じゅうに
次に聞こえたのは叫び声だった。
それは眼帯をしている女の子の叫び声。心を締め付けるような悲痛な叫びだ。
何があった? この真っ白な世界が何が? 何がって決まっているじゃないか、化け物に攻撃されてそれが女の子に命中したんだ。だから叫び声をあげているんだ。痛くて辛くて悔しくて叫んでるんだ。
少年は走った。少し離れた場所でぼーっとしている場合ではない。いくら止められようが怒られようが助けるしかない。あの映像のこともあるけどそれは後でいい、今はとにかく女の子をこの真っ白な世界から見つけ出すことが先だ。
『グォォォォ! グォォォォ!』
姿が見えない大きな化け物が、大きな声をあげる。
右から聞こえたような、左から聞こえたような、いや前からのような後ろからのような。ここは壁などない森の中だというのに、何故か反響して聞こえる。
耳がおかしくなったのか、それとも恐怖でおかしくなったのか。この宙を漂う真っ白なもので何も見えなくなってしまった世界は不安に染まる。
化け物が今真後ろにいて、口を大きく開けながら笑っていたらどうしよう。僕は化け物に全く気づいていなくて、どこにいるのかと左右に頭を必死に振っているが何も見えるはずがない、すぐ後ろにいるというのに間抜けな人間だと笑い大きな手を降り下ろす。
グシャッと鳴った音は命の終わりを告げて、その時はもう僕はここにはいなくて、血と肉と骨が地面をただ汚すだけになる。肉は化け物の餌さとなり、骨は化け物の遊び道具となり、血は雨が降ればどこかに流されていく。そうやって僕という人間がここにいた証が消えていく。
やがて誰からも忘れられて初めからその存在は無かったかのようになる。それはなんて寂しいことだろう、生きていた証が何もないというのは生きていたという事実を否定されているかのようだ。
「痛いわね、やってくれるじゃないの。でも私はまだ死んでないわよ!」
眼帯をしている女の子の激しい声が聞こえた。
声を荒げているのは化け物を狩りたくて、殺したくてしかたないからだ。痛いと言っているから化け物の攻撃が命中したのだ、それに対して怒りが込み上げてきてその力が狩りへと向く。
『グォォォォ! グォォォォ!』
「うるさいわよ、何言ってるのかわからないから黙れ。私をこんな目に合わせていい気になるんじゃないよ、すぐに黙らせてあげる、その醜い姿を燃やしてあげる」
『グォォォォ! グォォォォ!』
「私はねお前みたいなヤツが大嫌いなのよ。何よその顔、何よその姿、この世のものじゃないんだよ。だから化け物なんだよ、皆と同じじゃないと違った目で見られるんだよ」
『グォォォォ! グォォォォ!』
「みんなと少し違っていると異形の者を見るような目をする。同じ人間なのにそうじゃないものとして見る、みんなと同じように息をするしお腹もすくし笑うのに冷たい目で見る、口では私はアナタの味方だよと言ってるけど目は全然笑っていなくて偽善者気取りで弱いものに手を差し伸べているかのように見る」
『グォォォォ! グォォォォ!』
「もううんざりなんだよ何もかも。みんなこの気持ちを味わえばいいんだよ、みんな同じようになったら気持ちがわかるんだよ、みんなみんな化け物になればいいんだよ」
まるで心の底に沈んでいたものを全部掬いだしたみたいだ。
様々な事情で沈められたそれらは長い間そこにあったために魚たちの住みかになっていた。魚にとってそれらは捨てられたものじゃない、いらなくなったものでもない。外敵から身を隠すにはじゅうぶんだ、ここなら家族を増やして生活できる、人間は私たちに住みかをくれる優しいヤツらだったのか。
久しぶりに外に出たそれらは何だか寂しい姿をしていた。必要なくなったから捨てられたのに、またこうして陸にあげられるなんて思ってもいないから。何匹もの小さな魚たちが自由を奪われてぴちぴちと跳ねている。
その中の一匹をつまんで、掌の上にそっと置いてみる。ギョロっとした目で何処かを見ている。君はいったいどこを見ているのかなと話しかけてみる。口をパクパク動かしたが何て言ってるのかわかるはずがない。
とりあえずもといた世界に帰してあげよう、掌から地面に落ちないようにしながら歩いた。そしてもとの世界へとそっと帰してあげた。小さな魚は元気よく泳いでいる、すいすいとオリンピック選手よりも早く泳いでいる。
この子の仲間たちもここに帰したほうがよさそうだ。久しぶりに外に出たそれらのもとへと戻る。まだ何匹もいた、ぴちぴちと何もできずにただ跳ねていた、魚にとったらここはすいすいと泳ぐこともできないから地獄なのだろうか。
それは人間でいうところの魚たちのいる世界だ。人間はそこでは息ができない、魚みたいにすいすいと縦横無尽に游ぐことはできない、外に顔を出さないとこの広い広い世界の藻屑となりそうだ。
何匹も何匹もつまんで、掌の上にそっと置いてみる。魚たちが何匹も重なっている、いちばん下にいる魚にとっては重たいかもしれないけど我慢して。すぐに君たちをもとの世界へと帰してあげるからね。
『グォォォォ! グォォォォ!』
「うるさい、うるさい、うるさい、静かにして頭が痛くなるから。泣きたいのはこっちだよ、叫びたいのはこっちだよ、さんざん嫌なことを言われたんだから」
『グォォォォ! グォォォォ!』
「……慰めてくれているの? 一人ぼっちの私に優しい声をかけてくれているの? 私が作り出した化け物なのに、私を同情してくれるの。あなたは優しいのね、何で優しいのに恐ろしい顔をしているのよ」
『グォォォォ! グォォォォ!』
「悪いのは私じゃない、こんな姿で外に出したお母さんでもない、こんな私を愛してくれるお兄ちゃんでもない。わかってるよそんなことは……痛いぐらいわかってるよ」
『グォォォォ! グォォォォ!』
「悪いのは私のことをいじめてくるあいつら。身体的なことや精神的なこと、ありとあらゆるいじめで私を追い詰めてくるあいつら。私が泣いたらあいつらは笑う、私が下を向いているとあいつらは上を向く、私が出席するとあいつらは欠席して私が欠席するとあいつらは……」
『グォォォォ! グォォォォ!』
「あいつらが悪いあいつらが憎いあいつらを殺したい。でもそんなことできない、もうあいつらに会うことすら怖いから。学校に行くことすら怖いから。私はただ普通に勉強したいだけなのに、こんな思いはしたくないのに」
『グォォォォ! グォォォォ!』
「あなたは私を慰めてくれているわけじゃなかった。あなたは化け物、化け物はみんなに嫌われていじめられる存在なのよね。この姿になる前はどんな姿をしていたかな、もう忘れちゃったけどきっともとの顔も恐ろしかったでしょう」
どんどん露になる真実。自らそうしているのは真実を誰かに知ってほしいからなのか。
知ってほしいなら我慢をせずに言えばいい。小さな声だと誰にも届かない、大きな声だと誰かの耳に入る、叫んだら何事だとみんな集まってくる。そうやって野次馬に向けて溜まりに溜まったものを吐き出せ。
今まで体外に出ずに体内に溜まり続けたそれは汚れがこびりついているだろう。その汚れはとてもしつこくてなかなか取れない。たわしでゴシゴシしても洗剤を垂らしても勢いよく水で流しても。そんなことではこの汚れは取れない。
鬱憤を晴らさなければいけない。そうしなければ綺麗になんてならない、汚れたままの不細工な状態が続くだけだ。それならなんのために体外に出したのかわからない。
難しいことではない、言いたいことを全部吐き出せばいい、ただそれだけのこと。とにかく不安定な心を落ち着かせることが大切だ。今は興奮しているから目に写るもの全てが嫌なものに見えてしまっている。
落ち着け、落ち着け。吐き出した言葉でイライラが再燃しているから、叫んでいることも意味がなくなっている。これでは近所迷惑な変な人として見られてしまう。
落ち着け、落ち着け。真っ白なものが辺りに漂い貴女の姿は見えないけれど、貴女がどれだけ苦しんでいるのかはさっきの声を聞けばじゅうぶんわかる。もう苦しむのは終わりにしよう、心を傷付けるのも体を傷付けるのも自分を傷付けるのもやめにしよう。
夜空に光る月はいつもより優しく見えた。あたたかくて、キレイで、眩しくて。
少年は真剣な顔をしていて、何も見えないこの霧の中を躊躇いなく進む。木に当たらないだろうか、川に落ちないだろうか、根っこに躓かないだろうか。
化け物の声も、女の子の声も聞こえない。
どちらも疲れてしまったのか、それとも眠っているのか、もしかして死んでしまったのか。この目で確認するまでは何もわからない。こうなのかなって思うだけじゃわからない。
大柄な男と眼鏡をかけた知的そうな男は今頃どうしているだろう。眼帯をしている女の子を助けようとこっちへと向かってきているのだろうか。
森は霧で覆われている。たまに晴れることもあるがだいたい視界が狭い世界を作る。勢いよく飛ばされた大柄な男はどこまでいったのか、女の子をおいて一人さっさと逃げ出した眼鏡をかけた男はどこまでいったのか。
ここを目指したくても場所がわからない、方角がわからない、自分が今いる場所すらわかっていないかもしれない。二人の助けはあまりあてにはできない。もし二人が来たとしても、そこに死体が転がる可能性がある。
無駄な犠牲はいらない。だから女の子は二人を遠ざけた、少しでも遠くへと離れてほしかった。それが女の子の願いだ、関係ない二人を巻き込みたくはないという。
少年は立ち止まった。何かを見つけたのか、それとも霧に捕まったか。
「ここにいたんだね」
ニコッと優しい顔になった少年はそう言った。
そこに誰かいるのだろうか。少年の後ろ姿が邪魔で向こう側が見えない。
「いいよ、無理しなくて。ちょっと待ってね今回復するから」
少年は歩いていき、立ち止まり、しゃがみこんで前の方に手を出して掌を広げた。掌から光が現れた。
これは少年しか使えない特別なチカラ、聖なる光だ。清く正しく美しく、真っ白で何も汚れていない心をもつものだけが使うことができる。汚れた人間には使うことができない、心に闇を抱えている人は使うことができない。
「大丈夫だよ。別に悪巧みも何もないよ。これには嘘だって偽りだって何もないから安心して。そんなに怖がらなくても大丈夫だから」
少年は優しい口調で誰かを慰めているみたいだ。その誰かの声は聞こえないが、それが誰なのかは想像できる。
風が吹いて霧が少し晴れる。鬱蒼と茂った木々、ゴツゴツと固そうな岩、ひんやりとして気持ち良さそうな川、どこにでもある森の光景が見えてくる。
その中に大きな化け物がいた。大きな体に大きな足、何でも掴めてしまいそうな手に何でも引き裂けそうな鋭い爪、ひと噛みで粉々にしてしまいそうな尖った牙、目を合わすと恐怖を与える赤い目。それが少年のすぐ側にいる。
しかし少年は逃げることも慌てることもしない。肝が据わっているのか、気づいていないだけなのか。何の警戒もしていないように見える。
赤い目が少年をとらえている。それはまるでハンターがターゲットをスコープで狙いを定めるみたいだ。
もう逃げられない。例え全速力で逃げたとしても、化け物が満足するまでどこまでも追いかけてくる。
「怖くないから、この光は聖なるものだから。君の体に入り込んでいたマイナスの塊とは全然違うよ」
少年は誰かにニコッとしながらそう言った。
笑っている場合ではない、ゆっくりしている場合ではない、一刻も早くここから逃げないと化け物によって殺されてしまう。
ここは夢の中だ、だから死というものはないから殺されても死なないけれど少年がそうなった場合はこの夢から追い出される。少年はこの夢の外からやって来た部外者なのだから。
しかしこの夢を見ている人は、悪い夢に完全に染まってしまったら夢から出られなくなってしまうのだ。悪い夢は人を不幸にする、夢に溺れさせて逃げなくする。外では目を覚ますことなく眠り続けている状態になる。
さあ逃げろ! 手遅れになってしまうその前に。化け物の赤い目が届かない安全なところまで走れ。
そこでやっと少年は化け物に気づいて横を向いた。




