ご
蝉の大合唱はとてもうるさくて耳が痛くなりそうなぐらいだ。耳を手で塞いでも隙間からその音は入ってくるだろう。だったら耳栓でもすればいい、そうしたら音は遮断できる。
音は木々が密集しているこの森のなかから聞こえる。いったい何匹の蝉がここにはいるんだとその数を頭のなかに描いてみると気持ち悪くなりそうだ。しかし蝉からしてみれば人間も沢山いて気持ち悪い存在なのだろうか。
いやそんなことは考えてはいないだろう、考えたことすらないし考えている時間など無い。このうるさく耳が痛くなりそうな音は生きている証。
まるで空から落ちてくるようなその音。まるで雨のようなその音。
少女は優しい顔で骨となった妹を愛おしそうに見ている。何が食べたいかな、オムライスかなハンバーグかなステーキかなカレーライスかな、どれでも好きなものを言っていいのよ何でも食べさしてあげる。
骨はうんともすんとも言わない。
妹の頭を撫でながら身を寄せる少女。何か欲しいものはないかしら、何でもいいのよ遠慮なんていらないのよ、どんな物でも手にいれることができるんだから。ミカちゃん人形がいいかしら、可愛い動物がいっぱいいるドールハウスがいいかしら、それとも女の子が敵と戦うために変身する鏡がいいかしら。少女の口調は先程までとは違い女の子っぽくなっている。
妹と会えたことが、少女が少女だったあの頃へと心を巻き戻したのだろう。男勝りなしゃべり方だったのは自分を強くするためか。それはもう必要無くなったから、もう強がりなんていらないから、もう寂しい思いも悲しい思いもさせないから。
骨はうんともすんとも言わない。
骨となってしまった妹は、少女からすらばもう生きているのだ。だから話しかけている、優しい顔になれる、少女には記憶の底に眠る妹の面影が見えているのだろう。
少年には妹の姿は骨にしか見えない。骨が人の形を保ったまま座っている姿は怖い。歯をカチカチと鳴らして何か喋っているが、いったい何て言っているのかはわからない。
少女は私もオムライスにしようかなと言った、妹は歯をカチカチと鳴らして何か喋った、少女は最近ではとろとろのオムライスが流行っているのよ昔はなかったわねと言った、すると妹は歯をカチカチと鳴らして何か喋った、少女はとろとろが食べたいのねわかった今すぐ食べさしてあげると言った。
少女は木もお墓もお供え物も何もない場所に向けて掌を広げた。すると光が何もない場所に向けて飛んでいった。このあたりが一瞬光で覆われた、少年は目を閉じていたがすぐに目を開けてそこにある物を見た。こんな森のなかにキッチンがあった。
全て白で統一されているキッチンはシンク、調理台、コンロ、収納などが、継ぎ目なく一体に作られている。システムキッチンというやつだ。
作業台には色んな材料が置かれている。色とりどりの野菜、新鮮な海の幸、牛や豚や鶏の肉が美味しい料理に生まれ変わるために待っている。
ちょっと待っていてね、今からとろとろのオムライスを作ってあげるから。待っている間そこにいる坊やとお話しでもしておいて、私の友達だから怖いことなんてないわ。
少年はもう関係ないものと思っていたからびっくりしている。
「そういうことだからよろしくね、妹の名前は陽子っていうの。ようちゃんって呼ばれていたからそう呼んであげてね」
「ちょっと待って、妹さんは……」
少年は言葉を続けられない。だって妹さんは骨なのだ、骨が喋るというのか骨とお話なんてできるのか。
「大丈夫よそれは、じきに坊やにも見えてくるから。可愛い妹の顔がね」
ニコッと笑った少女は蛇口を捻って水を出して、ハンドソープボトルをプッシュして泡を出した。その泡は掌の上に乗った。
少年は少女から妹の陽子ちゃんはと視線を動かす。そこに見えてきたものは座り込んでいる骨。あぐらをかいている。
この悪い夢を救えないのならせめて与えられた仕事だけでもこなそう、少年は陽子ちゃんのほうへと歩いていく。
どこからどう見ても骨だ、肉と皮は焼かれてしまってもうない。少女は大丈夫と言っていた、可愛い顔が見えると言っていた。そんなの嘘だよ不可能だよと普通なら思うが、ここは夢の中だ何でもありの世界なのだ。
陽子ちゃんは骨だ。歯をカチカチしているが何て言っているかは少年にはわからない。しかし少女にはわかるようで、美味しいの作るから待っててねという声が聞こえてくる。
カチカチ、カチカチ、あぐらをかいて歯を鳴らす骨とそれを見ている少年。
「こんにちは、僕はこの夢を悪から助けに来ました。でもあの子はそれを望んでいないみたいなんだ、だから陽子ちゃんが説得してくれたらいいんだけど」
「……」
骨姿の陽子ちゃんは何も言わないが、カチカチと歯を鳴らす。
「あの子は陽子ちゃんのことをずっと思い続けていたみたいなんだ。長い時間が流れてしまったけれど、ようやく陽子ちゃんに会えて嬉しくて離れたくないみたい」
「…………」
骨姿の陽子ちゃんは何も言わないが、カチカチと歯を鳴らす。
「だからこの夢にずっといたい、留まり続けたい、それはどういうことなのかわかるよね? ここに居続けるということは夢をずっと見るということ、夢をずっと見るということは夢から目を覚まさないということ」
「………………」
骨姿の陽子ちゃんは何も言わないが、カチカチと歯を鳴らす。
「会いたい人や会えない人のことを思い続けて、夢にその人が出てくるということはよくあること。でもそこに居続けたいと思う人はそんなにいない。夢は夢であって現実ではないから、だからここにいたら――」
「お姉ちゃんは何も悪くない!」
その時声が聞こえた。少年の声でも少年の声でもない三人目の声だ。さっきここにいたおじさんの声でもお年寄りの声でもない初めて聞く声だ。
少年が見つめる先にいたのは骨から少しずつ肉や皮が付いていっている陽子ちゃんの姿。ぽっかりと空いていた胸のあたりにすぽっと心臓が入った。
「慶子お姉ちゃんは何も悪くない、悪いのはこんなことになってしまった私の運命だよ」
元気のない声が聞こえてくる。その間にも骨に肉や皮が付いていく。何かの臓器が見えて肉と皮で隠れた。
「この私の運命のせいでお姉ちゃんの人生をめちゃくちゃにした、お父さんとお母さんの心に深い傷を付けてしまった。ここにいるよとずっと叫んでいたのに気付いてもらえなかった、誰にも声は届かなかった」
顔が作り上げられていく。鼻や耳やおでこ、出来上がった目は既に潤んでいた。少年が泣かしたわけではないと思うが、この場合どうなるのだろうか。
「何があったの? かくれんぼをしていたあの日に」
その日何があったのか、それがわかったらモヤモヤしたものは晴れてくれるだろう。陽子ちゃんは何故見つからなかったのか、何故森の中で発見されたのか、何故森から出なかったのか。
その質問をしている間も肉と皮が付いていく。もう6割ぐらいできてきた。陽子ちゃんの可愛い顔をしっかりとちゃんと見ることができる。
陽子ちゃんは幼い顔をしている。体も小さく手も足も小さい。全てが小さいその姿は何だか切なく思えてくる。幼くして失った光輝く命、短い一生のなかで見たものはどんなものだったのだろう。
光輝く命が消えてしまったその時、茫然自失となり目の前が真っ暗になったかもしれない。何故自分は死んでしまったのか、何故自分がこんなことになったのか、何故何故何故……考えても悩んでもどうすることもできない、声は聞こえない誰にも届かない。
キッチンのほうからトントントンと包丁の音が聞こえてくる。少女が陽子ちゃんのためにとろとろのオムライスを作っているのだ。
「神隠しって知ってる?」
少年の質問とは関係がなさそうなことを喋る陽子ちゃん。
「人間がある日忽然と消えうせる現象のことだよね。それがどうしたの?」
「……私は神隠しに合ったの」
「えっ」
「あの頃ね、この村では人が次々と消えていく不思議な出来事が続いていたの。山や森に入った人がね、まるで初めから存在しなかったかのように消えたの」
陽子ちゃんの体は完全に直った。どこからも骨が見えない、臓器も見えない、全て皮で覆われている。
キッチンから良い匂いが漂ってくる。こんな良い匂いを嗅いだらお腹が空いてくるのは当たり前だ。グーという音がお腹から鳴ったかもしれない。
「だからお父さんとお母さんにしつこいぐらい言われていたの、山や森にあまり入らないようにって。もし用があるなら必ず誰かと行くこと、一人はとても危ないからねって何回も何回も聞かされた」
「それなのに何故森でかくれんぼなんかしたの?」
それが疑問だ。何故危ないと言われている場所にわざわざ行く、森は木々がいっぱいあってそれが身を隠すにはちょうど良いのかもしれないが。だからって口うるさく言われていたはずだ、それなのに何故。
「わからないの? お兄ちゃんも子供だよね。子供ならわかるはずだよ」
「……そうなの? 全然わからない」
「お兄ちゃんちゃんと遊んでる? お友だちとさ、鬼ごっこやけん玉やおはじき遊びとか」
陽子ちゃんは少年を心配しているのか、覗き込んでくる。目の前に陽子ちゃんの顔があるから恥ずかしいのか、少年は顔を背けた。
「どうしたの? 何か気になることでもあるのかな、心配なことでもあるのかな、悩み事でもあるのかな」
無邪気に笑う陽子ちゃんは子供そのものだ。少女みたいに見た目は子供中身はおばさんではない。
「いや……顔が近いなって思って」
「それがどうしたと言うのさ、何ともないじゃないの。お兄ちゃん何か変だよ!」
陽子ちゃんはさらに顔を近づけてくる。別に狙ってやっているわけではない、ただ無邪気なだけなのだ。
少年はさらに顔を背ける。すると料理中の少女、慶子お姉ちゃんと目が合った。助けてと少年は心で呟く、しかし少女はニコッと笑うだけで助けてはくれない。きっと心の中で、二人はもう仲良くなったのねと喜んでいるに違いない。
少年はため息をついた。こんなことをしていていいのか? 悪い夢から悪を追い出すという仕事を全くしていないこの現状はなんだか気持ち悪い。それに少女は楽しそうで、陽子ちゃんも笑っているし、ここが悪い夢だということを忘れそうになる。
少女が長い間願い続けた夢が叶ったのだ、だからこの夢に漂う空気はいつの間にか生ぬるい風から涼風へと変わっている。風に当たると心地良い、爽やかな風が涼しげでこの暑い夏の気温を下げているような感じがする。
「いいからさ、ちょっと顔から離れてくれない」
「何で何で? お兄ちゃんの顔傷もニキビも何もなくて綺麗だよ」
「そういうことじゃなくってさー」
「手も真っ白で綺麗だね。お兄ちゃんお家の中にずっといるでしょ、外で全然遊んでないでしょ、子供は風の子なんだよ外で遊ばないといけないんだよぅ!」
「日に焼けない体質なんだよ」
「それは嘘だね! 外で遊んだら焼けるもん。こんなに真っ白なのは外で遊んでいない証拠だもん、陽子の名推理からは逃れられないよ」
何故かどや顔の陽子ちゃん。まるで探偵のようだ。
「今の時代は日に焼けるのはあまり良くないことなんだよ。紫外線っていうものが太陽の光には含まれていて、これは体に良くないんだよ。だからそれを防ぐために薬を塗ったり日傘を差したり長袖を着たりするんだよ」
「えっそうなの? 陽子はそんなこと知らないや」
それも無理はない、だって陽子ちゃんは長い時間を巻き戻した時代に生きていてそして死んでしまったのだから。
陽子ちゃんの無邪気な顔は少年から離れた。ようやく離れてくれたかと少年はホッとしたが、陽子ちゃんの手が少年の手を引っ張った。




