いち
大きな家から少し離れたところにある大きな大きな木は、黄色と赤色に染められた葉っぱがとても綺麗だ。
風が吹くとひらりひらりと葉っぱは落ちていき、地面に紅葉の絨毯を作る。そこに寝転ぶもよし、紅葉狩りを楽しむもよし、甘くて美味しい焼き芋を食べるもよし。
秋というのは夏のあの暑さとは違って過ごしやすく、冬のあの寒さとも違って過ごしやすく、景色は綺麗で食べ物は美味しくてスポーツや読書にも最適だ。ひょっとしたら春夏秋冬で、秋が一番良い季節なのかもしれない。
その大きな木の下には春のように少年と動物たちの姿はなく、誰一人としてそこにはいなかった。今日はそういう気分にはなれないのだろう。明日になったらそこに誰かいるかもしれない。
じゃあ少年は何処にいる? 大きな家を覗いてみると、リビングにはおばばと梓さんとユミちゃんとシュウ君と動物たちの姿があった。しかしここには少年の姿はない。
自分の部屋にいるのだろうか? 螺旋階段を上った先にある、この家で一番高いところにある部屋を覗いてみる。そこは色んな家具や物が置かれた部屋で、ここにある一つ一つには何か特別な思いが込められているという。少年はベッドにも、椅子にも、ソファーにも、ロフトにもいない。
他の部屋にいるのだろうか? そうなると大変だ。この家はとにかく広い。外から見ても広いのに、なかに入ると倍以上広く感じる。それは勘違いなのか幻なのかと思えてくるがそうではなくて、広く感じるのは事実で目に見えてるものは本物なのだ。
リビングでユミちゃんが床に横になっている。シュウ君はそれを見て、真似をして横になった。
「なんで私の真似をするの」
「駄目なの?」
「そうじゃないけどさ、食べてすぐ横になったら牛になるよ」
「ステーキ?」
「そうそう。焼いたり、炒められたり、煮られたり。もうどうなるのかわからないのよ」
「それって牛だけじゃないよね。豚も鳥も、魚も甲殻類も」
「そうそう。みんな人間様に食べられるのよ」
「人間って偉いんだね」
「人間が偉いんじゃなくて私が偉いのよ。そこ間違わないでよね」
「はい、わかりました!」
相変わらずユミちゃんの偉そうな態度はたいしたものだ。このままではホントに将来魔性の女になってしまうぞ。
男を顎で使い、己の欲求が満たされないとイライラして癇癪を起こして、いい年してみっともないぐらいに泣きわめく。それを見た男は必死にあやす、そのためにとても甘やかす言葉を言う。何か買ってあげるから機嫌なおして、僕が悪かった何でもするから許してください。
その言葉が出るのを待ってましたと言わんばかりに、急に泣き止んで笑顔になってご機嫌になる。そうやって男は使われていく、一度捕まったらなかなか逃げられないのだ。まるで蟻地獄のように。
「ユミちゃんはさ、シュウ君のことをどう思っているんだい?」
二人にそんなことを聞くおばばは笑っている。
梓さんは口をぽかんと開けている。二人はまだ子供なのよ、それにユミちゃんは魔性の女候補生なのにそんなこと聞くのは恐ろしい。そう思っているかもしれない。
「シュウのこと?」
「そうだよ。ここにはユミちゃんの相手となる男はシュウ君しかいないだろ」
「……なるほどね。ふふっ」
おばばのその言葉にユミちゃんはイタズラっぽく笑った。
シュウ君は背筋に寒気が走った、梓さんも背筋に寒気が走った。おばばは一人余裕に笑っていた。
「男の子は二人いるよ、シュウ君とお兄ちゃんが」
ユミちゃんは笑顔だが、梓さんは頭を抱えてシュウ君は握りこぶしを力強く作った。余裕なのはおばばだけ。
「ちょっと、ちょっと! 何であんなこと言うのよ、これじゃあ余計にシュウ君が少年に楯突くじゃない」
「別にいいんじゃないのかい? 坊やはシュウ君の攻撃をなんとも思わないだろうからね」
「だからってわざわざそうさせるように仕向けなくてもいいじゃない。なんだか皆でシュウ君で遊んでるみたい」
「それは違うよ、これをわからないようじゃ梓もまだまだ大人になれていないねえ。体だけはスッカリ大人になっているのにねえ」
そう言いながらおばばは梓さんの胸を揉んだ。
動物たちはリラックスした状態で何やら喋っている。うちらと人間は違うな、人間の世界は何だかややこしそうね、オラは人間が口にする食べ物は好きなんだけどな、ぼくたちみたいに眠たくなったら誰にも邪魔にされずに眠れるほうが楽だよ。
遊んで、遊んで、と人間に甘えた声を出す子猫や子犬が何匹かいる。ユミちゃんは優しい顔になって優しく頭を撫でる。動物に対しては魔性の女ではなくなるようだ。
リビングではそんないつもの風景が今日も見える。ただ一つ違うのはそのいつもの風景の中に少年の姿がないということだけ。
いったい少年は何処に? カメラをリビングから引いてみよう。すると大きな大きな家の大きな大きな屋根が見えた。もう少しカメラ引いてみよう。すると小さいけれど人の姿を見つけた。
その人は家の前にあるポストの横で立っている。秋の風が吹いていて寒いというのに、何故そんな所にいるのだろう。
カメラを寄ってみる。するとポストの横で立っている人物の姿がだんだんわかってきた。グレーのパーカーを着ていて、黒のジーンズをはいている少年がそこにいた。
少年は遥か先まで続く一本道をじっと見ている。そこには誰も歩いていなくて、車も一台も走っていなくて、ゴミは一つも落ちていない。道の回りには何もなくて、だだっ広い草原がどこまでも広がっている。
少年の肩にはセキセイインコが乗っていて、くりっと小さな目が可愛くて体の色が綺麗で無性に手に乗せたくなるその愛らしい姿が心に癒しを与えてくれる。
「ピーちゃん寒くないかい?」
「寒くないし、ちゃん付けで呼ばないでくれ」
「でも可愛いよ。ピーちゃんは何をしても可愛いよ」
「俺は厳つい男なんだ。人間には可愛く見えてるかもしれないが、そうじゃないんだ」
「そういうもんなの?」
「人間にはそれぞれ違った顔があるだろ、それと同じように俺達にもそれぞれ違った顔があるんだよ」
「……全く見分けがつかないんだけど。どこがどう違うのか教えてよ」
「外国人を見たら皆同じように見えるだろ。それと同じようなことと思えばいい」
「納得したような、まだ納得できないような」
少年とピーちゃんがお話をしていると遠くの方から音が聞こえた。
ブンブンブンと騒がしい音が聞こえてくる。その音はだんだん近づいてくる、音が大きくなっている、一本道の遥か先に何か見える。
それは遠目でもわかるぐらい、とても速く移動している。そんなに急いで何処へ行くつもりなのだ、そんなに急いでいたら道に誰かいたら避けきれないではないか。そんなに急いでもいいことはないぞ、一日は限られた時間しかないけれど焦っても仕方ないことだってあるのだから。
少年は二、三歩後ろに下がってそれが来るのを待つ。それが来るのを少年は待っていたのだ、少年はそれに用事があったからここに立っていたのだ。
それはいい知らせなのか、わるい知らせなのか、そのどちらでもないのか。その目で見るまでは何とも言えない。何が書いているの確認するまでは何も始まらない。いやそもそも何も始まらないかもしれない、始まることはなくて何も起きないかもしれない、そんなことだってあるのだから。 それはだんだんやって来る。砂煙を舞い上がらせながら大きな家へとやって来る。ブンブンブンという音がどんどんやって来る。
やがて見えてきたのは黒色のバイクに乗っているサングラスをかけた男だ。黒のライダースに黒のパンツと全身黒で統一されている。バイクも黒だから夜に走ったら同化してしまいそうだ。
バイクは少年に近づくにつれて減速していき少年の目の前で止まった。エンジンを止めて、白い歯をニッと見せた男は口を開く。
「おう、久しぶりだな! 元気にしてたか!」
男の声はバイクが走っているあのうるさい音にも負けないぐらい大きい。
「僕は元気ですよ。のぶさんも元気そうですね、そのお腹を見ればたくさん食べてるのを想像できます」
「ハハハ、このお腹はアルコールだよ! つまみもあるがな! 秋になってますます食欲が止まらなくってよ」
「食欲があるのは良いことなんじゃないですか。適度な運動も必要ですが」
「それを言わないでくれよ、運動は苦手なんだからよう。まあでもその通りだからいい加減やらないとな」
「そう言ってのぶさんはいつも運動しないけどね。僕は一応心配してるんですよ、のぶさんがいないと届かなくなるし」
「嬉しいこと言ってくれるじゃないか! 少年は優しいなぁ、少年だけだ優しくしてくれるの。はい、これ」
のぶさんは封筒を少年に渡した。封筒を受け取った少年は、早速中身を確認する。
「ご主人様が優しいのは周知の事実、今更何を言ってるんだよって話だ」
「お前はセキセイインコか? ご主人思いの可愛い子だね」
「俺は子供じゃない。これでも大人だ」
「そうなのか? 俺にはそうは見えない。ところでお前の名前はなんて言うんだ」
「……」
「ありゃ、俺の滑舌が悪かったかな。騒がしい声とはよく言われるけど聞き取れないのはあまりねーな。名前は、なんて言うんだ?」
「……あまり言いたくないがしょうがない。俺の名前は――」
意を決して言おうとしたが、ふと見上げると秋の空に鰯雲がゆっくりと泳いでいて、その横に飛行機雲が走っていた。
途中で言葉を止めてしまったから、バイク男は頭を掻いて笑っている。しかしそれもセキセイインコの目線を辿って空を見上げてわかった。
バイク男はふぅと息をはいてエンジンを再び入れる。お話は終わりということだ、少年には行かなければならない所があるから。
「あれ、もう帰るんですか? 何か用事でも?」
エンジンの音に気づいて顔を上げた少年がそう言う。
「おじさんは家に帰って食欲の秋を楽しむだけだよ。でも少年にはやることがあるんじゃないのか、空を見てみな」
「あーこっちの都合でしたか。すみません、来てもらったばかりなのに」
「そんなことは別にいいんだよ、これが俺の役目だからな。さあ早く行ってこい、少年にも役目があるだろ」
「はい、行ってきます。のぶさんも気を付けて帰ってくださいね」
「おう、当たり前だ! またな少年、またなセキセイインコ!」
少年は手を振ってのぶさんに背中を向けて大きな家へと歩いていく。
そこでブンブンブンとバイクに言わせながらのぶさんは走り去っていくと思った。しかしそんな音は聞こえてこなくてまだ後ろにいるみたいだ。
なんだよのぶさん、かっこよく走り去っていくほうが良かったのに、と少年が振り向くとサングラスを外したのぶさんがそこにいた。
「なんて書いてたんだ?」
真剣な表情でそう聞いた。サングラスを外すと何だか弱っちく見える。
「半年って」
「……そっか。じゃあ俺は行くよ」
「うん」
ブンブンブンとバイクに言わせながら、のぶさんは走り去っていった。
だんだん遠くになっていくその音はカッコイイような気がした。
◇
そこは誰かの部屋だ。
陽の光がよく入る大きな窓は開けられていて、そこから風が部屋に入り込んできて白色のカーテンを揺らしている。
白色のカーテンの向こうに見えるのは赤色に染まった葉っぱが綺麗な木。大きな家から少し離れたところにあるあの木と比べたら小さい。それでも美しいと思うのは葉っぱが綺麗だからなのか。
部屋に視線を戻すとぬいぐるみやおもちゃ、可愛らしい服や可愛らしい鞄が散らかっていた。どうやらここは女の子の部屋らしい。
ここにいたら、キャー不審者! と叫ばれないだろうか。見つからなければいいだけのことだが、見つかった時のことを想定しないといけない。
いやそもそも僕は不審者ではないし、この夢での僕の役割は何なのかまだわからない。僕はこの家の家族の一人かもしれないし、この家に飼われているペットのワンちゃんとか猫ちゃんかもしれないし、お父さんかもしれないしお兄ちゃんかもしれないしお爺ちゃんかもしれない。
とにかく結論をつけるのは早計だ。まずはもっと回りを見て、今おかれている状況を判断して、そこからああでもないこうでもないと考えればいい。
僕はまだ見ていないところを見ようと右を向こうとした。しかし上手く右に向くことができない。どういうことだ。
気のせいだと思ってもう一度右を向く、しかし上手く右に向くことができない。これはいったいと少し考えて、ひょっとしてと左を向いてみたが無理だった。
左右がダメなら上下もダメ、なんとなくわかってはいたけど確認のためにやってみた。どうやら視界を動かすことができないようだ。
どうしよう、これでは回りを見て今おかれている状況を判断することができない。いや後者はできるか、今おかれている状況は何もできないということだ。
それがわかっても空しいだけだ。白色のカーテンがずっと揺れ続けていて、それはまるで僕にたいして笑っているみたいなような気がした。
何もできないことが悔しい。ただここでじっとしているだけの自分が情けない。何故こんなことになってるのかを早く知りたい。
うふふ、そんなに慌てなくてもいいのよ。おほほ、無力な自分としっかり向き合ういい機会じゃないの。あはは、お前は初めから何も期待されていないんだからそんなに落ち込まなくていいよ。いひひ、貴方も私たちみたいに揺れ続けているだけの存在になればいいのよ。
白色のカーテンのバカにした声が聞こえたような気がした。きっと気のせいだ、悪いほうに顔を向けているからそんなありもしない声が聞こえるんだ。
しかしこの状況をどうにかしないことには、一向に代わり映えしない風景を見続けることになる。
どうにかしたいけどできない、そのことが歯痒い。
「マロンの散歩に行ってくるね! うん、うん、大丈夫だよ心配しないで!」
その時女の子の声が聞こえた。
続いてドタバタと階段を上ってくる音が聞こえた。
そしてバタンと音を鳴らして勢いよく開けられたドアから女の子が入ってきた。
この子がこの部屋の主か。それなら僕のことを自己紹介しなければいけない。こんにちは、僕は怪しいものじゃありません、だからどうか叫ばないでください通報もやめてください。
……そう言うのはマズイということが瞬時にわかった。そんなの怪しさMAXだ、自ら罪を認めているようなものだ。なら他の方法を考えなければならない。
女の子は大きめの黒のリュックに色々詰め込んでいる。服やズボン、靴下やタオル、お菓子やゲーム。散歩に行くだけなのにまるで何処かに旅行に行くような準備だ。
小さい子の間で流行っているのかな? 荷物をたっぷり詰めて出掛けることが。そんな流行聞いたことがない。ユミちゃんもシュウ君もそんなことしていない。
その二人が流行に遅れているだけなのかもしれないけど。それでもそんなこと流行らないだろう。もっと他に流行るものがあるはず。
女の子はチラチラと壁掛け時計を見て気にしている。急いでいるのだろうか。帰る時間まではまだまだありそうだけど、外はこんなにも明るいから。
それとも散歩に制限時間があるのだろうか。今は十一時十五分だから、十一時三十分までに家に帰ってくることが散歩の条件だとか。小さな子だしそうであってもおかしくはない。
そうしているうちに荷物を詰め終わったのか、よしっといい顔になって次の段階へと駒を進めた。
次はお片付けだ。床やテーブルに散らかった物を素早く片付けていく。例えばクローゼットに適当に投げ入れたり、ベッドの下に押し込んだり、ちゃんと畳まずにそのままタンスに収納したり。
しっかりしているんだかそうじゃないんだか、とにかく女の子はお片付けの最中も壁掛け時計をチラチラっと見て気にしていた。
時間を気にするならお片付けは散歩から帰ってからにすればいいのに。何故わざわざ今する必要がある。
よしっといい顔になった女の子は、アウターを着て僕のほうへと近づいてくる。女の子の顔が僕の視界を いっぱいに広がる。
「おうじさま、私の助けになってくれる? もう出発の時間だからきょうせいてきに連れていくけど」
その言葉が何を意味するかサッパリわからないけど、僕は女の子に頭を撫でられた。
そして僕は持ち上げられて宙に浮く。落ちる、落ちる、と思っていたら女の子が僕のことをちゃんと掴んでいた。
僕は荷物でいっぱいにのリュックへと運ばれていく。僕もこの中に詰められるのかと思っていたら、リュックのどこかに付けられてパンパンに詰まった感触があるリュックの表面に背中を合わせた。
僕の視界には鏡があった。そこには僕が写っていて、僕は王子様の格好をしているキーホルダーだった。
これじゃあ動けないはずだ。おもちゃやぬいぐるみが動く映画があったけれど、ここは映画の世界ではないから無理のようだ。
鏡越しに映った女の子の髪の毛が秋風に吹かれて流れる。よしっと気合いを入れた女の子はしっかりと窓を閉めた。さっきから揺れ続けていたカーテンは静かになった。
「さあ行くよ! おうじさま、私をちゃんと守ってね!」
女の子はニコッとしながら僕を覗きこんでそう言った。




