ろく
窓からは夜景が見える。この塔には窓なんてなかったはずなのに。
夜景は綺麗だ。色んな光が夜の街を照らしていて、それは人の心を落ち着かせたりムードを演出したりするのだろう。
空から白いものが降っている。これは雪だ。
雪は地上を目指して落ちている。一つだとたいしたことはないけれどそれらが沢山集まると屋根に積もる、道を塞ぐ、白のカーペットになる。
僕は窓から視線をこの部屋へと戻した。
ここは何処だろう、誰かの部屋だというのはわかる。その誰かというのも何となくわかる。
それはお姫様が恋をした相手。アイツしかいない。
生徒と先生という関係を超えてまで付き合っている。さっきまでは学校デートだった。しかしここはどう見ても学校ではない、完全に学校外だ。
ということはつまり、超えてはいけない一線をいよいよ超えるという事になる。
その一線は僕にはまだ難しい問題だ。そのうちわかるようになるだろうけど、まだ今はよくわからない。その存在は勿論知っている。しかし僕にはまだ早い。
僕はそこにあった高そうで座り心地が良さそうな椅子に座った。
予想した通り座り心地は良い、だからあんまりここから離れたくないような気がしてきた。
プリンツは辺りを歩いている。その目つきは鋭い。
ここが何処なのかプリンツは知っているのだろうか、知っているとしたらその鋭い目つきは何を意味しているのだろうか。
プリンツにとって良い場所ならそんな目つきにはならないだろう。プリンツにとって悪い場所だからそんな目つきになるのだろう。
ここは悪い場所。それはプリンツにとって。
ならお姫様にとってここはどういう場所になるのだろうか。良いのか悪いのかどっちだ。
「……ここは嫌な場所なのニャ」
するとプリンツが喋りだした。その声は怒りが溢れているように思える。
「初めここに来た時はびっくりしたニャ、あなたに見せたい人がいるのよとお姫様に連れられてきたのだからニャ」
プリンツはぴょんとジャンプして高そうなテーブルへと飛び乗った。
「ここに来るまでお姫様が話してくれたことは全部どこかのお話だと思っていたのニャ」
「それってお姫様が恋をしたこと?」
「そうニャ、お姫様が話していることは全部どこかのお話だと思っていたニャ。元気になって、美しくなって、人が変わったお姫様のことが信じられなかったのかもしれないのニャ」
なんだかそれは失礼な気がするよとは言えない。
そう思ってしまうのはお姫様が変わってしまったことによる嬉しさと寂しさが拮抗していたからだろうか。
明るくなったことは嬉しい、でも恋人に心が奪われたのは寂しい。
「だから僕がここに連れてこられたのは現実を受け入れろということなのかニャと思って、もうお姫様は僕の手が届かない所まで行ってしまったのだと寂しくなったのニャ」
「いくら恋人のことが好きでも、プリンツはお姫様にとって大切だと思うよ」
「慰めてくれているのかニャ? ありがとうニャ、お前優しいヤツなのニャ。でもそんなことされると僕は惨めなヤツに見えるのニャ」
プリンツは俯いている。尻尾も元気がなく垂れ下がっている。
「ごめん、そんなつもりは」
「わかっているのニャ、気をつかわなくてもいいのニャ。これは僕の問題なのニャ、僕がどうにかするしかないのニャ」
僕が呼ばれたという事は僕の問題でもあるのだけどねとは言えない。
とにかくプリンツは葛藤と戦っていて、その答えや決着がつかないまま強制的に現実を受け入れることになったのだ。それは何だか残酷のような気がする。
そしてここに連れてこられたプリンツは何を見たのだろう。
そもそも何故ここにプリンツは連れてこられたのだろう。
「この部屋で見るお姫様の姿はとても綺麗だったのニャ。まるで女優さんのようニャ、まるでモデルさんのようニャ、もう僕が知っているお姫様はいないのニャ」
人が変わるのはちょっとしたキッカケだったり、大きな出来事だったりする。大なり小なり差はあったとしてもキッカケさえあれば人は変わることができる。
そしてそれまでの自分とは違う全く新しい自分へと変わった時、それは幸となるのか不幸となるのか。
今までの話を聞く限りではお姫様は幸せになっている。
プリンツはお姫様が変わってしまったことによるショックはあるけれど、それは不幸とは言えないだろう。恋人のことで頭がいっぱいでプリンツのことは何も構ってくれない、それなら不幸と言ってもいいのだろうけど。
「僕が勝手に悲しんでいたらお姫様が来てくれたニャ、どうしたの悲しい顔をしてと持ち上げてくれたのニャ。私に彼氏ができた事に嫉妬しているのと見抜かれていたのニャ。僕はこの時凄く恥ずかしくなったのニャ、お姫様に拾われるまで野良だった僕が偉そうに心配して嫉妬までして悲しんで、それをお姫様は見事に見抜いて優しく抱きしめてくれて。プリンツのことも愛しているよと言ってくれたのニャ」
ごーごー、音が聞こえてくる。
「僕が勝手に悲しんでいただけなのにお姫様はごめんと謝ったのニャ。ごめんねプリンツ、プリンツはあの雨の日必死で助けてくれたのにその気持ちを私はわかっていなくて。彼ができて私は変わった、新しい自分になった、世界までもが新しくなったように見えた思えた感じた。学校から帰ってきてプリンツに話すことといえば彼のことばかりだった、それをプリンツはしっかりと聞いてくれていた。彼ができるまでは毎日毎晩、私はプリンツに色んなことを話した。それはどれもこれもネガティブなことだった、自分のことが嫌いこんな世界無くなればいい皆死んじゃえばいい。愚痴をずっと聞いてくれた、毎日毎晩、プリンツだけが聞いてくれた。お姫様の顔は涙と鼻水でぐちゃぐちゃだったのニャ」
自分だけが悲しんでいた、変わっていくお姫様。
愛されていた自分、愛してくれたお姫様。
一匹と一人は、ペットと飼い主という立場を通り越したのかもしれない。
「心が奪われたと思った自分が情けないのニャ、もう構ってもらえないと思った自分が情けないのニャ、気をつかわせてしまって申し訳ないのニャ、綺麗な顔をぐちゃうちゃにさせて申し訳ないのニャ。お姫様は僕の頭を優しく撫でてくれたのニャ、お姫様の彼氏様も優しく撫でてくれたのニャ。僕はこの時思ったのニャ、もう偉そうにあれこれ考えるんなんてことはやめよう、もう普通にどこにでもいるペットとして過ごそう、僕は猫なのニャお姫様に拾われて飼われたペットなのニャ」
プリンツは高そうなテーブルから床へと身軽にジャンプした。
そして歩いた。歩いて行った先には窓があった。その窓から夜景を眺めている。
「お姫様にだっこされながら僕はここからこの夜景を見たのニャ。とても綺麗だったのニャ、この光達は家の光かニャ? お店の光かニャ? 街灯の光かニャ? それらが集まるとこんなにも綺麗になるなんて知らなかったのニャ。それにこんなにも高い所に僕はいたのニャ、なんか箱みたいなものに乗って上に上がったのは覚えているけどこんなにも高い所にいるなんて思わなかったのニャ」
「高い所怖くはなかった?」
「ちょっと怖かったのニャ。僕はこんな所に来たことがないのニャ。人間はこんな高い所に来れるのかニャ? と思わずお姫様を見たのニャ。そうしたらお姫様は、高い所怖いかなゴメンねと僕を窓から遠ざけてくれたのニャ」
「お姫様優しいね」
「感謝しかないのニャ、拾ってくれたし飼ってくれたし愛してくれたし」
プリンツはそう言った後にまたどこかへと歩いていく。
窓から離れ、僕が座っている椅子も通り過ぎ、さっきまでプリンツが乗っていた高そうなテーブルも通り過ぎ、高そうでふかふかしていそうなベッドの辺りで止まった。
ベッドはシワ一つなくて綺麗だ。柔らかそうな枕もある。
「お姫様の彼氏様がお腹空いたでしょとこの水色の餌入れにキャットフードを入れてくれたのニャ。銘柄を見たら高級品だったのニャ、だから僕は興奮して涎が出そうになったのニャ。ゆっくり顔を上げて様子を伺うと、彼氏様は優しい笑顔でどうぞお食べと言ってくれたのニャ。するとお姫様が、こんなに高いものいいの? と言っていたニャ。いいよいいよ、君の大切なプリンツ君のためだもんと彼氏様は言ったのニャ。するとお姫様は僕の傍までやってきて、食べていいよって言ったのニャ」
プリンツは餌も何も入っていないカラの水色の餌入れをつんつんしている。
そしてその場に丸くなった。
「……」
プリンツは何も言わない。
「どうしたの?」
僕は高そうな椅子からベッドのあたりで丸くなったプリンツへと近づく。
腰を下ろして様子を伺う。
「……寝ているのニャ」
「寝ている?」
いやいや起きてるでしょうとツッコミたい。
「僕は高級品の餌を食べてとっても幸せになったのニャ。こんなに美味しいものはこれが最初で最後かニャと思って味わって食べたニャ、お姫様がいつもくれる餌も十分美味しいけれど高級品は目が飛び出そうなぐらい美味しかったのニャ。幸せに満たされていたらなんだか眠たくなったのニャ」
「眠たく?」
「そうニャ、瞼が重たくなったきたのニャ。幸せの中眠れるなんてこの上ない幸せニャ。だから僕はそのまま眠ってしまったのニャ。だんだん狭くなって閉じていく視界の中にはお姫様と彼氏様がいたのニャ、二人とも笑っていたのニャ、とても幸せに見えたのニャ」
丸くなっていたプリンツが突然起き上がった。
そのまま歩いていく。どこに行くのだろうと思って見ていたら、部屋の隅に置かれていたゴミ箱の前で止まった。
僕もそっちへと歩く。
「ここがどうしたの? 中には何もないようだけど」
「あの時はあったのニャ」




