いち
真っ赤な太陽はこの世界を明るく、そして暑くしている。地面からはもやもやとしたゆらめきが出ていて、照りつけるようなこの暑さを見事に演出している。
町を歩く人々はみなこの暑いなか、汗を流しながらどこへと向かうのか。買い物か食事か、仕事か旅行か。こんな日は冷房をがんがんに効かせた涼しい部屋が快適だろう。
カフェで冷たいものを食べている女の子がいる、小型の車でアイスを売っているお兄さんがいる、公園の噴水で水遊びをしている小さな子がいる、日傘をさしてハンカチで汗を拭っているおばあさんがいる。
みなそれぞれのやり方でこの暑さのなかを過ごしている。暑さで倒れないように気を付けてほしい、サイレンの音が町に鳴り響くのは聞きたくない。
町の側には海がある。海を泳ぐ人達がいる。みな笑顔で楽しそうだ、暑さを忘れて楽しそうだ、涼を得ることができて楽しそうだ。
その湖のずっとずっと先、そこに大きな大きな家が建っている。大きな大きな家は町からうっすらと見える。
家からすぐに湖へ行けるように階段がある。その階段を下りている人の姿を確認できた。ゴーグルを付けていたり、うきわに入っていたり、パラソルを持っていたりやわら帽子をかぶっていたり。
真っ白な砂浜は足跡一つなくて綺麗だ。ここには町の人は来ることはないのだろう。大きな大きな家に住む人のプライベートビーチなのだろう。
足跡一つない真っ白な砂浜に小さな足跡が一つ、また一つと海に向かってできていく。小さな男の子と小さな女の子が笑顔で走っているのだ。
もう少しで足が水に浸かるというところで、パラソルを広げながらおばばが大きな声を出した。
「準備体操しなさい」
アロハシャツにショートパンツというこれぞ夏という格好のおばば。サングラスをかけているからどんな目付きをしているのかわからないが、きっと鋭い眼光だろう。別にそれは怒っているわけではない。子どもたちのことを気にしているからだ。
男の子と女の子はハーイと素直に返事してひとまずうきわから出た。チェックと花柄の二つのうきわが真っ白な砂浜の上で気持ち良さそうに横になる。
パラソルを広げてシートを広げ、風で飛ばないように四隅に物を置いて日陰に腰を下ろしたおばばは麦わら帽子をはずした。
真っ赤な太陽に見下ろされながら、手足を動かして準備体操をしている子どもたち。その様子を見ているのはおばばだけではなくて、遅れて砂浜にやって来た少年もその一人だ。
少年は白の水着に、猫のキャラクターが描かれた黒のTシャツを着ている。太陽の光に肌が焼けるのが嫌なのだろうか。太陽の光には紫外線が含まれていてこれは健康を害する。
「夏はどうしてこう暑いのかな? 何もかも溶けてしまいそうだよ」
少年は手を自分の方に向けて扇いでいる。風はそんなに出ないだろう、出たとしてもこの暑さでは生ぬるくなってしまう。夏に吹く生ぬるい風は気温を上げている気がする。
「四季があるのは良いことだよ。そうしたのはあんただろう」
おばはニッと笑う。
「そうなんだけどさ、こんなに暑くなるとは思っていなかったからさ」
そう言いながら少年は日影に腰を下ろす。四隅のどこかに置かれたクーラーボックスを開けて、そこから五百ミリリットルのペットボトルを取り出す。
キャップを開けて、ぐいぐいと飲む。暑い中で冷たいものを飲むと体の中にそれが入っていくのがよりわかる。
「これ運ぶの重かっただろ? 男手はあんまりいないからね、助かるよ」
「僕以外はお年寄りと子どもだからしょうがないね。っていうか動物に運んでもらえばよかった」
「力持ちの動物たちはいたのにね。それに頼らないあんたは男前だよ」
「……ありがとう。おばばにそれを言われても喜んでいいのやら悪いやら」
「素直になりな。年上のお姉さんは魅力的だろ?」
「胸元見せなくていいよ。それにおばばは年上すぎるというか」
「不満かい? 年上ならあのお姉ちゃんのほうがいいのかい」
おばばの口元がニッと笑った。砂浜ではユミちゃんとシュウ君の準備体操が終わったみたいで、二人は砂浜に横にしておいたうきわの中に再び入った。
そしてワーイと湖へ勢いよく走っていった。水飛沫が飛び散る、泳いでいた魚が逃げる、うきわが浮く。子どもたちは笑い、その様子を見ているおばばは幸せそうな顔をする。
子どもが笑っていられるのは平和だという証なんだよ。たまに言うおばばの言葉の一つだ。
「そういえば最近顔を見てないね梓さん」
「何かあったんだろうね、私達とはかかわり合いがない所で」
おばばはそう言いながら空を見上げた。サングラスをかけているから眩しくはない。
海ではユミちゃんが足をバタバタ動かして泳いでいた。その後ろを待ってようとシュウ君は着いていく。
その横をカバが泳ぐ、ワニも泳ぐ、サメだって泳ぐ。食いちぎられる心配などない、皆仲良しで大きな大きな家の仲間だから。
「そろそろ僕も泳ぐよ」
少年は日陰から出て、太陽の光が照りつける真っ白な砂浜を歩く。夏の砂浜はあついからあまり裸足で歩きたくないが、しっかりとサンダルをはいているからそんな心配はいらない。
海で泳いでいるユミちゃんとシュウ君は、少年がこっちに来ていることに気づいて何か大声を出した。こっちこっち早く来てよお兄ちゃん、笑顔で手を振るユミちゃん。お兄さんは来なくていいです空気を読んでください、ムスッとした顔のシュウ君。
来ていいのか悪いのかどっちだ? 少年は波打ち際で立ち止まる。波が足にあたって、火照った体を冷やしてくれそうだ。
少年は足を海の中に入れた。しかし一歩二歩と下がって海から離れた。ユミちゃんは、お兄さんどうしたの海が怖いのと心配している。シュウ君は、空気を読んでくれてありがとうとニコッとしている。
残念ながら空気を読んだわけではない、少年は手足を動かし始めた。海で泳ぐまえには準備体操が大切なのだ。
「いい天気だなぁ」
少年は空を見上げた。少年の真上に果てしなく広がる青は、海に勝るぐらい青くて美しいかもしれない。
その果てしなく広がる青のなかには真っ赤な太陽がいて、少年と目を合わすと今日も暑いねと口が動いた。暑いのは君のせいだよと少年の口が動く。
青と赤と白が仲良く空を彩る。ずっとずっと遥か遠くもこの青が広がっていると思うと凄いと思えてくる。だからって自分はなんてちっぽけな存在なんだと思ったりするのかは人それぞれ。
少年は海で泳ぐための準備体操を終えて歩を進める。真っ白な砂浜にはゴミなんて一つもない、貝殻がそこにあったり小さな蟹が横歩きしていたりする。
少年が波打ち際で足を波に当てて、さて思う存分海で泳ぐぞと思ったとき、上の方で何か音が鳴った。
なんだろうと少年は空を見る。それに続いてユミちゃとシュウ君も空を見る。パラソルの日陰で一人太陽の光から逃れているおばばも空を見る。
するとそこには飛行機雲があった。
「楽しみはあとでってことかー」
少し残念そうにしている少年は、海でぷかぷか浮き輪で浮いているユミちゃんとシュウ君に声をかけた。あんまり遠いところまで行っちゃ駄目だよ、おばばの言うことをちゃんと聞きましょう。
その場で振り向いて今度はおばばと目を合わす。何も言わなくてもわかる、心が通じあっているからわかる、だからおばばはただ頷いた。
少年は指を口の方へともっていき音を鳴らした。指笛というやつだ。そんなことをしていったいどうするつもりだと思っていたら、果てしなく広がる青の中に鳥が飛んでいた。
鳥はどんどん砂浜へと近づいてくる。だからユミちゃんとシュウ君は怖くなって少し砂浜から離れた。別に二人に向かって来ているわけではない。
すると少年は手を上げた。鳥はその手を素早く掴んで、少年を宙に浮かせた。鳥は少年を連れて空を飛ぶ。この鳥は人拐いの鳥なのだろうか。
いやそうではない。さっきの指笛で少年に呼ばれたのだ、だから大きな家に住む仲間だ。
「僕は重くないかな? ワッシーは大きな鳥だけど」
少年はワッシーという名前の鷲と空中散歩をしている。
「そんなことないワッシー、頼られるのは嬉しいことワッシー」
鷲は大きな翼を羽ばたかせて大きな家の真上にやってきた。屋根に下ろすのだろうか。
「ありがとう、もう着いたね」
そう言うと少年は手をはなした。そのまま下へと落ちていって、大きな家の屋根に着地した。
「危ないワッシー! ちゃんと下ろすワシよ?」
鷲はゆっくりと屋根の上にやってきた。
「急いでいたからね、怪我するのは嫌だから普段はしないよ」
少年は鷲の頭を撫でる。鷲は嬉しそうな顔をしている。
「気をつけて行くワッシー」
お見送りのつもりなのだろうか翼を広げている。
「じゃあ気を付けて行ってきます」
少年はその言葉を残して自室へと向かった。
屋根には鷲だけが残された。役目を終えた鷲はなんとなく顔を上げた。するとそこにはついさっきまで飛んでいた青が広がっている。その青には鳥が飛んでいる、雲が流れている、白色が走っている。
あの白が合図。あの白がご主人様を悪い夢へと向かわせる。
鷲は真っ白な砂浜を見た。カラフルなパラソルと、ユミちゃんとシュウ君が海にぷかぷか浮いている姿が見える。
あんまり喋ったことが無いワッシー。あの二人を空中散歩に招待したいワッシー。
しかしなかなかそれができない。どうやら鷲は子どもたちに怖がられているようだからだ。さてどうしよう、こっちから近づくわけにはいかない。かといってあっちから来てくれはしない。
鷲は考えている、悩んでもいる、そうしているうちにだんだんご主人様に呼ばれないかなと関係ないことを考えてしまう。
そんな鷲のもとにセキセイインコが飛んできた。可愛い声で鳴くやつだ、しかし可愛いのは声と顔だけらしい。インコの中ではとても人相が悪いらしいが見た目ではそれはわからない。
「おうワッシー、ご主人を運んでいたな」
「呼ばれたから当然ワッシー」
「俺も運んでやりたいがご覧のとおりこの小さな体じゃ無理って話だ」
「それぞれの役目をしっかり果たせばいいワッシー」
「俺の役目ってなんだ?」
「ご主人様の心を癒すことワッシー」
「やはり俺は可愛い声で鳴くことしかできないのだろうか」
ピーピー、少年に聞こえるように元気のいい声を出す。ピーピー、応援しているような気がする。
鷲も応援しようと思ったがやめた。少年に呼ばれたらすぐに飛んで行けるように聞き耳を立てるのだ。
◇
木が隙間なく聳え立っているような感じがする。
そしてそれは風が吹くとザアザアと音を立てる。なんだか怖いような、恐ろしいような。
木が生い茂るここはどこだ? 道はあるが舗装はされていないようだ。石ころがあちこちにある、歩きにくそうだ。こんなところに何かあるのだろうか。
少年は辺りを見回す。
何処を見てもそこには木、木、木。ここは森の中なのだろう。こんなにも木があるのだから。
それにこの声。ミンミンという夏になると聞こえてくる声。
この声は蝉たちが生きていますよと一生懸命声を出しているのだと思っていた。それを誰かに聞かせるために、人間でも犬でも猫でも聞いてくれれば誰だっていい。地上に出たら直ぐにその身は亡びてしまう。だから力の限り、命を削って命をかけて、大きな声で鳴くのだと。
本当は子孫を残すために鳴いているのだ。その身が亡びるまでの限られた時間の中、その中でメスを求め続ける。へいそこの彼女、ちょっと俺と子孫を残さないかい? とでも言っているのだろうか。
こんなにも同じ場所で一斉に鳴かれたらメスは引かないのだろうか、取り合いにはならないのだろうか、メスの数が足りなくならないのだろうか。
少年は蝉の声が鳴り響く中を歩く。
とにかくこの森を抜けないと迷うかもしれない、まずはここを出て人がいそうな所へ行こう。そしてこの夢を見ている人を捜そう。
いつも手がかりがない、目を開けたらもうすぐそこにいてくれたら楽なのに。そんなに都合よくはできていない。そんなことが今後あることを願おう。
その時人の声が聞こえてきた。
「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」
念仏を唱える声が聞こえてくる。
少年はその声のほうへと歩いていく。手がかりが何も無い今、そこに向かうしかない。
するとそこにいたのは二人のお年寄りと、一人のおじさんだった。
開けた場所には沢山の花やお菓子やジュースやおもちゃが置かれていた。汗を流しながら手を合わせているお年寄り、ライターで線香に火を点けたおじさん。
お供え物の奥にはお墓のようなものがあった。
ここで誰かが亡くなったのだろうか。その故人を偲ぶためにここに来たのだろうか。
少年は念仏を唱えているお年寄りに近づいた。
「僕もいいですか?」
誰のお墓かわからない、いったいここに誰が眠っているのかもわからない。
しかしお年寄りは念仏を唱える事に集中しているのか少年の声には気づいてくれない。
それじゃあおじさんだ。少年はおじさんへと声をかけた。
しかしおじさんは少年を無視してお墓から離れていき、ポケットから煙草を取り出してそれに火を点けた。
少年は首をかしげた。
もう勝手に手を合わせようとお墓の前に来て、そこで目を閉じて手を合わせて。
視界が真っ暗になった。何も見えない。でも蝉の声は聞こえてくる、念仏も聞こえてくる。
貴方は初めて見る顔ねという声も聞こえてくる。
少年はびっくりして思わず目を開けた。ここには念仏を唱えている二人のお年寄りと、煙草を吸っているおじさんしかいないはずだ。
そこにいたのは少女だった。お墓の横に座っていた。




