じゅうさん
水が流れる塔は水でいっぱいになった。木も花も螺旋階段も、上る途中にあった教室も高そうな家具が置いてあったあの部屋も、塔の一番上にあるお姫様の部屋も水に浸かった。
水中には色んなものが浮いている。
行事が書かれているプリント、黒板消しに色んな色のチョーク、学校の椅子と机。ふかふかの椅子、柔らかそうな枕に真っ白のシーツ、ごみ箱に入っていただろうあれやこれ。お姫様が好きな小説や漫画、お姫様が使っているお箸やスプーンやフォークやマグカップ、お姫様のお気に入りのワンピースやシャツやTシャツやジーンズやスカート。
その全てが水の中に浸かり、どこを目指すでもなくただ漂っている。それらは物であり呼吸はしない、だから溺れるということはない。しかし二人と一匹はそうではない。
少年とお姫様、そして猫のプリンツは物ではない。呼吸をしなければ苦しくなり意識が遠退いていく。それにここは水の中、流されてどこかの砂浜に流れ着くというわけにはいかない。
このまま意識が遠退けば溺れる。しかしここは夢なのだから本当に溺れるわけではない。夢に溺れてこの夢から逃れられなくなってしまう可能性はある。例え悪いものが消え去っても、心が不安定だと怖い夢を見てしまう。
根本的に解決しないといけないのだ。
それはつまりあの男と決着をつけるということになる。それをするのはここではない、外での話だ。
「んー……んー!」
口の辺りから小さな泡が出た。それは少年がさっき口の中に沢山入れた空気だ。これが全部なくなると苦しくなる。
少年は右手でお姫様、左手でプリンツと手を繋いでいる。ここから流されないように、ここから離れないように 。
まだ諦めてはいけない、まだどうにかなるはずだ、息が続く限りこの夢に留まれる。息が続かなくなり苦しくなって意識が遠のくと、その時はこの夢から追い出されるだろう。
夢なのだから水中を苦しまずにスイスイと泳ぎたい、しかしそこは変にリアルで夢でも水中は苦しい。
「……んんん……んーんー!」
何しているんだ、戻ってこい。少年はそんなことを言っているのだろうか。
お姫様とプリンツは口から沢山の泡を出している。だからもう残された時間は少ない。虚ろな目で水の中を漂っているお姫様はなんだかとても美しく見える。そしてとても儚くも見える。
プリンツはお姫様へと向かって泳ぐ。
お姫様は虚ろな目でプリンツを待っている。
少年はもうそこに関わることはできない。プリンツは猫だけど、お姫様を守るSPなのだけど、この時は王子様に見えた。
プリンツはお姫様を優しい目で見ている。
お姫様はプリンツにとても大切にされている。
プリンツはお姫様の頬を触った。そして口元をお姫様と合わせた。
眠っているお姫様はお姫様のキスによって目が覚める。石になったお姫様はお姫様のキスによって目が覚める。王子様のキスはお姫様に奇跡を起こす。
すると合わさったところが光った。沢山の泡がブクブクと出てくる。泡はキラキラしていて綺麗だ。
光の中でお姫様の瞳が動いた。そして人形のように動かなかった美しいお姫様の手足が動いた。ブクブク、ブクブク、泡が出てくる。
このままじゃ溺れる、少年がそう思った時水の中に光が走った。光は塔の中全体に広がった。すると水の中までキラキラと光だした。眩しくて何も見えない、少年は思わず目を閉じた。
目を閉じた世界で音が聞こえてくる。何かが壊れる音、何かが流れる音、何かがぶつかる音。
いったいこの塔で何が起こっている? 少年は微かに目を開けた、すると映ったのはお姫様とプリンツ。お姫様はこっちへと手を伸ばしてきた。そして口が動いている。
だ、い、じ、ょ、う、ぶ。どうやらそう言っているみたいだ。何が大丈夫なんだ、少年はきっとそう思っただろう。
少年はお姫様に手を繋がれた、そして引っ張られた。少年はお姫様のもとへと引き寄せられる。
「もう大丈夫。私は王子様のキスで目が覚めたの」
水の中では喋ることはできないはずなのに聞こえたのは何故だろう。
少年は目を開けて辺りを見回した。すると水がどこかへと流れている。そこに向けて体が持っていかれそうになるが、お姫様に手を繋がれた少年は床へと足を付けた。
ここが水の中だということはもう関係ないようだ。地上にいるのと同じように動ける、水の抵抗などなく息もできる。
水位はどんどん下がってきて、少年とお姫様は水から顔を出した。
「これはお姫様がしたの?」
「ええそうよ、水の逃げ道を作ったの」
「それがこの流れ?」
「この塔には窓も隙間もなかった、だからそれを作った。ここは私の夢だから何でもできる」
水に濡れたお姫様はなんだか色気がある。真っ赤なドレスはいつの間にか真っ白になっていた。
プリンツはお姫様の足元で体を振って水気を飛ばしている。
「僕がキスしたからお姫様は目を覚ましたのニャ!」
「ちょっと水飛んできたんだけど。もうちょっとあっちでやってよ」
「やっとお姫様と会えたのニャ! 長かったのニャ、何日も何ヵ月も何年も時が流れたような気がするのニャ」
「それは大袈裟だよプリンツ。でも下の様子を見に行ってから戻ってくるまで時間がかかったのは本当ね」
「下に行ったらこの少年がいたのニャ」
プリンツは少年のほうを向いてニャーニャーと可愛く鳴いた。
「ありがとう、プリンツをここまで連れてきてくれて」
「頭を下げないでください。僕は何もしていませんから」
「そうなのニャ! 少年は何の役にも立たなかったのニャ!」
「こらプリンツ、そんなこと言っちゃ駄目でしょう。少年は巷で噂になってるぐらい有名な人なんだから」
「そうだったのニャ? 僕は知らなかったのニャ」
プリンツは頭を下げた。別に頭なんて下げなくてもいいのにと、少年は苦笑いをした。
「少年が噂の人だよね、悪い夢から私を助けてくれたから」
「僕は何もしていないよ、プリンツとお姫様の愛がこの夢から悪を消し去った」
「謙虚だねー。さすが夢のヒーロー」
「……ヒーロー?」
「少年は巷でそう言われているよ。悪い夢を支配しようとする悪の親玉を倒すヒーローだって」
お姫様はニコっと笑っている。少年はまた呼び方が違うと、自分はいったいどのように噂されているのかそろそろ知りたくなっている。
水は塔にできた逃げ道から流れて、お姫様の部屋からも螺旋階段からも引いた。もうさっきみたいな滝は流れていない。あの滝はいったい何だったのだろう。
「お姫様目が真っ赤ニャ! あんなに泣いたらそうなるのは当然なのニャ」
プリンツはお姫様を見上げてニャーニャー鳴いた。
「お姫様泣いていたの?」
「ええそうなの。あの男の言葉が怖くて怖くて、だから涙は止まらなかった」
「止まらなかった?」
「目から流れたら涙は頬を伝い、床へとぽたぽたと落ちていった。そして床を流れて下へと落ちていった」
「それって……」
「少年もずっと見ていたニャ、聞いていたニャ、気になっていたニャ」
「今更だけど恥ずかしい、私の涙のせいでこの塔は満たされたのだから」
「赤いのも混ざったのニャ」
「思いっきり泣いてスッキリしたよね」
少年はニコっと笑った。
「あんなに泣いたらそりゃね。嫌なこと辛いこと、全部流したような気がする」
「じゃあもう大丈夫だね」
「……もう時間なの?」
お姫様は寂しそうな顔をしている。プリンツも同じような顔で少年を見ている。
「僕は悪い夢から悪を追い出すのが仕事だからね。それも終わったし、お姫様はもう自分の心を取り戻したから」
「まだ私は起きないと思うよ、だからもうちょっとお話しようよ」
「そうニャ! 少年のことも知りたいのニャ、だからそんニャに急がなくていいのニャ」
「お姫様とプリンツがそう言ってくれるのは嬉しいよ、でももう僕はこの夢から出て行かないといけない」
少年の仕事は終わったのだ、仕事が終わったのにいつまでも仕事場にいる必要はない。
「……少年には少年の都合があるもんね」
「わかってくれてありがとう」
「僕にはわからないのニャ! 詳しく説明してほしいのニャ!」
そう言うとプリンツは少年に向けてジャンプした。床を蹴って軽やかに宙を飛ぶ。
少年の口が、お姫様なら大丈夫と動いた。
すると今度はお姫様の口が、ありがとうお元気でと動いた。
そして少年は消えた。
プリンツは何もないところに飛びかかって床へと落ちそうになったが、体勢を整えて見事に着地した。
きょろきょろと少年を捜すプリンツ。どこに行ったニャ、隠れてないで出てくるのニャ、ニャーニャーという鳴き声が響いた。
お姫様はプリンツの頭を優しく撫でた。その表情はもう泣いていなく、太陽みたいに明るいものだった。
◇
目を開けた少年は机に突っ伏していた。
全然眠そうではなく目はパッチリしている、欠伸も出る気配などない。両手を伸ばしてお疲れ様と自分に言い聞かす。
そうやって誉めたてあげたら楽になる、お前はよく頑張ったねとその調子で頑張れよとまだまだそんなもんじゃないだろうと。
夢の中へ行く前は土砂降りの雨が降っていた。しかし今は屋根に当たる雨の演奏は聞こえてこない。少年はベランダから外を見た。
するとそこには虹があった。赤、橙、黄、緑、青、藍、紫の七色が雨上がりの空を彩る。
綺麗だなと少し見とれて、虹から目をはなす。少年の目にはさっき突っ伏していた机が映る。そこには色んなものが置いてある、飾ってある、直してある。
数学のノートのはしっこに書いたパラパラ漫画、四つ葉のクローバーが挟んである理科の教科書、削りカスがたまっている鉛筆削り器、どこで貰ったのかわからない何かの記念の定規、いつ買ったのかわからなくて粘着力がまだあるのかあやしいスティックのり、可愛い動物の付箋、空になったシャー芯入れ、箱から一度も出したことがない絆創膏、お姉さんのセクシーなイラストが描いてあるポケットティッシュ、金色の砂が落ちている砂時計。
少年はその中から数学のノートを手に取った。
色んな数字や色んな数式がノートを占領しているはしっこで、チビキャラが剣を持っている。パラパラとページを捲ると、チビキャラの前にいかにも悪そうな敵が出てきて襲いかかってくる。
その敵をチビキャラは剣を振り回して倒していく。パラパラとページを捲ると敵の頭が飛んだ、赤いものを撒き散らしながら。
可愛い絵のなかにグロテスクな描写があったらいつもより怖く感じる。少年は何故こんな絵を描いたのだろうか。それは少年にしかわからない。
「お腹すいた……」
少年はお腹を擦りながらノートを元に戻し、ドアへと歩いていく。ドアを開けるとそこは階段があった、もう螺旋階段は懲り懲りなのだがこういう造りだから仕方ない。
足音を響かせながら階段をおりていく。下りながら誰かいないかを見てみると、広いリビングの真っ白なソファーにおばばが座っていた。室内だというのにサングラスをしている。眩しいからかけてるのではなくて、ファッションとしてかけているのだ。
おばばは雑誌を読んでいたが、足音に気付くとサッと立ち上がってどこかへと歩いていった。
少年は白いソファーに腰をおろした。リビングにユミちゃんとシュウ君の姿はない、部屋に戻って休んでいるのだろうか。
動物達の姿も見えない。外で遊んでいるのかもしれない。
「お疲れ様、無事に帰ってきてくれてわたしゃ嬉しいよ」
そう言ってテーブルに置いたのはガラスのコップに入ったプリン。プラスチックとかじゃなくてコップに入っているから高いものなのだろうなと思える。
「食べていいの?」
だから少年は遠慮しているのか、そんなことをいちいち言う。
「良いに決まってるだろ。さあ早く食べな、あの子らに見つかると厄介なんだよ」
おばばはニッと笑っている。
少年はスプーンを手に取り、コップに入った高そうなプリンをすくった。それを口にもっていって食べた。すると少年の顔が笑顔になった。
食べ物は人を笑顔にするとはこのことだろうか。美味しいものを食べたとき嬉しくなるのは何故だろう、よくある定番の物でも誰かが作ってくれたら美味しく感じるのは何故だろう。それはきっと作っている最中に美味しくなあれとおまじないをしているからだ、パッパッと美味しくなる粉を振りかけているからだ。そう思ったほうがなんだか夢がある。
「美味しいねこれ」
「そりゃそうさ、有名なお店のプリンだからね。有名店にはハズレはないんだよ」
おばばは少年の笑顔を見てほっとして力をぬいた。
「そういえば雨止んだんだね」
「あんなに涙を流すってこと余程嫌なことがあったんだろうね」
おばばは雨のことを涙で例えた。夢の中の涙は塔の中を流れる滝になっていた。その二つはなんだか似ているようなそうじゃないような。
「嫌なこと?」
「争いとか、自然破壊とか、共存できないこの世界に嫌気がさしたのかもしれないね」
だから泣いた、思い切り泣いて土砂降りの雨となった。
雨とは人間に対する警告なのか? そんなことを思わず考えてしまう。雨とは空から水滴が落ちてくる天候のことをいうのだがそんな現実的なことはいらないのだ。面白くないのだ。
「でもさ涙って悲しい時にだけ流すものじゃないよ。嬉しい時に流す涙もあるよ」
「そこに気づくとは偉いね」
「偉くないよ」
「素直に喜びなよ、まだ子どもなんだからさ」
「ユミちゃんとシュウ君がいるし少しは大人ぶらないとね」
「良いお兄ちゃんじゃないか。でも無理はいけないよ」
「無理はするもんだよ、ほどほどにね」
少年はコップに入った高そうなプリンをペロリと食べるとごちそうさまでしたと言ってからどこかへ歩いて行った。
歩いて行った場所には池がった、ドアもあった。
天井が高いこの場所は上を見れば鳥達が飛び交っている。カアカア、ピヨピヨ、チュンチュン、色んな声が聞こえてくる。
池にはワニが数匹いた。少年と目が合ったそのうちの一匹が、口を開けながら水から出た。
「おかえりなさい! 背中に乗りますか?」
ワニは少年に喋りかけてきた。
「いやいいよ、君濡れてるじゃん。そんなとこに乗ったら服が濡れてしまうから」
「そんなこと言わずにさあさあ! 服なんて乾かせばどうにでもなります」
「僕今帰ってきたところでちょっと疲れているんだけど」
「そんなこと言わずにさあさあ! ご主人様はお若いからまだまだ体力余ってるはず」
「まあ最近君に乗ってジャングルを冒険していないけどさ」
「今から行きますか? 善は急げですよ!」
「断っても君はしつこいよね、だからジャングルに行くよ」
「おお行きますか! じゃあ早速出発しましょう!」
するとワニはお前たちも着いて来いと他のワニに言った。すると池の中から次々とワニが出てきた。
その様子を見ていたおばばは、気を付けて行くんだよと少年に言った。少年は振り向いて、ユミちゃんとシュウ君が来たら用事で出かけたと言っといてねと頼んだ。
この大きな大きな家のご主人様である少年は、多種多様な生き物たちのお世話もしっかりとする。お世話といってもご飯をあげたりわざわざしない、フンの処理も勿論しない、お話したりどこかへ一緒に行ったり遊んだりするのだ。
少年はワニの背中に跨ったまま外へと通じるドアを閉めた。
一人残されたおばばは池の真ん中にあるドアをじっと見つめる。何かを考えているのか腕を組んだ。しかしそれもすぐに終わって何事も無かったようにまたソファーに座った。
読みかけの雑誌を手に取ってページを捲る。
さて読もうかと思った時、遠くから元気のいい足音が鳴った。元気のいい声も聞こえてくる。お兄ちゃん帰ってきたかな、さっき約束したから遊んでもらうんだー。
おばばは雑誌をマガジンラックに戻した。
「さてと、あの子たちのお世話は私の役目だね」
おばばはニっと笑って二人がやって来るのを待ち構える。
子どもたちはいつだって元気だ、体中元気が走っているから元気なのだ。だから元気がなくなると急に疲れて眠くなってしまう。可愛い顔して眠るのさ、だから起こさないようにそっと寝かせてやるのさ。
おばばにとっては大変な時間の始まりなのだった。
☆水が流れる塔 おわり☆




