いち
耳を澄ますと虫の鳴き声が聞こえてきます。リンリンリン、ピッピリリピッピリリ、コロコロコロ、ガチャガチャガチャ。
秋の夜長に聞こえる虫の声は何故か心地よく聞こえる。癒されるというか、落ち着くというか、和むというか、幸せというか。とにかく人の心を優しく撫でているようなそんな感じがする。
しかしそう思うのは世界中で少ないほうらしい。大多数は心地よくなんか感じなくて、雑音にしか聞こえないからそこに癒しなどないのだ。
そんな人達はなんてカワイソウなんだろうと思うのか、それとも心地よく思える僕が私が少数派で変わり者なのかと思うのかは人それぞれ自由。
誰がどう思っても、誰にどう思われようがそんなのどうでもいい。人の視線なんて気にしていたら何もできやしない。皆と同じようにするのは別に悪いことじゃないけど、皆とは違ったことをしたほうが面白いような気がする。
ほら、耳を澄ませてみましょう。大多数の人には理解できないけど、僕には私にはこの心地よさを感じることができる。それはきっと僕が私が選ばれた人間だからだ。そうに違いない。
ああ癒される。雑音なんて何も聞こえなくて、静かでゆっくりとした時間が流れていて、そして虫の鳴き声を聞いている今この時が。僕はなんて幸せなんだ、私はなんて幸せなんだ。
「あのさ」
「何? シュウ君」
「ユミちゃんいないね……」
「そうだね。会いたいの?」
「そりゃそうでしょ。何でわからないの」
シュウ君が目を細めながらそう言った。
少年はわかっているのかわかっていないのか、ふーんと相槌を打った。そして少年の膝にちょこんと座っているハリネズミを撫でる。
背中にある刺は痛くないのだろうか。痛がっている様子はないから痛くないのだろうが、見ていて手がチクチクしてくる。
シュウ君が少年の膝にちょこんと座っているハリネズミを見てニコッとした。どうやら気になったようだ。
「あ、そのハリネズミ可愛いね」
「ハリートゲダーって名前なんだよ」
「なにそれ」
「ハリネズミ、針、ハリに刺、ハリートゲダー」
「もうちょっと名前どうにかならないの」
「気に入ってるからね」
「いくら気に入っていてもそれはないよー」
「悪かったな」
「別に悪くはないけどさ、有名な魔法使いを意識ししたわけじゃないよね」
「さあどうなのかな」
「気に入ってるんだよね? なんでそんなこともわからないの」
「悪かったな」
「だから別に悪くはないけどさ、お兄ちゃん年上なのに何も知らないのかなって」
「おいらはシュウ君より年上なのか」
「……おいら?」
シュウ君はそこで顔を横に動かした。
するとさっきまでいたはずの少年がいつの間にかいなくなっていて、ハリネズミのハリートゲダーが一匹そこにいた。
少年は何処に行ったのかと辺りを見回すと、キッチンにいてジュースをコップに入れていた。
シュウ君のほっぺたがぷくっと膨れた。
「どうしたんだ、何か不機嫌なことでもあるのか?」
「別に」
「何もないならまあいいけどさ、膝に乗っているおいらのお嫁さんを見てくれよ」
「お、お嫁さん?」
視線を下げると膝にハリネズミが一匹乗っていた。
「あの……はじめまして。わ、私の名前は……ハリコって言います」
「ハリーマイオニーとかじゃないんだね」
「あの……撫でてくださると嬉しいです。緊張して刺が出ていますが、痛いと思いますが……よろしくです」
「痛いの? それは嫌だよ」
「ちょっとチクッとするだけだ、撫でてあげてくれないか」
「嫌だよそんなの」
「あの……すみません。無理を言ってすみません……私のせいで困らしてしまいすみません」
ハリネズミのハリコは、シュウ君の膝の上で泣き出した。
シュウ君は口をぽかんと開けている。何でこれぐらいのことで泣くんだ、大袈裟じゃないのかと思っている。
ハリコの泣き声にハリートゲダーが駆け寄ってくる、少年が泣いているけどどうしたのとやってくる、梓さんが掃除中なのか汚れた雑巾を持ちながらやって来る、小さなハリネズミたちが走ってくる。
ハリコを泣かせたのがシュウ君のような雰囲気になる。皆ハリコに声をかけているから、だからシュウ君は自分が悪いのかなと思ってしまう。
「……ごめんなさい」
悪いことをした自覚はないけれど、あんなことぐらいで泣くなんてただの弱虫だけど、でも泣かせたのは僕だから。謝ったほうがスッキリする、ハリコも皆も、そして僕自信も。
その言葉に皆が顔をあげる。皆の視線はハリコからシュウ君へとうつる。ハリコは泣き止んで、ゆっくりと顔をあげてシュウ君と目を合わせた。
そこには言葉なんていらない。目と目が合うだけで考えていること、思っていること、相手のことが何でもわかったように感じる。ああ今こんなことを考えていたんだ、えっそんなことを思っていたなんて意外だな、いやいやその事はもうわかっているんだよ。
二人は自然と笑顔になる。仲直りなんてきっかけさえあれば簡単なことだ。だから笑いあえる、その様子を皆はただ見ている。
しゃがんだシュウ君はハリコの前で手を広げた。ここに乗ってねということだ。ハリコは笑顔で手に乗る。するとシュウ君は立ち上がって、庭のほうへと歩いていった。
二人は何か喋っている。それがいい感じに見える。ナニコレといった顔で皆二人を見ている。
少年とハリートゲダーが話始めた。
「ハリコの泣く演技はシュウ君の綺麗な心を傷付けていないかな」
「少年はわかっていないな! シュウ君はあの涙が嘘だとはまだ気づいていないから大丈夫だ」
「いやそういうことじゃなくってさ」
「細かいことは気にするな、少年はそんなちっぽけな人間じゃないだろ」
「さあ、どうだろう」
「ほら空を見上げてみろ。星が綺麗じゃないか、お月様はまん丸だぞ、飛行機雲も一つ走っている」
その言葉に少年は空を見上げた。そして慌ただしく走っていって、螺旋階段を駆けのぼっていく。
そんなに急いだら足を滑らせてしまいそうだし、秋の夜長に聞こえる虫の声を聴いて心地よくもならないし、秋の夜長をゆっくりと過ごすこともできない。
しかしそれは仕方のないこと。少年にはやるべきことがあるから。
梓さんは少年の部屋を見上げながら、頑張れよと一言呟いて掃除を再開した。
◇
真っ白なものが目の前を行ったり来たりしている。それは手を伸ばしても掴むことはできなくて、宙をただ漂っている。
カラスのかあかあという声が鳴り響いていてなんだか怖い。少年はまずここが何処なのかを確認するために辺りを見回す。
しかし真っ白なものが視界を狭くする。何かの木や何かの石がちらちらと見えるが、それが何なのかは全くわからない。自分が立っているこの場所が安全なのか危険なのか、それすらもわからなくて下手に動けば危ないかもしれない。
かといってこのままここでじっとしておくのも、それはそれで危ないかもしれない。動くべきかこのままここに留まるべきか、それをまず決めなければならない。
人がいたらここが何処なのかもわかる。それならここから動いて人を捜したほうがいい。その場合は視界が狭いから足元に気を付けながら、何か先が尖った鋭利なもので怪我でもしたら大変だから慎重に。
声を出して誰かを呼んでみるのも一つの手だ。声を聞いた誰かがこっちへと来てくれるかもしれないし、この場から一歩も動かなくても済むから楽だ。しかし声は誰にも届かずに、誰一人としてやって来なくて時間だけがただ過ぎていくということもあり得る。
さあどうする。少年はどの選択肢を選ぶ。
「あの大きな木はなんだ?」
少年はそう呟いて、足元に気を付けながら歩き始めた。
大きな木とは少年から少し離れた場所にある大樹だ。太い幹に幾つもの枝葉、ずっしと堂々としているその姿は視界が悪くてもわかる。
その大樹には大きな傷があった。何かがこの木を引っ掻いたのか、何本もの傷痕が木に走っている。
少年は右手をぎゅっと握って力を入れた。来るなら来い、返り討ちにしたやる。そんな台詞が聞こえてきそうだ。
しかし何も起こらない。カラスのかあかあという鳴き声が聞こえるだけだ。カラスごこの大きな傷痕を残したとは思えない。こんな大きな傷痕は熊がやったのだろうか。
熊と出会ったら死んだふりをすると助かると聞いたことがあるけどそれは間違いらしい。走らないで、熊の様子を窺いながら離れなければならない。それはなぜかというと、熊と人間には臨界というものがあってそれを越えてしまうと攻撃してくるのだ。
何か危険を感じると自分を守るために戦うのは人だってあることだ。熊もそれと同じ、だから臨界にさえ入らなければびくびくしなくてもいいってことだ。
それを気を付けていても攻撃してくる熊はいるだろう。それは人だって同じだ、突然刃物を取り出してそこら辺にいる人へと攻撃する。おかしなやつはどこにでもいるのだ。
熊に背中を向けるのは自殺行為だ。獲物を狩ろうとしているハンターに背を向けるなんて馬鹿げている。それにちゃんとよく見ておかないと物凄いスピードで走ってくる。背中を向けて逃げ出したらそれこそ。
とにかくこの傷痕が熊なのかそれとも違うのか、それはまだわからないが早くこの場所から離れたほうがよさそうだということはわかった。だから少年は真っ白な世界を注意しながら進む。
真っ白なものが視界を狭くして木々が方向を麻痺させる。その二つがまるでここから出させないようにしているようだ。少年は空を見上げたが太陽は雲に隠れていた。
太陽の位置で方向がわかる、しかしそれもできないようだ。いや方向がわかったところで意味はない。人がいる場所が何処なのかを知らないのだから。
少年がはぁとため息をついた。息は白いから、真っ白なものと混ざったような気がした。
その時銃声が鳴り響いた。突然のことだったから少年はびっくりして思わず声を出した。
辺りを忙しなく見回す。銃声は熊を狙ったものなのかもしれない、それなら熊がこっちにやって来るかもしれない、そうなったら戦うことになる。死んだふりはできない背中を向けて逃げることもできない。
わざわざ戦わなくてもいいけど、妨げとなるならここで倒してもいい。少年の右手に再び力が入る。
カラスがかあかあとあちこちで鳴き始めた。銃声に驚いているのだろうか。少年は狭い視界のなか、いつでも戦える準備をしている。
バンとまた大きな音が聞こえた。この音はどこから聞こえてきたのか、それがわかるとまだ安心できるのだが残念ながらそらがわからない。少年はふぅと息をはいた。
「どこにいったのかな!」
「当たったはずだからそう遠くには行けないはずだ」
「ちくしょう、この霧さえなければもっと楽なんだが」
人の声が聞こえた。女の子の声と男の声が二つ。この三人が熊を狙っているのだろう。
とりあえずこの三人に助けてもらおう。武器も何も持っていない少年はふりだから。できれば力は使いたくないから。
しかしどうやって助けてもらう? 助けてくれと大声を叫んだらいいのだろうか。そうしないと霧の中から突然少年が現れたらびっくりして撃たれるかもしれない。
それよりはマシだ。大声を出して助けてもらおう。
「誰か助けてください!」
少年は叫んだ。
真っ白なものが視界を狭くしてよく辺りが見えないが、三人の人間がきっと助けに来てくれるだろう。
ざくざくざく、誰かが少年のほうへと歩いてくる音が聞こえる。ほら助けに来てくれた、この選択肢は正解だったというわけだ。
真っ白な中に影が浮かび上がる。それは一つ、二つ、三つ、三人の影があった。ざくざくざく、かあかあ、その音が妙にうるさく聞こえる。
「助けに来てくれた人ですか?」
少年は三つの影に話しかける。
「何でこんなところにいるんだ? ここが何処なのかを知っているのか」
三つの影の誰かが話しかけてくる。
「いえ知りません。ここは何処なんですか?」
「ここは化け物の森だ。大樹に大きな傷があっだろ」
さっきとは違う声がこたえる。
「化け物?」
「私たちは化け物をやっつけるためにこの森に来ているの。さあ君もここにいちゃ危ない、私達と行動を共にしよう」
女の子が話終わると同時に真っ白なものが晴れて、三人の姿がそこに現れた。
大柄な男と、眼鏡をかけた知的そうな男。そして少年と歳が近そうな眼帯をしている女の子。
少年はほっと安心した。しかし三人の後ろにキラリと光る目があった。
化け物の姿は熊のようなライオンのようなカバのような、この世のものとは思えない恐ろしい姿をしている。
三人は化け物に背を向けていて気づいていない。少年は危ないと大声を出して、女の子が持っていた銃を奪って化け物へと狙いを定めて引き金を引いた。
大きな音が森に鳴り響いて、そしてカラスのかあかあという声が鳴り響いた。




