きゅう
木々は揺れている。
風なんて吹いていないのに、怪しい目を光らせて大きな口を開けて笑いながら踊っている。何がそんなに面白いのか、何がそんなに楽しいのか。
少年はそんな木々に見下ろされながら歩いている。振り向くことはなく立ち止まることもなく。
そして木々は笑い声を上げている。あははは、ギャハハハ、うふふふ、この夢を悪に染められるから笑っているのだろう。
『今回ハ残念ダッタナ、誰モ救ウコトガデキナイカラ悔シイダロウ』
木が喋りかけてくる。少年が何もできずに帰っていくのを楽しんでいる。
『アハハハ、所詮オ前ノチカラナンテソンナモンダ。イツモ上手クイクト思ウナヨ、失敗ヲスルコトダッテアルンダヨ』
木が喋りかけてくる。その笑い声はとても耳障りだ。今すぐにでも耳を塞ぎたくなる。
『オイオイ何処ニ向カッテイルンダイ? コノ夢ヲ見テイル少女ガドウナッテモイイノカ? オ前ハ与エラレタ役目ヲ途中デ放棄スルノカ?』
木が喋りかけてくる。わざわざ傷を抉るようなその言い方は、少年に精神的ダメージを与えたいからだろう。
だから少年は何も言わずに歩いているのだろか。木々に散々言いたい放題言われたから、馬鹿にしたような声で怪しく笑われているから。しかも言っていることは間違ってはいない、全部正しいことなのだ。
少年は少女を救わない、途中で放棄した、今逃げ帰っている最中。ぐうの音も出ない、何か言ったところでそれは全てが言い訳にしか聞こえない、強がっているようにしか見えない。
それを煽られるだけだ。だから何も言わずに黙っているのが一番なのだ。
しかし少年はそれを押さえることはできない。黙っておけばいいのに口が開いていく、そして自分を見下ろす木々へと睨み付けながら言うのだ。
「お前たちに言われたくない。お前たちがいるから悪い夢を見てしまうんだ」
その言葉は導火線に火をつけるようなものなのだ。待ってましたとケラケラと奇妙な笑い声を上げる木々、揺れる枝は手に見えてくる。
『俺達ヲ止メルノハイッタイ誰ノ役目ダッタカナ? ソレハ正義ノヒーロー気取リノ、何処カノ少年ダッタノハ覚エテイルケド』
『アハハハ、可笑シクテ腹ガ痛イヨ。コンナニ愉快ナ気分ニナルノハ久シブリダ、酒デモ呑ンデ楽シクシタイナ』
『自分ガ何モデキナイカラッテ、誰カニ責任ヲ押シ付ケヨウトスルナヨ。オ前ニハ悪イ夢ヲ助ケルコトナンテ役不足ナンダヨ』
頭の上の方から次々と降ってくる奴等の言葉。間違っていることは言っていなく、チクチクと触れてほしくないことをつつく。
だから何も言わない方がいいのだ。何か言ったところでもうどうにもできない、少年は少女の希望を叶えたのだから別に奴等に負けたわけではない。
俯かなくていい、気にすることもない、ここから先は少女が選んだ時間なのだから。
現実では喋ることも、食事することも、遊ぶこともできない陽子ちゃん。しかしここでならそれが可能だ、少女の記憶で作られた夢の中なら。
少年は森の出口までやって来た。そこには道路があって、外灯が光ったり消えたりチカチカしていた。近くに人の気配はないが一台のバスが停まっていた。
バスの行き先は、大きな家と表示されている。
これに乗ってさっさと帰れということだ。そもそも少年はこの夢とは何の関係もない部外者だ、さあ早くバスに揺られながら帰れ帰れ。
『負ケタコトガ悔シクテモウ何モ喋ラレナイカ? ソウヤッテ人ハ成長スルラシイゾ、負ケルト強クナルラシイゾ』
『イヤイヤ、負ケルノハタダ単純ニ弱イッテダケダ。強クハナレナイ、勝タナイト意味ナンテナイ』
木々はしつこいぐらいに煽ってくる。少年が負けたことを馬鹿にするために言っているのだ。
『逃ゲルノカ? ソウヤッテ簡単ニ諦メルノカ? 後悔スルゾコノ夢ノコトヲ。助ケラレナカッタ夢トシテ、オ前ノ心ニズット残リ続ケル』
『アハハハハ、悪ニ染メテヤル! ギャハハハハ、コノ先ハ闇シカナイ! ウフフフフ、少女ガ馬鹿デヨカッタ』
木々の笑い声に見送られながら、自動ドアは静かに閉まってバスは動き出した。少年は一番後ろの席に座っている。
窓から見える景色は目と口が付いた木々が見える。もうその顔は見たくないのか少年は手で目を隠した。
バスはライトをつけているが進む先は闇。奴等の力でもうこんなにも悪に染めたということなのだろうか。
森からどんどん離れていくバスは、少年一人を乗せて安全運転をしている。運転席には誰も座っておらずハンドルは勝手に動いている。
それでもこのバスは目的地へと連れてってくれる。皆が待っている大きな家へと無事に送り届けてくれる。目を開けるとそこは自分の部屋だろう。
笑い声は聞こえなくなった。聞こえるのはバスが揺れる音だけ。
◇
少年がバスに乗って大きな家へと帰ったその頃、少女と陽子ちゃんはまだ楽しそうにお話していた。
女性はどうしてこんなにもお話が続くのだろう、そんなに話すことがあるのかといつも思う。それに話し続けて疲れないのだろうか。休憩をしてもいいような気がする。
少女には長い時間の中で陽子ちゃんに話したいことが沢山あった。あんなことがあったこんなことがあったそんなことがあった、だから話は止まらないし止められない。
時間はいくらあっても足りないだろうが、永遠に続くこの夢の時間の中では充分すぎるぐらいある。だからさすがに話すことがなくなってしまうような気がする。
「それでね何て言ったと思う? それは私にもわからないって言ってたのよ。あんなに偉そうにしていたのに、結局あなたもわからないのねと呆れたわ」
「うふふ、面白いねその人! 陽子も会ってみたいなー、実際に会ったら面白さ倍増するね」
「んー実際のあの人は想像以上にうっとうしい人よ。だから会わない方がいいかもね。こうやって話題にあげているだけでも声が聞こえてきそう」
「ここに呼んでみようよ! ここは何でもできる世界なんだからさ、ねえ良いでしょお姉ちゃん! お願いだよー! 私の可愛さで心が動くはずー!」
陽子ちゃんは両手をバタバタさせてせがむ。その姿を見て少女の瞳が潤む。
あの時もこうやってせがんでいたな。どうしても欲しいオモチャを買ってもらいたくて。
「お姉ちゃんどうしたの? 目がウルウルしているよ。ゴミが入ったのかな、それなら早く取らないとバイ菌とか入っちゃいそう」
「何でもないわ、ありがとうね陽子ちゃん。ちょっと昔を思い出して懐かしくてね。あの頃もそうやってバタバタさせてたなって」
「そうだったね、でも陽子は今も可愛い陽子のままだよ。あの頃のままの、いつもお姉ちゃんに甘えていた陽子のままだよ」
「そうだね」
「そうだよ!」
陽子ちゃんは瞳を潤ませている少女の頭を優しく撫でた。よしよしいい子いい子とまるで小さな子をあやしているみたいだ。
二人は身を寄せあう。体と体をくっつけて手をお互いの背中へとまわす。抱き締めあっている二人はラブラブのカップルのようだ。
でもそれぐらいの愛はお互いにはあるだろう。ずっと会いたかった、その願いはこうして叶ったのだから。
陽子ちゃん良いにおい。
お姉ちゃんも良いニオイがする。
お互いの首や、髪の毛をくんくんとにおう。大好きな人のにおいはとても良いにおいがする、そうして幸せに包まれていく。二人もきっと幸せの中にいる。
「陽子ちゃんの体は何もかもが小さいね。胸もお尻も子供のままだ」
「ちょっとお姉ちゃん、変なとこ触らないでよ! こしょばいし恥ずかしいよ!」
「だって陽子ちゃん可愛いんだもん。陽子ちゃんの全てが可愛い、可愛くて可愛くてたまらないの」
「そうなの? じゃあもっと触って良いよ。こしょばいの我慢する、恥ずかしいのも我慢するから」
「陽子ちゃんは優しくて良い子だね。じゃあほっぺたくっつけていいかな?」
少女は陽子ちゃんの許可を貰うことなく、ほっぺたをくっつけた。
二人はほっぺたとほっぺたをくっつけてニコニコしている。少女は嬉しそうに、陽子ちゃんは少し恥ずかしそうに。
「あー陽子ちゃんのほっぺたとっても柔らかい。もうずっとこうしていたい」
「それはとてもありがたいけどたまには離れたいよ! 嫌とかじゃなくって、それなりの距離感って大切だと思うの」
「陽子ちゃん難しい事を言うね」
「近所のおばさんがお喋りしてたのを覚えていただけだよう。旦那と最近ご無沙汰なのよねとか、夜がつまらないから何か刺激がほしいわとか、この前郵便局のお兄さんと前田さんとこのお嬢さんが車の中で――――」
「もういいよ!」
少女は陽子ちゃんの言葉を止めた。近所のおばさんは何でそんな事をべちゃくちゃ外で喋るのか。なんでもかんでも喋っていいとは限らない。子供が聞いていたらどうするんだ。
で聞いてしまったのは陽子ちゃんで、そんな話はしなくていいと思うお姉ちゃんなのでした。
「何がもういいの、陽子のお話つまらなかった?」
「いやそういうわけじゃないのよ」
「お姉ちゃん目が泳いでいるよ。何か隠し事してるでしょ」
「そんなの何もないよ、陽子ちゃんの気のせいだよ」
「ふーん、白を切るんだ」
「だからそうじゃないんだってばー」
「郵便局のお兄さんと前田さんとこのお嬢さんは車の中で、仲良くお弁当食べてただけなのに何をそんなに慌てているんだか」
「えっ?」
少女はその途端顔が真っ赤になった。自分は何でそんなことを思っていたのかと恥ずかしくなる。
恥ずかしくて恥ずかしくてたまらない、何処か隠れられる場所があったらそこに今すぐ飛び込みたい。
「お姉ちゃん、顔を隠してどうしたの? 陽子に見せてよ、可愛い妹のお願いだよお姉ちゃん!」
恥ずかしい、恥ずかしい。
「お姉ちゃん何か変だよ、暫く会わない間に変になっちゃったのかな。いろんな事を見たら人は変になるの?」
恥ずかしい、恥ずかしい。
「陽子がいなくなってお姉ちゃんは悲しんでくれたね。毎日毎日陽子のことを思い続けてくれたね。帰ってきたらすぐに遊べるようにオモチャを広げて、すぐに空腹を満たせるようにオムライスを作り置きして」
恥ずかしい、恥ずかしい。
「でも陽子は二度とお姉ちゃんのもとへと、生きた姿で帰ることはなかった。次に会った時はもう陽子は生きていなかった、そこには警察がいてお父さんとお母さんがいた」
恥ずかしい、恥ずかしい。
「お姉ちゃんは来てくれなかったね。シートの向こう側にいたのはわかったよ、お姉ちゃんのにおいがしたから。だから陽子はね、ふわふわとした体を動かして会いに行ったの」
そこでようやく少女は顔を隠すのをやめて、陽子ちゃんのほうを見た。
すると陽子ちゃんは無邪気に笑っていた。
「そうしたらお姉ちゃんはね、涙を流しながら泣いていたの。陽子のために悲しんでくれている、陽子のために辛い思いをさせている、陽子のために心を痛めてくれている」
少女は何かを見て口を開けて固まっていた。何にそんなに驚いている。
「それはとても嬉しかった。お姉ちゃんに愛されていると心の底から思えた。もちろんお父さんとお母さんにも感謝していた。でも陽子にとってお姉ちゃんはとても大切な人だから特別だったの」
少女が見つめる先には躍り狂っている木々の姿があった。ニヤニヤと怪しく笑っている。
「そして陽子が焼かれたあの日、お姉ちゃんは呟いた。陽子ちゃんを殺したアイツは絶対に許さないと。この時やっとわかったの、そっか陽子は誰かに殺されたんだって」
少女の瞳がふたたび潤みだした。しかしこの潤みはさっきとは違う別のものだ。
「ねえお姉ちゃん、陽子を殺したアイツに罰を与えたの? 陽子を殺したっていう、最低で最悪で残酷で残忍なことに対する罰を」
「…………」
「黙っていても意味なんてないよお姉ちゃん。陽子のことをずっとずっと思い続けていた、だから私をここで甦らせたのよね? わざわざそんな事をしたんだから、アイツに罰を与えたという嬉しい報告をしたかったのよね」
陽子ちゃんは無邪気に笑っている。
「そんなこと……私はただ……」
「えっ何、声が小さいよお姉ちゃん。陽子を殺したのはさっきお墓参りに来ていたおじさんでしょ、そんなのお姉ちゃんの態度で直ぐにわかったよ。そして罰を与えていないこともね」
陽子ちゃんは手を伸ばした。
その手は少女の首をしめている。苦しい、やめてという声が聞こえる。
その様子を木々は見下ろしている。大きく口を開けながら。
空は闇に染まっていた。この夢は悪に染めらている。




