諦メロ』
女子生徒は門を掴んだ。右手に力が入っているようだ。
『無意味ナコトハスルナ! 現実ナンテ忘レロ、ソレガ一番ダ』
少し門が動いた。草原にあるドアは残り一つになっていて、そのドアも消え始めた。
『苦シイ現実ガ待ッテイル、辛イ現実ガ待ッテイル、恐ロシイ現実ガ待ッテイルゾ!』
門は半分まで開いた。最後の一つのドアは消えた。女子生徒は顔を上げた。
「さっきからうるさいんだよ! 私のことは私が一番知ってるし、私はお前なんかに負けたくない!」
右手に力が入って、門は全部開いた。
学校から声が聞こえてくる。その声は悲しいものでも恐ろしいものでもなくて、楽しそうな声ばかりだ。今日のお弁当美味しそう、この前テストで百点とったんだよ、次の体育サッカーだってさ超嬉しい、その声は女子生徒の耳へと届いている。
少年は顔を上げた。高層ビルのように高くなっていた校舎は、どこにでもある高さの校舎に戻ったようだ。そこには目も口もなくて、どこにもおかしなところはなかった。
女子生徒は少年のほうへと顔を向けた。
ありがとう。頬を少し赤らめてお礼を言うその姿はとても可愛くて、ドキっとしてしまいそうだ。
少年はいえいえと笑顔だ。
迷惑かけました、ごめんなさいでした。女子生徒は頭を下げた。
別に悪くないから頭上げて。少年は自分の役目を果たしただけなので頭を下げられるのは苦手だ。
女子生徒が頭を上げて、少年の横から見える光景に目を大きくさせた。
目の前で驚く女子生徒に少年はどうかしたのと心配する。
しかし何も言わない、何故何も言わないのだろうか。ひょっとしてまたあいつら来たのかと振り向く。
するとそこには桃色の花があった。
さっきまでドアが沢山あったそこやあっちに、今度は桃色が埋め尽くしている。
どこまでも広がる桃色。こんな景色は外では見られないだろう。
女子生徒は二、三歩前に進んだ。
少年の目には女子生徒の肩越しに桃色が映っているだろう。
「この花綺麗だよね」
「そうだね」
「でも私この花嫌いだったんだよね」
「何故?」
「だってこの花……この桃色の花……」
「うん」
「私と同じ名前だから」
「桜ちゃん?」
「うん、私の名前は桜」
「良い名前じゃん、可愛いし」
「今まではそう思わなかったけど今はそう思う」
「良かったね」
「うん、良かったよ」
遠くのほうで音が聞こえる。ピピピピと、その音が鳴ったら起きる合図だ。
それは少年が夢から出て行くという合図でもある。もう女子生徒、いや桜とはお別れだ。
夢を見ている間にだけ現れて、起きたらもうそこにはいない存在である少年。
「もう大丈夫だよね?」
「現実は何も変わっていないから、まあ頑張ってみるよ」
「もう悪い夢を見ないでね」
「なるべく見たくはないけど、また見てしまったらよろしく」
「その時はまた助けたいけど二回目は滅多にないからなー」
風が吹いて桜が舞い散る。その桜が二人の真上でヒラヒラと舞う。
「ありがとう」
「いえいえ」
「じゃあ、さようなら」
「じゃあね」
ヒラヒラと舞っている桜が、桜の頭の上に乗った。
その花びらはこんなにいっぱいある桜の中で一番綺麗なように見える。それはこの夢に、桜に光が射し込んだからだろうか。
桜は一面に広がる桜を見ていて、少年がいたところを振り向く様子はない。
振り向いてももうそこにはいない。初めからそこにいなかったかのように、存在すらしていなかったかのように何もないはずだ。
この景色を目に焼き付けるかのようにじっと見ている。外では見られないだろう桜で埋め尽くされた世界、こんなに美しいものを独り占めなんて贅沢だ。
だから嬉しくなる、可笑しくないのに笑えてくる。桜は満開の笑顔だ。
しかし目には熱いものがあった。
少年とのお別れが寂しかったのだろう。少年がいた時間は短いけど、心の中には少年がいるのだろう。
私頑張るよ、この夢から目を覚ましたら今日が始まるから。
目覚まし時計をまず消して、右手と左手を思い切り伸ばして伸びをしたあとにカーテンを開けて朝の光を浴びてヨシって気合を入れるんだ! そんで階段を下りて行って、おはようって元気よくお父さんとお母さんに言う。
そしてお父さんにぶつけてやる。私の心の中にあるモヤモヤしたものを。
朝からビックリするだろうな、でもそんなこと知らないよ。私が変わったことをちゃんと見せてやる、今までの私じゃないってことをちゃんと見せてやる!
学校からチャイムが聞こえた。いつも聞くあの音だ。
すると桜は涙を拭って、学校へと走って行った。おはようございますという元気がいい声が聞こえた。
◇
目を開けた少年はロッキングチェアに座っていた。
眠そうな感じはしなくて、微睡んでいる様子も欠伸が出る気配もない。ただじっと前を見ている。
窓から見える夕陽は赤と青と黒が上手く混ざっている。カーテンが閉まっていたらこの景色は見れなかっただろう。
部屋には色んな物がある。壁にも、床にも、棚にもテーブルにも。
漢字が書かれた半紙、使いかけのクレヨン、一円玉しか入っていない透明の貯金箱、地球儀、動物や花の図鑑、鶴の折り紙、積み上げられた漫画、高そうなグラスやお皿、富士山のカレンダー、金色の砂が落ちている砂時計。
少年はその中から花の図鑑を手に取った。
ぱらぱらと適当にページを捲っている。そしてあるページで捲るのをやめた。
そこにあったのは桜。さっきお邪魔した夢に出てきた花であり、悪い夢を見ていた女子生徒の名前でもある。
少しの間図鑑に載っている桜とにらめっこして、少年は図鑑を元の場所に置いた。
ロッキングチェアから立ち上がり、出入口であるドアへと歩く。
その途中顔を横に向けて、外に広がる夕陽を見る。
足を止めてじっくり見ることはなく、ドアへと向かって部屋を出た。
螺旋階段を下りる。足音を響かせて、下に誰かいないか確認しながら。足元にも注意をして。
すると白いソファーに座っている人物がいた。
その人物はユミちゃんでもシュウ君でもなくて、今回初めて登場する人物である、
その初登場の人物は白髪の長髪で、真っ赤な服を着ている。金色の眼鏡もかけていて、今は優雅に紅茶を飲んでいる。
足音に気が付いたのか、顔を上げて少年の姿を確認するとニッと笑った。
「おばば来ていたんだね」
少年がそう言うとおばばと呼ばれた老女は、新しいティーカップに紅茶を入れた。
「来ちゃ悪いか」
「そういうわけじゃないよ」
「まあいいけどね。甘いもの食べるかい? 取ってきてやるよ」
おばばはそう言ってキッチンへと向かった。少年は食べるとも、食べないとも何もこたえてはいないのだが。
螺旋階段を下りてきた少年は、白いソファーへと腰を下ろした。
広いリビングには少年とおばばの二人だけ。ほかには誰もいない、動物たちとユミちゃんシュウ君はどこに行ったのだろう。
「ほら、お食べ。ロールケーキというやつだよ」
テーブルに置かれたロールケーキはフルーツが入っている。美味しそうだ、でも高そうだ。
少年はフォークで食べやすいサイズにしてから口へと運んだ。その様子をおばばはニッと笑いながら見ている。
「どうだい? 有名なお店のロールケーキらしいんだ」
「うん、美味しいよ」
「本当かい? そりゃ良かった、あんた味にうるさいからねいつもいつも」
「そんなことはないけどね。あっでもちょっと甘すぎるかな」
「ほらまたうるさい。たまには素直に食べなよ」
少年はフフっと笑った。するとおばばは安心したような顔になった。
「今回はどうだった?」
「……うん、まあ楽勝だったよ」
「そうかい。それならいいんだけどね」
「いつもありがとう」
「別に構わないさ。私にはこれぐらいしかできないんだから」
フォークが食器に当たる音が響く、紅茶を飲む音が響く。
「大丈夫かい?」
「だから大丈夫だってばー、おばばは心配しずぎだよ」
「そうかい。それならいいんだよ、それなら」
「孫は可愛いから心配になる。そんな感じかな」
「んーどうだろう。まあそんな感じにしておくよ」
「優しいね」
「褒めても何も出ないからね。私は何もできない老いぼれなんだから」
「僕に優しくしてくれるじゃん」
「それしかできない老いぼれだよ」
「ふーん」
少年はロールケーキをフォークで刺した。そしてそれを口へと運んで食べる。
お皿の上は綺麗さっぱり、ティーカップにはまだ紅茶が入っている。美味しかったーと少年が幸せそうな顔をした時、どたばたと元気のいい足音が聞こえてきた。
片付けようか。そう言ったおばばは素早くお皿をキッチンへと持って行った。
少年は足音が聞こえてくるほうを見る。
ユミちゃんとシュウ君に見つかったら食べさせろとうるさい。食べさせたらいいのだけれど、何故かおばばは毎回少年の分しか買ってこない。ついでにあと何個か買えばいいのにそれはしない。
これはご褒美なのだとおばばは言う。何のご褒美? さあね、それはおばばに聞いてください。でも何となくわかるよね。
☆桃色の花が咲く季節 おわり☆