じゅうに
階段を上りきりヤツの後ろ姿が見えて怒りがこみ上げたプリンツは、ヤツへと飛んで行って鋭い爪で憎たらしいその顔に引っ掻き傷を付けた。
突然のことでヤツはびっくりして情けない声を出した。
少年は遅れて上りきった。肩で息をしている。
長い長い螺旋階段を上りきった先にあったのはお姫様の部屋。
高そうな家具たちはどれも白色で統一されていて清潔感がある。しかしその白は今、赤に染まっている。赤が床を流れている、赤が壁や家具に飛び散っている、赤がお姫様から流れている。
お姫様は真っ赤なドレスを着て、虚ろな目をして座っている。
「……お姫様? 何があったのニャ?」
プリンツはヤツへと敵意を向けていたが、視界に入ったお姫様に驚きそれどころではなくなる。
お姫様は真っ赤なドレスを着て、胸の辺りから赤いものを流していた。その赤いものは床へと流れ、床から階段へと流れ、そして滝となって落ちて行っている。
そんなに流れたら体の中にある赤が全部無くなってしまう、そうなったらお姫様はどうなる? プリンツは震えていた。
「痛いなあ、せっかくお別れを言っていたのに雰囲気壊すなよ」
ヤツからも赤が流れている。頬に流れるその赤はついさっき引っ掻かれてできたものだ。
プリンツはヤツの声が聞こえないのか、返事も何もせずにただお姫様を見ていた。床に流れる赤が足に付いても気にしない。
「あれ、ひょっとして無視? 無視されんのが一番ムカつくんだよね」
そう言ったヤツは思い切りプリンツを蹴りあげた。お姫様のことで頭がいっぱいになっていたプリンツは勿論避けることなどできなかった。突然お腹に走った衝撃、わけがわからないまま宙へと浮いて床へと落ちた。
嫌な音が部屋に響いた。少年はプリンツへと駆け寄った。
「おい、大丈夫か!」
「……」
しかし反応はなかった。少年はプリンツの口元に耳を近づけた。すると息はしていた。どうやら無事のようだ。少年は急いで掌を広げた。すると手が光った。
「お前酷いヤツだな、お姫様だけじゃ物足りなくて猫にまでこんなこと」
少年はヤツを睨んだ。睨まれたヤツはそんなこと気にせずにニコニコといつも通り笑っていた。
「ソレハ俺ノコトヲ言ッテイルノカ? それとも僕のことかな?」
ヤツは黒々しい姿で怪しく目を光らせニヤリと大きい口は笑っていた。かと思えば爽やかな男の姿で冷静に笑っていた。
この夢を悪に染めようとするものと、お姫様の心を揺れ動かしている男の幻がチカチカと入れ替わっている。
「どっちもだよ。夢に現れた悪いものは全部敵だから」
そう言いながら少年はお姫様も気にする。あんなに赤いものを流して大丈夫だろうか。びっくりして起きてしまわないだろうか。そうなってもおかしくない状況だ。
「僕は悪なの? こんなに良い人なのに。馬鹿ナヤツニハ俺ガ必要ナンダヨ!」
チカチカしている。どっちも笑っている。
「良い人ぶって近づいて心を滅茶苦茶にしてさようなら。酷いね、人間がすることじゃない」
ごーごー、音が聞こえてくる。これはお姫様から流れ出た赤の音だ。
「俺ハコノ男ガ怖イトサエ思エテクル、悪魔ナノカモシレナイ。僕は人間だよ、ほら人の姿をしているでしょ?」
チカチカしている。それはまるでこの男の表と裏みたいだ。
「あのさ、それやめてよ。目が悪くなりそうだから」
「やめられないよ? だって幸せから落ちるのは見ていて楽しいでしょ」
「僕にはわからないな。人を傷つけたら心が痛まないのかな」
「心ナンテ関係ナイ、勝ツカ負ケルシかナインダヨコノ世界ハ」
「お前は人の夢が住処だもんな。でもなーそれで苦しむ人もいるんだよ」
「苦しいのかい? じゃあ目を閉じて休めばいいよ、ほらそこの猫みたいにさ」
「本物のお前もこんな感じなのか? こんなやつ野放しにしといていいのか」
「人ヲ苦シメルノハ俺達ダケジャナイ。ダカラ俺達ガ疎マレル理由ナドナイ」
「そうかもしれない、悪い夢は外での影響が強くてできているのだから。そうやって生み出されたマイナスの塊がお前だ」
「ふふふ、理解してくれるのかな。物わかりが早いと気持ちいよね、苛々しなくて済むからさ」
「そんなお前らを夢から追い出すのが僕の役目。理解はするけどだからって見過ごすことはできない」
「ソウヤッテ人間ハイツモ自分ガ正シイト勘違イスル。俺ハソウイウトコロガ嫌イナンダヨ」
「嫌ってくれていいよ、そのほうが倒しやすい」
「ここで少年に救われても僕からは逃げる事なんてできないよ。外にはお姫様と猫だけ、少年は助けに来られないだろ? ふふふ、楽しい時間はまだまだ続くんだよ」
ヤツはチカチカしながら笑っている。ヤツはチカチカしながら笑い声を出した。ヤツはチカチカしながら手すりの上に乗った。
「何をしてるんだ?」
少年はヤツのその行動の意図がわからない。
「もう十分だ。少年には与えられた力がある、その力の前ではどうやら僕は負けるらしい。だからもう降参してやるよ」
「え?」
「首をかしげることなんてないよ。勝てない勝負なんて時間と労力の無駄だろ。だから負けを認めてやる、負け犬は遠吠えをあげて素直に帰るよ」
その表情は敗者の姿ではなかった。
「……まあ、そっちがそれでいいなら。悪い夢からも解放されるし」
少年はなるべく争いたくない。それは夢を見ている人に負担がかかるからだ。怖い夢を見て、起きたらなんだか疲れたような気がしたことはないだろうか。それと同じことだ。
「物わかりが早いね、ふふふ。じゃあまあ、お姫様と猫のことは任せたからね」
「お前が滅茶苦茶にしたけどな」
「それをどうにかするのが少年の役目だろ? 人にはそれぞれの役目があるんだよ」
「お前は人を傷つけるのが役目か」
「ふふふ、じゃあ負け犬はさっさとこの夢から出ていくよ」
そう笑顔で振り向き、そのまま両手を横に伸ばして落ちて行った。
下は水が溜まっている。勢いよく落ちてそこに当たるとどうなるのか、ばしゃんという水に当たった音が聞こえたかもしれないがごーごーという音がかき消す。
プリンツの目はまだ開かない。しかしもう大丈夫そうだ、それよりもお姫様が心配だ。
少年はお姫様へと駆け寄る。
もう遅いのかもしれない。回復をするのならプリンツではなくお姫様だった。そのことに気づかずに今更やっても遅いだろうか。
赤いものが流れ出ている個所に手を近づけて広げる。
お姫様は虚ろな目で口を閉じていて、呼吸は……。口元に耳を近づけるのが怖い。
赤く染まったお姫様、赤く染まった家具たち、この塔を流れる赤い滝。
下の様子を確認したい。もうすぐそこまで水はやってきているだろう、やがてこの塔を全て飲み込むだろう。
水はこの塔に来た時からずっと流れ続けていた。その時は今みたいに赤ではなかった。
あの水はいったい何だったんだ?
少年は考えながら赤の流れを止めるために頑張っている。しかし止まることは無く、お姫様の目は虚ろのままだ。
助けられなかったのか? しかしこの夢を悪に染めようとしていたものはもういない。こういう場合どうなるのだろう、成功なのか失敗なのか。
そんなの考えなくてもわかる。いくら悪いものを追い出せたとしても、この夢を見ているお姫様の心を癒したわけにはならない。
焦りが少年のなかに現れてきそうになった時、ニャーという声が聞こえた。
「……お姫様は……大丈夫なのかニャ?」
力ない声で、這いつくばりながらプリンツは少年のほうへとやって来る。
「僕の判断ミスで回復したのが遅れてしまった。ごめん」
少年は俯きながらそう言った。
「……ごめんはいらニャい……少年は悪くないのニャ……」
プリンツは笑っていた。しかしその表情を少年は見ていない。
「今全力で回復している。絶対に助けたい」
少年の両手は光っていた。力を使えばお姫様の負担になる、しかしこのままこの夢を終わらすわけにはいかない。判断ミスをしたその責任をどうにか返したい、それよりもお姫様の笑顔が見たい。
赤いものはいっぱい流れているけど、目は虚ろで口は紫になっているけど、ここは夢だから何が起こってもおかしくはない。何かを起こせるのはお姫様だけ、まだこの夢を見ているお姫様だけ。
少年は力を使えても夢を操るなんてことはできない。この夢はお姫様のもの、少年のものではないのだ。
お姫様の心がまだここにいたら、悪い夢に負けていなかったら、その時はこの夢に何か起こるだろう。その何かを知る者は誰一人としていない。
「……お姫様! 僕が……来たのニャ……」
プリンツの体は赤くなっていた。赤いものが流れている床を這いつくばりながら移動したからだ。しかしそんなことは気にしていない、今気になるのはお姫様のことだけだ。
大好きなお姫様、お姫様を守るプリンツ、人間と猫だけど心は繋がっている。しかしそれはヤツによって引き裂かれた。お姫様は心を支配されてしまった、いくらひき止めるために大声を出してもそれはニャーニャーとただ鳴いてるだけにしか聞こえない。お姫様には猫の言葉がわからない、それを不自由だと思ったことは何回もあった。
しかしそれはお姫様のことが好きになったときから覚悟していたこと。そんなことでめげない、挫けない、だから例えニャーニャーとしか聞こえなくても鳴き続けるしかない。それでもヤツのところへ行ってしまう、いつか気づいてほしい手遅れになるまえに目をさましてほしい。そう何回も祈った。
プリンツはどんな時でもお姫様と一緒。お姫様が泣いているとき、怒っているとき、悲しいとき、笑っているとき、楽しそうなとき。どれもがかけがえのないものなのだ。
ごーごーという音が聞こえてくる。ごーごーという音は大きくなっていく。ごーごーという音は少年とプリンツとお姫様を飲み込むために急迫してくる。
紫へと色をかえた水は階段を全て飲み込んだ。残るはお姫様の部屋だけだ。
お姫様の部屋に水が入ってくる。床が浸水してくる。少年は両手を光らせる、お姫様は虚ろな目のまま動かない、プリンツはニャーと鳴く。
水の流れは止まらない。水位は上がり続けて、足が浸かり腰が浸かりお腹が浸かり肩が浸かった。プリンツは少年の頭の上に避難する。
「もうおしまいニャ……この塔はもうすぐ水でいっぱいになるのニャ。そうなったら息ができニャい、少しは耐えられるけどそのうち苦しくニャる、そして溺れてしまう」
こんなに弱気なプリンツは初めて見たような気がする。
そうなるのも無理はない、少年の首のあたりまで水位は上がっているのだから。
「諦めんなよ! お姫様を助けるんだろ!」
少年はお姫様の口と鼻を水につけないようにしている。赤いドレスは水の中を優雅に漂っている。
「僕は水が苦手なのニャ……お姫様と出会ったあの日は雨が降っていたのニャ、あの時僕は水に体力を奪われて倒れてしまったのニャ」
プリンツが喋っている間にも水中は上がり続ける。少年の顎あたりまで水がきた。
「あの時助けてくれたのはお姫様、でも今お姫様は全く動かないのニャ。だから助けてはくれないのニャ。……ねえお姫様? 今度は僕が助ける番だよニャ」
プリンツが喋っている間にも水位は上がり続ける。少年の口元あたりまで水がきた。
そして鼻を、おでこを、少年は水の中に飲み込まれた。お姫様がはなれないように少年は手を繋いでいる。
プリンツは少年の頭の上に乗りながら大きく息を吸った。水は止まることなく全てを飲み込んだ。




