よん
少女はお墓に身を寄せた。優しい表情と優しい声で何か呟きながら。
少年はお供え物越しではその意思がいまいち理解できないと思い、少女が待つ向こう側へと移動した。
少しでも傍にいればわかるのか?
そんなの試さないとわからない。何も始める前から無理だと決めつけるのはよくない。色々試してそれでも不可能なら諦めがつくってものだろう。
「僕も撫でていいかな?」
このお墓にいったい誰が眠っているのかはわからないが、少女がやっていることを真似たら少しでも近づけそうだ。
「坊やも偲んでくれるのかい? 優しく撫でておくれよ」
少女はニコニコしていた。
少年は手を伸ばした。お墓に手が触れると感じるのは冷たいものだった。お墓って冷たいものなのか? 触ったのは今が初めてのことだから。
ここに誰かが眠っている。永遠の眠りについている。ここに眠っている人は少女にとってどんな関係をもった人だったのだろう。
遠いの出来事を思い出している、そしてここは子供の頃の記憶で作られた世界。
少女が本当の少女だった頃の大切な人。その大切な人は長い時の流れの中にいつまでも心の中に居続けた。それが負担になったのかそうじゃなかったのかは定かではないが、重要な人物だという事はわかる。
さっき言っていた心残りという言葉が気になる。
それは良い意味では使わない言葉だから、長い時の流れの中に思いが残ってそれは晴れることは無く靄がかかり続けていた。すっきりとしない思いは今になって少女を動かした。
もうどうなってもいい、その身が滅びようが関係ない。私はここで溺れるのさ。男前の台詞のようにも聞こえそうだ。
「ねえ、訊いても良いかな?」
「なんだい」
「ここには誰が眠っているの?」
それを知らなければ始まらない。少女は自分の口からそれを言わないからこっちから訊くのはどうかと思うけど。他人が踏み込んじゃいけないものかもしれないから。それでもその思いは独り占めしたくはなくて誰かに知ってもらいたいわかってもらいたい。だから答えは言わずにヒントばかり出すのだ。
「私にとって大切な人だよ」
「大切な人?」
「ああそうさ。私が子供だった時にね、この可愛らしい顔の時代だよ、毎日会っていたんだよ」
「毎日会っていた……」
「ここらへんは都会と違い何も無い場所なのさ。今思えばこんな娯楽も何も無い場所で大人達は何を楽しみに生きていたんだろうね。玉がいっぱい出てくる機会も、若い姉ちゃんとお喋りするお店も、馬が一斉に走ってどれが一着でゴールするかを賭けるものも何も無かった」
目を閉じている少女。遠い日の思い出を思い出しているのだろうか、そんなことをしなくても目の前にはその頃の思い出が広がっているというのに。
「そんな娯楽が何も無くても毎日を生きていればそれで良かったのかねえ。空から降ってくる人の命を奪う兵器に怯えなくていい、縁側でただずっと横になってるだけでいい、その日食べる分だけの量を取るために海や川や山に向かうだけでいい、若い夫婦の間に子が生まれてこの子は村の宝だと盛り上がるだけでいい。そんな争いも何も無い平和な日々を送れるだけで幸せだったのかねえ」
「争いからは悲しみしか生まれないからね」
「それは大きなことも小さなことも同じだね。村でも色々あったねえ、どんな事があったのかはもう忘れちまったけどね。時間が経つにつれてだんだん薄まっていくのさ、あの人の顔が薄まり次はその人が今度はあっちの人が……これは老いのせいなのかい? 怖くなってくるよ」
しかしその表情は笑っている。この少女、いやおばさんにはもう怖いものなど何もなさそうだ。
「まだハッキリと覚えているうちにね、その姿形が思い出せるうちにね、私はもう一度会いたかったんだよ。現実ではもうそれが不可能だろ? お墓を掘り出してもそこには骨しかないさ。でもここでなら不可能が可能になってしまうだろ、これに気づくのに随分時間がかかったねえ」
少女はそう言うと立ち上がって、右手を横に伸ばした。
すると手の辺りが光り出した。眩しい光で目を開けていられない。少年は目を閉じた。
「今土の中から出してあげるからね、もう寂しくないんだよこれからは私も一緒だからさあ。こんな私のことは許してくれないだろう、その時は殴るなり蹴るなり気が済むまでやっておくれ。ここは私の夢の中だ、死ぬことは無いのだから」
光り輝く中で聞こえてくるのは少女の声。
それと蝉の大合唱。ミンミンと元気よく鳴く蝉たちは子孫を残すために必死なのだ。
少年は目を微かに開けた。すると飛び込んできたのは眩しい光。その光に包まれているかのように少女の顔が見えた。
手に視線を移して見えたのは銀色のシャベルだった。
それを両手で掴むとお墓のすぐ横の辺りを掘り始めた。少女の目は輝いていた。
少年には少女が何をしようとしているのかすぐにわかった。
このお墓に眠っている人物を掘り起こすのだ、掘り起こしてずっと会いたかった人に会うのだ。
「止めないでおくれよ? こんな事するのは罰当たりだとはわかっているさ。でもここは夢の中、こんなところにまで罰を与える神様なんていないだろう。坊やはそこで見といておくれ、私の長年の夢が叶うその瞬間を見届けておくれ」
少年は何も発することなく静かに頷いた。
土が掘られていく、シャベルに土が入ってそれを適当な場所に置く。土は小さな山のようになっていく。汗ひとつ流さず続けられる、蝉の大合唱の中土を掘っていく、少女の手が休まることは無い。
「近づいているのがわかるよ、もうすぐだからねえもうすぐ会えるからねえ。ずっと一人にしていてごめんね、あの頃聞いた泣き声が今にも聞こえてきそうだよ。ああなんだか懐かしくなってきた、早く会いたくなってきたよ」
土が宙を舞う。それがお供え物に当たる。
「あの時一緒にいたらこんな事にはならなかったのかねえ、私が手を離さなかったら今も笑い合っていたのかねえ。かくれんぼなんてしなけりゃ良かったんだ、こんな森の近くで遊ばなけりゃよかったんだ、日が傾いていたのに何故気にしなかったんだろう」
少女の服にも土が飛ぶ。少年にも飛んでくるが避ける。
「私は早々に見つかったんだよ、お地蔵様の後ろに隠れていたのは見つけやすかったのかねえ。次々と見つかる子供たち、日は完全に落ちていき暗くなっていったねえ。でもいつまでも見つからない子供が一人……あの時何処にいたんだい? 私を呼ぶ大きな声は聞こえなかったよ」
その時シャベルに何かが当たった音がした。
少女はシャベルほそこらへんに置いて、土に汚れながら手で持ち上げた。
その手には骨壺があった。落とさないように大事に持っている。
骨壺を開けて、そこから骨を一つ取り出した。
骨は案外綺麗なままだった。風化などはしていないようだった。
その骨を少女は地面に置いた。そしてまた骨壺から一つ取り出す。
その繰り返し。取り出しては置く、置いては取り出す。
やがて人の形ができていく。手が出来て足ができて、体ができて最後に頭が置かれた。
少女並べた人骨を愛おしそうに見ている。
やっと助けることができた、ずっとこんなところに埋まっていて窮屈だったろう。ごめんな、私のことを許せないなら殴っておくれ。それで時間が戻ってくるなんてことはないさ、命だって戻って来やしないさ、でもそうしないと気が済まないのさ。こうなったのは私が目を離したから、ずっとその小さな手を繋いでいなかったから、私が全部悪いのさ。
涙が流れた。押さえていたものは限界にきたのだろう。
少女は頭を撫でる。優しく、大事に。
しかし骨は何も喋らない。もうそこには魂がないから何も言わないのだろうか。
少女の涙が骨へと落ちていく。ぽたぽたと、次から次へ。
鳴き声が森に響く。それを蝉の声がかき消す。
ごめんよごめんよ、怖かっただろう寂しかっただろう、私が悪いんだ私を憎んでいただろう。
地面に横になっている骨は少女の大切な人、その大切な人はずっと土の中にいた。しかし今長い時が流れたけれど外へと出してあげられた。
「この人は誰?」
少年は少女の横にしゃがんでそう言った。
「この子は私の妹さ。泣き虫で寂しがり屋で甘えんぼで、いつも私の後ろを着いてきていたんだよ」
少女は骨となった妹を撫でる。
「会えてよかったね。妹さんも喜んでいると思うよ」
「そうだといいねえ。恨んでいてもおかしくはないからねえ。この子にとったら何故自分が死んでしまったのかもわからないのだから」
妹の手の辺りの骨に合わせる。少女の手は妹より大きくて、妹の手は少女の手より小さいように思えた。少女はその小さな手といつも繋いでいた。
「死因は何だったの?」
「さあね、わからないよ」
「……えっ」
少年はびっくりしている。
「結局妹は見つからなくてねえ。村の人達総出で探したねえ、朝も昼も夜も毎日毎日。その時の村に漂う空気は重かった。誰も笑っていなくて皆俯いていてご飯も美味しくなくて。眠るときなんて特に寂しかった、まるで光が消えたかのような感じがしたね。妹は私の隣でいつも眠っていたんだけどそこには誰もいなくてさ、そんな状況は何だか怖くて一睡もできなかったよ」
「妹さんはここにいたとわかったのはいつ?」
「何日経っていただろうねえ、一週間……一か月……半年……季節が変わっていたねえ。母が妹の半そでを片付けて長袖を出していたよ、あの子が戻ってきたらいつでも着れるようにしないとねって。でもそれは叶わぬ夢となった。ある日ねえ、キノコ狩りをしていた夫婦が見つけたんだよ。亡くなって時間が経過した妹をね」
「それがこの森ってわけか」
「そうさ、この森は妹が亡くなった場所。だからここにこうやっているのは嫌なことなんだよ。でもここで妹が亡くなったからさ、私のせいでこうなったからさ」
「……っ」
それは少女のせいではないよと言いたげな少年だが、言葉が出かかってやめた。
「連絡が来て家族は走ったよ。普段走ることなんてしない母もこの時ばかりは頑張っていたよここに着くと沢山の人がもういてさ、人の不幸がそんなに面白いかいと野次馬共が憎くなったね。でもそんなことは後にしよう、今は妹のほうが大事なんだよ。野次馬から見えないようにシートがしてあった、何人かの警察官がそこにはいた、この村にこんなに警察なんていたかねえと思ったよ。母は妹の名前を泣き叫んだ、父が母の手を以て支えていた、警察官は見ないほうが良いと言っていた。それでも子供のもとへと行きたい、それが親ってもんなのさ。父と母はシートの向こう側へと行った」
少女の体が震えていた。寒いわけじゃない、風邪でもない。
「警察官にはに言ってきたよ、お姉ちゃんはどうすると。このシートの向こうで妹がどうなっているのかは気になる、でも泣いたり笑ったり怒ったり色んな表情をする妹はもうそこにはいない、会っても悲しいだけだ寂しいだけだ。それに誰にも気づかれることなくこの場所にずっといた妹のその姿が目に焼き付いて離れなくなったらどうしようと思ったさ」
少女の口から何か液体が出てきた。それは妹に当たることは無い、ちゃんと何も無い地面へと落とす。
「私は妹を見ることが怖かったのさ、だからその場で立ち尽くすしかなかった。子供だからそれでもいいと思った、警察官もそれ以上私に何も言わなかった、近所の人が私のところまでやってきて慰めてくれた。これでいいんだ、妹の姿はお父さんとお母さんが見たらいいんだと他人任せだった」
少女は涙を腕で拭った。目は真っ赤で鼻からも何か出ている。
少年はティッシュを渡そうとポケットに手を入れた。
それを少女にどうぞと渡した。すると少女はありがとうと手に取った。
鼻をかむ音が響く。
しかしそれは蝉の大合唱にかき消される。




