なな
「ゴミ箱には何があったの?」
「薬が入っていたであろう透明の袋ニャ」
「……薬って」
さっきプリンツは高級品の餌を食べた後に眠たくなったと言っていた。それは高級な餌を食べたことによる幸せが全身を満たしたことによるものではないのか。もしかしてゴミ箱にあった薬が使われていたのか。そうだとしたら意図的に眠らされたということになる。
何故そんな事をする。何故プリンツを眠らせておく必要がある。
瞼が重くなっていき、狭くなっていく視界で捉えた二人の幸せそうな笑顔。その笑顔が何だか怖い。
「僕は何も入っていない透明の袋を見たとき、頭にビビビと衝撃が走ったのニャ」
「衝撃……」
「難しい顔をしていたニャ? きっとその考え事と同じようなことが僕の頭にも走ったのニャ。そんなことは考えたくはない、そんなことは嘘であってほしい、そう思っても願っても疑いは消えないのニャ」
お姫様の彼氏様の笑顔は本物ではなかったという事だ。その笑顔は作り物で、本当はどんな表情をしていたのだろうか。考えるだけで怖くなってくる。
何故そんなことをする? それが一番の難題だ。プリンツを眠らせることに、作り物の笑顔を見せることにいったい何の意味があるのだろう。
ゴミ箱に向かってパンチをしたプリンツ。当たりが弱かったのか初めから力を入れなかったのか、ゴミ箱は倒れることなくそこに堂々と立っている。
プリンツは何事も無かったかのように歩いていく。そして一度も振り返ることなくこの部屋から出て行った。次に進むという事だ。
僕もこの部屋を出た。歩きながら僕は振り向いた。
するとこの部屋の何処かから声が聞こえたような気がする、お姫様と彼氏様の声が。その声は悲鳴と笑い声だった。
思わず立ち止まる僕。今の声はいったい何なんだ?
あのフカフカの椅子に座ってゆっくり考えたいけど先に進まねばならない。僕は前を向いた。プリンツはもう少し上っていた。
でもまだ大丈夫、全然追いつける。それに僕が遅いから体を舐めながら待ってくれている。
「遅いニャ! 先は長いからゆっくりなんてしていられないのニャ!」
その通り、まだ先は長い。見上げても階段がぐるぐるしているだけでゴールなんて見えない。
「ごめんごめん」
悲鳴と笑い声が聞こえたことは言うべきだろう。ひょっとしたらそのことはもう知っているかもしれないけれど。
知っているのならプリンツはどう思うのだろう。あの二つの声は正反対だ。お姫様の声は何かに怯えて、誰かに助けを求めていたものだ。一方彼氏様の声はこの上ない喜びで満ちていて楽しくてしょうがないというものだ。
「さあ追いついたことだし上るかニャ」
「うん、上っていたらそのうち着くし」
それはこの階段が無限に続くものではなかったらの話だが。
ここは夢の中だ、夢の中ではどんなことでも起きてしまう。それが夢というやつだ。さっきから上り続けているこの階段が無限だとしたら終わりはない。オランダの画家であるマウリッツ・コルネリス・エッシャーは建築不可能な構造物や、無限を有限のなかに閉じ込めたもの、平面を次々と変化するパターンで埋め尽くしたものなど非常に独創的な作品を作り上げた。
エッシャーの作品で有名なのがペンローズの階段。それは無限に上り続け下り続ける。今僕とプリンツが上っているこの階段もそれと同じなら、終わりなんて永遠に来ない。
しかしここは何でもありの夢である、だから例え無限に続いていたとしてもそれを壊すことができる。無限を壊す、繰り返しを壊す、壊して新たな道を作ることができる。
僕にはそれをやる力がある。しかしこの夢を見ている人、つまりお姫様に影響が及ぶ可能性がある。僕はお姫様が作り出したものではない、この夢にお邪魔しているだけにすぎない。だから言うなれば部外者なのだ。その部外者が力を使えば使うほど負担になる。だってそれはこの夢で生み出されたものではいからだ。
だからこの夢を見ているお姫様に頼るのが一番だけど、残念ながら今ここにお姫様はいない。お姫様は上で待っているのだろうか。
「それにしてもおかしいのニャ」
プリンツは何かにおかしいと感じたようだ。
「どうしたの?」
僕は何についておかしいのか知りたい。
「こんなに長かったかニャと思って」
「えっ」
「この塔はそんなに高くはないのニャ。だからこんなに上ったらさすがにお姫様の部屋に着くはずなのニャ」
「塔が高くなっているの?」
「どうやらそうみたいだニャ。何故そんなことになったのかわからいけどニャ、今どのあたりで何処まで上ったのか残りはあとどれぐらいあるのかサッパリわからないのニャ」
僕は足を止めた。するとプリンツの足も止まった。
この塔はやはり無限階段なのだろうか。もしそうだとしたならこうやって上っていても意味がない。いつまでもゴールにはたどり着けなくてやがて朝がやってきて起きてしまう。
起きてしまったらもう僕は何もできなくなる。その時はヤツの勝ちだ。この夢を悪に染めようとしているヤツの。
「どうしたのかニャ? 塔が高くなったのなら休憩している暇はないはずニャ」
「いや上っても意味は無い」
「お姫様を助けないのかニャ? それとも足が棒のように固くなってもう動けないのかニャ?」
「お姫様は助けるよ、でもこの階段をいくら上っても意味は無い」
「助けるけど上らないのニャ、お前頭大丈夫かニャ。言ってることが滅茶苦茶なのニャ」
プリンツが呆れたような目でこっちを見てくる。そんな目をしていても可愛いけど。
「プリンツに聞いてほしいことがある」
「何なのニャ? 告白されても嬉しくはないのニャ、僕が好きなのはお姫様だけなのニャ」
「そうじゃないよ、この階段のことだよ」
「階段ニャ?」
「そう、この階段は無限に続いているのかもしれない。そうだとしたら上っても意味は無い」
「無限階段ということかニャ?」
「そういうこと」
プリンツは目を大きく見開いていた。驚いているようだ。
僕はその場に座って滝を眺めた。相変わらず凄い水量で流れている、あんなところに飛び込んだら一気に下まで落ちてしまいそうだ。下は穴が空いている、そこに勢いよく流れている水が落ちている。
ごーごー、音が聞こえてくる。
「この先何も考えずに上っていくとしよう。そうすればまた開けた場所にお姫様の記憶で出来上がった何かが現れる。それを見て行って僕はお姫様の事を知れる、それはそれでいい。でもきっとお姫様にはたどり着けない、無限階段では進むことはできない」
「……そんニャ」
「プリンツはお姫様の事を知っている。それなら教えてくれないかな? そのほうが早そうだし。それにわざわざ嫌な思い出を見たくはないでしょ。見るのと思い出すのはダメージが違うだろうし」
「……」
プリンツは黙ってしまった。
「焦らなくてもいいよ、見るよりはマシだろうけど思い出すのもまた辛いから」
外はまだ夜だ、朝はまだまだ遠い。時間ならたっぷりある。
「お前ひょっとしていいヤツかニャ?」
「良い奴だよ、そうじゃないとこんなことしない」
「こんなこととはどういうことかニャ」
「……誰かの夢にお邪魔して悪を倒すっていうのかな」
「お前そんなことをしているのかニャ! まだ子どもなのに偉いのニャ」
「あれ、僕がそんなことしてるの言ってなかったっけ」
「言ったかニャ? 忘れちゃったのニャ。でもまあそんな細かいことは気にしなくてもいいのニャ、今それを知れたから良いのニャ」
「あっそう」
「何でお前はそんなことをしているのニャ? とっても気になるのニャ、教えてほしいのニャ」
「いや、それは……」
あんまりこういうのは言いたくない。言ったところで何がどうなるってわけでもないから。
「その顔は言いたくないのかニャ」
「まあね」
「そっか、教えてほしかったけど残念なのニャ。でも我慢するのニャ、誰しも言いたくないことは有るからニャ。秘密というやつかニャ、隠し事というやつかニャ」
「そう言ってくれてありがたいよ」
「いやいや、相手を気遣うのは当たり前のことなのニャ。僕は人間にはとてもお世話になっているから余計にそう思うのニャ」
「なんだか人間らしい猫だなー」
「人間ではないニャ、僕は可愛い猫ニャ! 人間は猫に夢中ニャ、猫カフェというものがあって人間が癒されに来るということは知っているのニャ」
「よく知っているね」
「お姫様とよくテレビを見るからニャ、人間にどんなものが流行っているのかはチェックしているのニャ」
プリンツは元気そうだ。猫の気遣いができるなんて僕は偉いなー。誰か褒めて褒めて。
「あ、それより今更かもしれないけど教えてほしいのニャ」
「なにかな」
「お前の名前は何ていうのニャ? 親しくなったのにいつまでもお前じゃ何だか失礼なのニャ」
「何でもいいよ、好きなように僕のことを呼んでよ」
「それが一番困るのニャー」
「さあ考えて考えて、プリンツは僕のことを何て呼ぶのかなー」
「ニャー」
プリンツは難しい顔で考えている。滝の音をBGMにしながら。
そして何かに閃いたのか僕に向かってとびかかりながら叫んだ。急にこっちに飛んできたからびっくりしたけど、しっかりキャッチしてプリンツをだっこした。
プリンツは僕を少年と呼ぶことにした。よくある呼ばれ方だけどこれが一番しっくりくる。




