きゅう
家に帰ってきたお姫様の表情は悪くはなかったのニャ。むしろ明るくて、いつもどおりでびっくりしたのニャ。あんなことがあったのにたいしたやつニャ、怖くてしょうがないだろうに肝が据わっているのニャ。
僕はお姫様へと可愛い声を出して懐くのニャ、するとお姫様は優しく僕の頭を撫でてくれるのニャ。お姫様の膝の上で横になって、撫でて撫でてと甘えるのニャ。
そうするとお姫様は僕に話しかけるのニャ。
「プリンツ、君は甘えん坊だね、よしよし、プリンツは可愛いからメスの猫からもモテるのかな? いいねモテモテだねプリンツ」
僕が可愛いのは持って生まれたものニャ、そこに関しては僕を生むだけ生んでどこかに行った母猫に感謝してやるのニャ。何故母猫は僕を置いてどこかに行ったのか、それは今なら何となくわかるのニャ。
邪魔になった、ただそれだけのことニャ。母猫と愛し合ったはずの父猫は愛すだけ愛してどこかに消えた、母猫はその消えた父猫を捜しに行ったのかそれとも別の雄猫を捜しに行ったのか。
考えても意味のないことニャ。猫は自由気ままニャ、そりゃ自分の子猫には愛情というものはあるのかもしれないけどニャ、それがなくても別に関係なんてないのニャ。子猫を置いていっても何も罰されない、人間の世界では自分の子どもを置いたいったり育児放棄をしたら罪に問われるみたいだけどニャ。猫の世界にそんなめんどくさいことは存在しないのニャ。
だから僕は置いていかれたのかニャ? 人間の世界と同じようなルールが猫の世界にもあったなら僕は母猫に甘えることができたのかニャ? そうなったら気付けば一匹ということもニャかった、何匹かいた兄弟らしき肉片が車にひかれなくてもすんだのかニャ。
「ニャ~」
僕はそんなことを考えていたら、思わず情けなくて弱々しい声を出したのニャ。しまったと思ったのニャ、こんな声を出したらお姫様は気付くのニャ。
「プリンツどうしたの? そんな声を出して」
ほらニャ、お姫様は僕のことになるとほっとけないのニャ。そんな僕はお姫様のことになるとほっておけないのニャ。僕とお姫様は相思相愛なのニャー。
お姫様は僕の背中を優しく撫でながら、私のことを心配してくれているのかな? と僕の顔を覗きこむ。
お姫様の顔が目の前にあるからドキッとしたのニャ。近いニャ! 目の前にあるのニャ! 間近で見るといつもより可愛く思えるのニャ、美しいと感じるのニャ。
「どうしたのプリンツ? そんなに隠したら可愛い顔が見えないよ」
恥ずかしいから隠すんだニャ、覗きこむのやめてほしいのニャ、僕のこの気持ちを伝えることができたならどんなに楽だろうかニャ。
こんなことを考えるのはもう何回目だろうかニャ、何百回何千回何万回と考えてるかもしれないニャ。どんな回数考えようともお姫様とは話すことができない、それはわかっているはずなのにニャ。
「プリンツー……ちょっと抱きしめさせてー」
すると僕は持ち上げられたのニャ。そしてお姫様の目の前にきたのニャ。口がもぞもぞと動いていて、何か言いたいような感じがしたけれど、結局何も言わなくて僕を胸元にもってきて抱きしめたのニャ。
なんだか柔らかいのニャ、そして良いにおいなのニャ。そんな馬鹿なことを思っていたら、お姫様は声を詰まらせて泣いていたのニャ。
やっぱり怖かった、あの部屋での出来事は誰にも言いたくないし思い出したくもないのニャ。何故言いたくないのか、それはお姫様のお父さんやお母さんにあの事を言うときっと動揺しするのニャ。動揺しない親なんかいないのニャ、あんなことをされてあの男を憎くてしょうがなくならない親ニャんて。
ピリリリ、その時音が鳴ったのニャ。僕を抱きしめていたお姫様は突然鳴り響いた音に体をビクッとさせたのニャ。僕は音が鳴り響いたほうへと顔を動かしたのニャ、そこにはお姫様のスマートフォンがあったのニャ。
お姫様はスマートフォンには手を伸ばさない、怯えていたのニャ。その様子で僕は嫌な予感がした。さっきの音はメールか電話か、どっちでもいいけどその相手はきっとあの男なのニャ。だから怯えてるのニャ。
「プリンツ……どうしよう、私怖いよ」
無視すればいいのニャ、あんな最低なやつに構うことなんてないのニャ。心が傷付いてまだそれは癒えていないけど、今すぐお父さんとお母さんにあの男にされたことを言うのニャ。
それを聞いて動揺するだろうけど、心配をかけてしまうだろうけど、あんなやつを野放しにしてはいけないのニャ。だからニャ、怖がらないようにこれまで以上に僕はお姫様を守るのニャ。
僕のその思いはちゃんと伝わるのか、そうなってほしいと願ったけれどお姫様は手を伸ばした。僕は必死で止めようとしたけどできなかった。お姫様の顔は何故か笑っているのニャ。
どうして笑っているのかニャ? 僕にはお姫様の気持ちがわからないのニャ、今何を考えているのか何故わざわざあの男に自ら近付かのか。人間というのは酷いことをされても、それでも相手を許せるのかニャ?
お姫様はスマートフォンを見ているのニャ。片手で操作をしていて、もう片方の手は僕を抱いている。だから動くことができない、スマートフォンを取り上げることができない。
僕がスマートフォンを睨んでいると、お姫様は画面を見て笑っていた。画面にはいったい何が表示されているのニャ? 僕に教えてほしいニャ、お願いだから教えてほしいニャ。
プルルル、その時音が鳴り響いたのニャ。お姫様はビックリして思わずスマートフォンを床に落とした。落ちたから画面が見えたのニャ、そこには漢字と数字とあの男の顔があったのニャ。
お姫様は床へと手を伸ばしたのニャ。今から何をするのニャ、電話をするなんてことはしないよニャ、あんなことをされたのに関わるなんてことはしないよニャ。
「……もしもし」
ニャんで電話をするの? 僕にはわからない、お姫様が何を考えているのかわからない。頭の中を覗くことができたらお姫様の考えていることがわかるのかニャ、それニャら覗きたい今すぐに手遅れになるまえに。
「……ううん、びっくりしたけど、怖かったけど……うん、うん」
僕は何もできないのニャ、いくらお姫様のことを守ると決意しても猫である僕は蚊帳の外なのニャ。人間には敵わニャい、あの男の顔をこの爪で引っ掻いてやりたい、でもそれは叶わない。僕の頭の中でだけしかあの男に傷を付けられニャい。
「いいよもう、怖かったけど……うん、うん。私のことを好きなんだよね?」
お姫様は傷つけられたのニャ、しかしあの男は心を自由自在に操っているのニャ。怖がらせ、時間を置いて、そして優しい声で離れられなくする。
お姫様は笑顔なのニャ。あんなことをされたのに、それがまるで初めから無かったみたいに、何事もなく部屋から飛び出して行ったのニャ。
僕は暫くその場から動くことができニャかった。
◇
ごーごー、音が聞こえてくる。
少年は膝の上にプリンツを乗せながら話を聞いている。プリンツは少年の膝の上に乗りながら話をしている。
少年は何か考えているような顔をしているが、少年にはこのお話は少し早いのかもしれない。だからプリンツのお話は何かの物語のような、まるで映画のようなドラマのような、そのように思っているだろう。
プリンツは少年の膝の上で寛いでいる。そんなにゆっくりはしていられない状況なのだが。
「ねえプリンツ、そのあともお姫様は男と会ったの? 酷いことをされたのに」
ごーごー、音が聞こえてくる。
「そうニャ。お姫様にとってあの男は麻薬みたいなもの、一度手を出したらなかなか離れられないのニャ」
「そんな……じゃあお姫様の心は? 表情は?」
「心は見ることができニャいからどんな状態なのか確認できないけど、きっとズタズタに傷ついているのニャ」
プリンツは膝の上で爪を出して、男への憎しみをあらわす。
「表情は相変わらず明るかったのニャ。明るいことは良いことニャんだけど、素直に喜べニャいし少し怖かったのニャ」
「怖い? お姫様は明るいのに」
「心が傷付いているのに笑顔、あの男にあんなことをされたのに笑顔、何をされてもお姫様は笑顔なのニャ」
ごーごー、音が聞こえてくる。
「麻薬みたいな男……」
「そうニャ、中毒性があるのニャ、心が求めるのニャ体が求めるのニャ、それがないと心も体もおかしくニャる」
「……」
「摂取しニャいといけない、摂取しろと心と体が欲している、摂取できないでいるとイライラして自分をコントロールできなくニャる」
「麻薬というのは怖いね。人の心も体も、精神すらも奪ってしまう」
「だから手を出したらいけニャい、手を出したら落ちるところまで落ちていくのニャ」
「そんなものにお姫様は手を出してしまった。中毒性はとてつもなく強い」
「僕にはお姫様を止めることができないのニャ。僕はお姫様の心も体も精神も癒すことができないのニャ」
プリンツは少年の膝の上で歯を食い縛っている。悔しい思いは男へとぶつけたい、しかし相手は人間で猫には太刀打ちできない。
ごーごー、音が聞こえてくる。
「ねえ、さっきから音が聞こえない?」
「それは水の流れる音ニャ、何を今更言うのニャ」
「いやそういうことじゃなくて、音がおかしいっていうか」
「おかしい? 気のせいじゃないのかニャ」
プリンツは水の音に気にしていないようだが、少年は気にしている。
少年はプリンツを膝の上に乗せたまま、上から下へと流れ落ちている滝を見た。しかしとくに変化などはなくて、少年の聞き間違いだったのではないだろうか。
すると少年は落ちないように気を付けながら覗きこんだ。下を見るとそこには水があった。草木や花が生え、自然が溢れていたところは水に浸かっていた。
何故水が? 水は穴へと吸い込まれていったはずだ。水の流れを止めることができない、水が迫り出している、このままではやがて水は……。
少年はプリンツを掌に乗せて、急いで階段を上りはじめた。




