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悪い夢の時間  作者: ネガティブ
水が流れる塔
32/72

じゅう

 掌の上に乗せられたプリンツは、何故自分がそこにいるのかわかっていないようだった。それにこの階段は無限階段と言っていたはずなのに、少年は何故急に上り始めたのだろう。

「急にどうしたのニャ! 上っても意味無かったんじゃないのかニャ!」

 プリンツはそうきくが少年は答えてくれない、階段を上るのに必死でそれどころではないのだ。黙っていては何もわからニャいとは言わずに、プリンツはキョロキョロと辺りを見る。

 目の前には息を切らして階段を上っている少年、螺旋状になっている階段が上にも下にもある、塔の真ん中には音を鳴らしながら水が上から下へと落ちている滝がある。何もかわったところはない、さっきと何もかわらない。

「急にどうしたのニャ? 教えてほしいのニャ!」

 もう一度きいた。すると少年は息を切らしながら、空いていた手で人指し指を立てて滝の方を指す。プリンツはその指が指し示すところを辿った。するとそこには迫り来る水があった。

 穴から溢れたのか、塔の下のほうは水が浸かっている。その水位は上がってきていて、窓も出入口もないこの塔に水の逃げ道などない。水は少年とプリンツを追いかけるように、螺旋階段を浸水させながら迫ってくる。

 それに気付いた少年はプリンツとともに階段を上っている。今はとにかく迫り来る水から逃げるしかないのだ。

「無限階段を……登りきることができたら……いいんだけど……」

 そうしなければいずれ水に飲み込まれてしまう。無限に続いているとはいえ上っているのは同じところだ、だとしたらやはり上ったところで意味などない。無限階段を終わりにしない限り進めない。

「それなら上っても意味ないニャ! どうすれば良いのか考えよう、とりあえず上るのをやめるニャ!」

 プリンツは掌の上で必死に叫ぶ。少年は焦っている、冷静ではない状態だ、だから僕が止めるしかニャいと。

 すると少年は素直に言うことを聞いた。息を切らして立ち止まり、下を覗きこむ。水が上がってきている、迫ってきている、飲み込もうとしている。水の中では人間も猫も自由を奪われる、例え泳ぎが上手な人だって息が続かなくなる。やがて苦しくなる、呼吸をしたくなる。

「無限階段を……ぶっ壊すことができたら、そうしたら……お姫様を助けられるし、水からも逃げられるんだけどね」

 それがわからないから考えている、焦っている。しかしゆっくりと考える時間などない。制限時間はあり、それが過ぎたら水に飲み込まれて溺れ死ぬだろう。そうなったら少年は強制的にこのゆめからさようなら、お姫様を助けることができなくなってこの夢を悪に染めたいヤツは憎たらしいほどの笑顔で祝杯をあげるだろう。

 それだけは避けなければならない、少年には失敗など許されない。夢の中で起こる様々な出来事を掻い潜り、悪い夢から開放しなければならない。悪夢に魘されるのは心も体も疲れる、だから少年が助けるしかない。

「お姫様を助けたいニャ! あんな最低なやつからお姫様の心を取り戻したいニャ!」

 プリンツは可愛い声で叫んだ。この声がお姫様に届いてくれたらいいのだけど、少年はそう思いながら見上げた。そこには滝があって、階段が続いていた。ゴールなど見えない、無限階段によって誤魔化されているのだ。

「そうやってお姫様への思いを叫んだらどうにかならないかな?」

「ヤツに心を奪われていても、僕の声を聞いたらきっと我にかえってくれるのニャ!」

 お姫様は僕を助けてくれた、お姫様が落ち込んでるときは僕がその心を癒した、僕とお姫様はかたい絆で結ばれているのニャ。プリンツの表情はきりっと男前になっていた。

 少年はその表情を見てニッと笑った。野良猫だったプリンツに助けられたお姫様、お姫様を助けようと雨の中に飛び込んで行って体力が奪われ意識が遠のいていくところを助けられたプリンツ、プリンツが目覚ますとそこにはお姫様がいた。一人と一匹は人と猫という、飼い主とペットという関係を突き破るほどの愛がある。だから絶対にこの夢から悪を追い払わなくてはならない、お姫様とプリンツの幸せな時間を取り戻さなくてはならない。

 悪い夢が幸せを壊す。悪い夢が時を奪う。悪い夢が心を奪う。

 少年はプリンツを持ち上げた。いきなりその身が宙に浮いたからびっくりして、何をするニャと牙を見せた。ちょっとでも高い所から叫ぼうよ、少年はプリンツを真上に上げる。

 思い切り叫べばいい、そうしたら上っても上っても終わることが無い無限階段を終わらすことができるかもしれない。ここはお姫様の夢、お姫様の心の変化でどうにだってできてしまう。壁があって進めないときは穴を空ければいい、向こう岸に渡りたいけどジャンプするには怖いって時は壊れない頑丈な端を架ければいい。ここは何でもできる、何でも作れて生み出せて、壊せて消してしまえる。

 プリンツは滝を見た。止まることが無い水はやがて全てを飲み込むのだろうか。

 ごーごー、音が聞こえてくる。

「お姫様! 聞こえますか! 僕はあなたのペットのプリンツニャ!」

 ごーごー、音が聞こえてくる。

「僕はお姫様が大好きなのニャ! どんな時でも一緒にいたいのニャ! 晴れの日だって、雨の日だって、雪の日だって!」

 ごーごー、音が聞こえてくる。

「僕は猫でお姫様は人間、それはわかっているけど僕はお姫様のことが大好きなのニャ! 赤い糸で繋がっているニャ、その糸は何があっても切れるなんてことはないのニャ、心を奪われていたとしてもこの糸だけは切れないのニャ!」

 ごーごー、音が聞こえてくる。

「お姫様、僕らのこの赤い糸を手繰り寄せたらお姫様が来るかニャ? この赤い糸の先にはお姫様がいるのかニャ?」

 ごーごー、音が聞こえてくる。

「会いたいニャ……お姫様に会いたいニャ……」

 ごーごー、音が聞こえてくる。

 滝から飛び散る飛沫がプリンツが流した涙のように見える。

 叫び終えたプリンツは肩で息をしている。力いっぱい、お姫様に声を届けようと頑張ったのだ。少年は階段へと下ろした、するとプリンツは少年の足に顔を擦り付けた。顔を見られたくないのだろう。

 頭を撫でて慰めようと少年は手を伸ばそうとしたが途中で止まった。

 そっとしといたほうが良いだろう、プリンツはお姫様を守るSPなのだから。

 お姫様にプリンツの声は届かなかったのか、とくに何の変化もないように見える。作戦は失敗に終わったのだろうか、少年は落ちないように気を付けながら下を覗き込む。水は確実に迫ってきている、水位はどんどん上がっている。

 少年は滝を見た。止まることが無い水はやがて全てを飲み込むのだろうか。

 すると滝にヤツが映った。

 ヤツは甘いマスクで誰かに喋っている。


『もう誰もここには助けに来ない。君の王子様は僕だけなんだ』


 少年は反射的に握り拳を作った。もう本能がヤツという人間を嫌っているのだろう。ヤツに関わった当事者ではないのにそうなってしまう、じゃあヤツに関わってしまった人たちはどうなるんだ。

 怒りがこみ上げる、許さないと睨みつける、殺意すらも生まれるかもしれない。

 少年はプリンツを見た。するとプリンツはもう足に顔を擦り付けていなかった。

 滝を見ている。滝に映る憎たらしいヤツを見ている。


『皆嘘つきだろう? 口ばっかさ、それなら何でも言える。好きだよ、助けるよ、守るよ。でも実際はそうじゃない、それは君が一番よくわかっていることだよね』


 滝に映っているヤツの顔にイライラする。思い切りあの顔を殴りたい、石でも転がっていたら思い切り投げつけたい。少年もプリンツもそう思っているだろう。

 しかし滝に映るヤツは偽物。夢の中で作られた幻にすぎない。本物は今も外にいることだろう。

 少年は外へは行けない。例えこの夢でヤツを倒したとしてもそれはこの悪い夢を救ったことにしかならない。本当の問題は外にある、そこでは少年の助けは借りられない。自分でどうにかするしかないのだ。


『もういいんじゃないかな、そうやって待っていても誰も助けには来ない。しかし僕はここへとやってきた、それは君のことが本当に大切に思っているからんだよ』


 やめてくれ、嘘ばっかり次から次へと吐き出すんじゃない。嘘は所詮嘘でしかない、本当には到底敵わない。しかしそこに嘘が溢れていたら嘘は本物へと形を変えてしまう。それは間違っている、皆騙されてはならない、目を覚ますんだ自分が騙されているという事を。

 一度広まった嘘は広がり続ける。もう何をやっても遅い、嘘はどこにでも顔を出してそれを消す手段はない。嘘が本当を犯す、嘘が本当を殺す、嘘が本当を食いちぎる、嘘がやがて本当になる、本当がやがて嘘になる。

 皆騙されていることがわからない。皆嘘に犯されて汚されてしまう。


『まだ待つつもりかい? 君は僕が大好きなんだよね、それなら早くその涙を止めてくれよ。泣くことなんてもうない、泣く必要などない、君には僕が必要なのだから、僕から逃れることはできないのだから』


 お姫様が泣いている? それはどういうことニャ、ヤツが泣かしたというのかニャ? 許せないニャ、引っ掻いても噛みついてもこの怒りをおさめることはできないのニャ。

 お姫様は何故あんなヤツが好きなのニャ? 目を覚ましてほしいのニャ、僕が思い切りほっぺたを叩いたらわかってくれるのかニャ。それならいくらでもたたくのニャ、お姫様に痛い思いをさせてしまうけれど助けるためにはしょうがないことなのニャ。

 もう耳を塞いでほしいのニャ、ヤツの言葉に本当なんて何一つないのだからニャ!


『何故僕を拒否する? その理由がわからない。僕は君を誰よりも愛している、だからこそその証を君に残した。今も残っているはずだ、その体に』


 滝に映るヤツは笑った。それを見たプリンツは叫んだ。

 叫び声が響き渡る。しかしそれだけだ、喉が痛くなるだけだ。爪をたてて睨みつけるその姿は見ていられない。少年は目をそらした。

 このまま何もできないのか? このままヤツがお姫様を奪い去る映像を観ることしかできないのか?

 水はもうそこまできている。逃げ道などどこにもない。人も猫も水も、誰も逃げられない。


『何を恥ずかしがっている? 僕と君はもうそういう関係じゃないか。お互いのことをよく知っているじゃないか。一緒に快楽に溺れようではないか』


 プリンツは再び叫んだ。その声は言葉になっていない。

 少年からため息が漏れた。

 プリンツは叫び続ける。喉が枯れてもいい、痛くてもいい、そんなの関係ない。

 少年は悔しくて歯に力を入れた。

 プリンツは叫ぶ、例えお姫様に声が届かなくても。

 少年の瞳が潤んでいる。


『快楽に溺れてしまえば何もかもが馬鹿らしくなるぞ。苦しいこと、辛いこと、悲しいこと、そんなことは快楽が忘れさせてくれる。それは君も知っているだろう?』


 ごーごー、音が聞こえてくる。


『……』


 ごーごー、音が聞こえてくる。


『溺れている君の姿はとても綺麗だ。あの表情を見ることができた僕はとても幸せ者だ。そんな表情を君は見せてくれた、それは僕のことが好きだからだろ?』


 ごーごー、音が聞こえてくる。


『……う』


 ごーごー、音が聞こえてくる。


『なんだい? 小さな声で聞こえないよ。僕を求めているのかな、証を増やしてほしいのかな、僕に聞こえるようにはっきりと言ってみなよ』


 ごーごー、音が聞こえてくる。


『……違う』


 ごーごー、音が聞こえてくる。


『違う? どういう意味だいそれは、まあそんなことはどうでもいい。君は心の底から僕を愛しているんだよね。嬉しいな、やっとわかってくれた。やっと心と心が通じ合ったよ』


 ごーごー、音が聞こえてくる。


『……違う、私は誰の物じゃない』


 ごーごー、音が聞こえなくなった。

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