はち
テーブルの上にはデザートがある、小さなお皿にケーキが乗っている。依頼主も僕も、フォークで一口サイズに切って食べようとしない。というかそんな気分にはなれないといったほうが正しいかもしれない。
お姉さんがお皿を片付けに食堂車にまたやってきたとき、依頼主は床に頭を勢い良くぶつけていた。僕は結局止めることはできなくてただ見ていた。何故止めなかったのだろう、止めたほうがいいとわかっているのにも関わらず。
大丈夫ですかとお姉さんが依頼主へと駆け寄ったときも僕はただ見ているだけだった。お姉さんは優しく話しかけて、背中を優しくさすって、床に頭をぶつけることを止めさせて椅子に座らせた。
そして何事もなかったかのように、ニコニコしながらデザートを置いて歩いていった。お姉さんはドアの向こうでほっとしているのかな、それともこっちのことを気にしているのかな。
依頼主は今、窓の外を見ていた。窓の外には綺麗な星がどこまでも広がっている。この光輝く景色を見たら悩みなんて吹き飛んでしまいそう、心に生み出されたネガティブなやつも光に当たって消えてしまいそう、そんなプラスになることがマイナスを消してくれそうだ。
依頼主は頭を下げてテーブルを見ている。小さなお皿に乗っているケーキを見ているのだろう。美味しそうと思っているなら食べればいい、もうお腹いっぱいだからデザートはいらないよと思っているなら食べなければいい、客人である君から食べなよと言ったなら僕は遠慮なく先に頂く、僕から先に食べるから君は先に食べないでよねと言われたら別にあとでもいい。
小刻みに揺れる車両は眠気を誘う。夢の中だというのに眠くなるのか、なら夢の中で眠ってしまったら二重に夢を見ることになるのかな。試してみたいような気もしたけどやめておく。
依頼主はゆっくりと手をのばしてフォークを手に持った。そしてケーキに切れ目を入れていく。そして食べるのかと思ったらフォークを置いた。
「こんなものいらない」
その声は震えていた。そして左右を何回も何回も見。上も下も後ろも見る。
依頼主の体は震えている。寒いのだろうか、いやそんなことはないこの車両は暑くも寒くもないのだから。
「大丈夫? 震えているけど」
「ああ……大丈夫だ、心配はいらない。しかし寒くて怖くて心細いんだ」
「それは大丈夫ではないですよ」
「さっきまで、ここは寒くはなかったのに……怖くもなかった、怖いことなど何もなかった。なぜ……なぜ今はこんなに心細いんだろう、ここには君もあの子もいるのに……」
「落ち着いてください」
「落ち着きたいけど落ち着けない、僕はもうおしまいなんだ……現実を受け止めることを無視していたのか拒否していたのか、毎日毎日この夜汽車に乗って何処か遠くへと出かけようと思っていた」
シルクハットが小刻みに震えている。それで頭から落ちることはないが、依頼主の右手がシルクハットの中へと吸い込まれていった。腕を左右に動かしている。泣いているのだろうか。
「そして僕の中に蠢く怪物と戦っていた。怪物は僕の中にいた、君ではなかった、あんなことを言ってすまない。しかしあれは僕が言ったことじゃない……僕は時々意識が無くなる、その時は怪物が姿を現しているんだ」
「ヤツが依頼主の中に?」
「ああそうだ……今は僕がこうして話しているけど、これも長くは続かないだろう。じきにヤツが……怪物が…………」
震えが止まって言葉も止まった。依頼主はヤツと戦っているのかもしれない。
「あああああああ! 苦しい、辛い、痛い。助けてくれ、誰か助けてくれ! 僕はお前なんかに負けない、負けてたまるか、この体は僕の物だ心も僕の物だ!」
「依頼主にずっと寄生していたのか? 答えろ」
僕は依頼主を、いや依頼主の心に寄生している負の塊に向けて鋭い目付きで睨んだ。睨んだところで姿は現さない、なんて卑怯なやつだ。
右手はヤツを攻撃するために光が包んでいる。この光で黒を消して白にする、そうしてこの夢から悪を消し去る。攻撃をしてもしぶとく生きているだろうから何発も何発もくらわせる。
他にも方法はある。力を使うとこの夢を見ている人が負担になるから。だからあまり使いたくはない。
「寒い、怖い、怠い、これが終わりってやつなのか? ああ……何だかふわふわしてきた、ああ……あたたかい何かで包まれているような気がする、ああ……ヤツの顔が目の前に」
「そこから出ろ!」
依頼主のほうへと飛びかかって、僕は右手を広げてヤツを外へと出そうとした。右手からは勢いよく風が出ているから、テーブルの上に置いてあるお皿やケーキやジュースやフォークやテーブルクロスが宙を舞った。
もう少しで依頼主のお腹に右手が当たってヤツを外に出せると思ったけど、その寸前で避けられて僕は床を転がった。
何回転しただろう。何回も天井が見えた。
顔を上げるとテーブルに依頼主が座っていた。足をぶらんぶらんと揺らしていて、ニコニコと笑っている。シルクハットは寂しそうに床に落ちている。
やっと顔を見ることができた。くりくりとした可愛い目、小さな口に少し赤い頬。子どもだ、依頼主は子どもだったのか。
「ボクはね、一体化したんダヨ。これで苦しむコトはない、辛いこともナイ、イタクもない」
高い声が静かな食堂車によく響く。
一体化したとはどういうことだ。依頼主の心に寄生していたヤツがと依頼主が一人の人間となったでも言うのか。多重人格というやつではなくて、一人の人間の中に二人の人間が存在している。
ヤツは依頼主を飲み込もうとはせずに、共存する道を選んだってことなのか。いやそんなめんどくさいことはしないはずだ、飲み込んだほうがこの夢を悪に染めることなんて簡単になるのだから。
「ふふ、不思議そうな顔をシテイルネ。そりゃそうだよね、ボクは僕を消したほうが楽なんだカラ」
「それなら何故楽なほうを選ばない?」
「キミにはわかないのかい、僕が苦しんでいた姿をミタンジャないのかい。あれはボクと戦っているモノではないよ、外の世界に広がるモノへの恐怖だ」
「恐怖……」
「ああそうサ、僕は言っていただろう。現実を受け止めたくナイと、僕はもうおしまいナンダと。これが意味するコトが君にはわかるかな」
「……」
現実を受け止められないのはおしまいだから。おしまいということは終わるということ。終わるから現実を受け止められないということは。
依頼主は死期が近いのか? だから現実を受け止めることができない、だから毎日夜汽車に乗っている、だからどこか遠くへと出かけようとしている。そういうことだったのかな。
そうだとしてもわからないことがある。何故依頼主とヤツは一体化したんだ。ヤツは夢を悪い夢へと誘う原因、そんなヤツと仲良くなんてなれない手を取り合うことなんて。
しかし実際に目の前で、それが起きてしまっている。これは夢なのだろうか、それはモチロンここは夢の中だ。依頼主の夢の中、夢は夢でも悪い夢だ。
どういうことだ、こんなこと今まで一度もなかった。しかしそんなことでいちいち狼狽えてはいられない。夢は何が起きてもおかしくないのだから、何でもありの世界なのだから、だから一体化することも起きてしまう。
一体化したということはお互いがお互いを受け入れたのか。もし嫌なら心の中で戦うこともできる、しかし今はその様子が見られない。心の中で依頼主は抵抗できないような状況にいるのだろうか。
「キミは何かを考えているみたいだけど、ボクには何かの企みなんてものは無いよ。この夢をアクに染めようとか、僕を飲み込もうとか、そんなことは全然頭にナイ」
「その言葉が信じられると思っているの?」
「そうだよネ、信じられないよネ。ボクはそういう存在なんだからネ。でも信じてくれなくちゃ僕を救えないんダヨ。だからキミは信じるしかナイんだよ」
「夢を悪に染めるためには何でもするのがお前らだろ」
「確かにその通りダ。ボクは、ボクらは心が弱ってイル人間の夢に入り込み悪さをスル。しかし全員がそうではない、信じてくれないかもシレナイけど、ボクは僕を傷付けることなんてシナイ」
「依頼主は今どこにいるんだ?」
「ずっとココにいる、君のメノマエにずっといる。ボクは僕であり僕はボクなのだから。僕とボクには二つのココロがある、しかし喧嘩をすることはナイ、とてもナカヨシなんだよ」
依頼主は胸のあたりにそっと手をおいた。そこには心がある、ドクドクと動いている。二人分の心がそこにはあるのだ。
「じゃあお前だけを消せないってことか?」
「さっきのようなコウゲキをしたらボクを倒せるかもしれない、しかし僕にまでもその衝撃はキテしまう。君の目的は達成されるダロウが、同時に僕を殺めてシマウことにもなる」
「……人質ってことか」
「僕は人質ではないって、ボクは僕に銃を向けて立てこもってはイナイよ。僕はボクを受け入れたんだよ、だから二つのココロが仲良くできるってわけ」
「じゃあもう、依頼主を助けることはできないのか」
「ボクはもう負の塊ではない、だからこの夢は悪に染まるコトハナイから安心してくれてもいいよ。これはウソではないから、正直に話しているから」
その言葉が本当だとしたら、偽りなんてなかったとしたら、それは僕の役目はもう終わったということになる。この夢は悪に染まることはない、それは解決したといってもいい。モヤモヤが残るけどこれ以上は依頼主に危害が及ぶ。
それに依頼主もそれでいいと受け入れたみたいだ。ヤツと一体化して何があるのかわからないけど、そうすることには何か意味はあるのだろう。死期が近いことと一体化すること、全く関係ないような気がするけど。
ヤツが依頼主の中に寄生する限り、死を遠ざけることができるとでもいうのか。そんなことがあるというのか、そんなことがあるから受け入れたのか、そうすることでしか生を伸ばすことはできないのか。
「わかったんじゃないの? 僕がボクを受け入れた理由が。ボクは負の塊だけど人間を不幸にしたいってわけじゃナイ、この夢の中にいつまでも留めておきたいダケ。ここにずっといたら生きることがデキル、夢を見ているのだから生きているでしょ。だから死ぬことはナインダヨ」
「それは不幸にしていないのかな」
「死ぬことはないんだ、ダレも悲しまないよ。外で目を覚ますことはもうナイかもしれないけど、そのかわりに得られたものは生なんだヨ」
「それは生きてるっていうのかな」
「目を覚ますことはナイけど、心臓はちゃんと動いている人はもう死人と同じとイイタイノ? そんなの酷いよ。人は皆ゲンキに走り回れない、皆病気がなくて健康ではナイ、それはワカルデショ」
「……ああ」
「ワカルナラ僕の気持ちもわかるはずだよ。ボクは人の夢に住み続けられる、僕はボクの力によって生き続けられる。二人の利害が一致した、ナカヨクするしかないんだよ」
「……」
「今回はキミの負けだよ。いや勝ち負けじゃないね、ボクは別にこの夢を悪に染めることはないんダカラ。僕にとっては嬉しいことだよ、死に怯えることなどないんだからさ」
依頼主はテーブルからおりてニコニコしながら僕へと近づいてくる。そして手を差し伸べてきた。僕は依頼主の手を掴んで起き上がった。
ドアが開いてお姉さんがやってきた。ドアは開いたままだ。そこから出口へと向かえということなのだろう。
僕は今回も助けることができなかった。二回連続で僕は失敗した。しかし手が出せないからもう負けを認めるしかない。
窓の外を見る。相変わらず光輝く星達がキラキラしている。この美しい光景を見て負けたことを忘れたい。モヤモヤを光で包んでもらいたい。




