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この夢を悪に染めようとする黒くてマイナスで溢れているヤツが、誰かへと姿と形を変えて上のほうへと昇って行った。
そのまま天へと昇っていてくれたらどんなに楽なことだろうか。しかしそんなに楽にはならないとわかっている。
今からヤツの企みを阻止しなければならない。それが僕の役目、僕に与えられた仕事。
どう見ても子どものの僕が何故こんなことをしているのかはまた別の話。いずれそれはわかると思う、そんな予感が心の奥のほうでする。
とりあえず今はプリンツとお話をしなければならない。
回復は終わった。だから今すぐ動き回れる。動き回るその前に色々と聞いておこう。
「ねえプリンツ。さっきの人を知っているようだったけど」
ヤツが人の姿へと変わった時、プリンツの目つきは鋭くなった。
「ああ知っているニャ、忘れたいけどしっかりと覚えているニャ、僕はアイツのことが大嫌いニャ」
思い出しただけで煮えたぎる何かがあるのだろう、目つきが鋭くなっている。
「アイツは誰なの?」
ごーごー、音が聞こえてくる。それはこの塔の真ん中に流れている滝の音だ。
「アイツはお姫様の心を奪っていった最低なやつニャ」
「心を奪った……」
そんな感じの台詞が有名な泥棒が活躍するアニメ映画があるみたいだ、僕は見たことがないけれど。
ヤツはそのアニメ映画の泥棒みたいに華麗に心を奪っていったのだろうか。
「アイツの話をするまでちょっと長くなるけどいいかニャ?」
プリンツは手足を舐めながらそう言った。
「いいよ、聞かせて」
この夢を見ているのはお姫様だ。黒猫のプリンツの夢かもしれないが、今まで動物の悪い夢にはお邪魔したことがない。だから消去法でお姫様の夢ということになる。
僕はプリンツと目を合わせた。
プリンツは大きく口を開けて欠伸をした。そして話し出した、お姫様のことを。
◇
僕とお姫様の出会いは雨が連日降っていたあの頃ニャ。
湿気が凄くて、ムシムシしていて暑くて、物凄く不快だったことを覚えているニャ。
何にもやる気が出なくて何処かの家の屋根の下で雨宿りの毎日だたニャ。
その家の人が猫好きだったからエサをよくくれたニャ、だから食には困らなかったからそれだけは良かったことニャ。
そしてその日も僕は雨宿りをしていたニャ。
何も考えずに空から降り続く雨をぼーっと見ていたニャ。そんな事をしても何も起きないニャ、何も始まらない何も楽しくない何も無いニャ。
でもそれで良いのニャ、だって僕は猫なのニャ。
人間達はあっちに行ったりこっちに行ったりとても忙しそうだったニャ。何をそんない急ぐことがあるのか疑問だったニャ。
もっとゆっくりすればいいのにと言ってあげたかったニャ。
生き急いでいるようにしか見えなくて、人間のほうが僕と比べたら寿命が長いはずなのにどうしてそんなに急ぐのかと考えても考えても答えは出なかったニャ。
その日もそんな事を考えていたニャ。この時の僕の趣味みたいなものだったのニャ。
あそこに歩いている赤のランドセルを背負った小学生は、同じ傘に入って一緒に歩いている黒のランドセルを背負った小学生を見て頬が赤くなっているけどそれは何故かニャ。
そこにいる男の人は何故傘もささずに走っているのか、雨に打たれたらびしょびしょに濡れてしまうのに気しないのかニャ。
あっちにいる制服を着た女の子は傘をクルクルと回しているニャ。そんな事をすれば水があちこちに飛び散りそうだけど傘に描かれた花の模様が綺麗だから許せるニャ。
次々と人が通って行くニャ。右から左、左から右、右から左と思ったらまた右に戻った人もいたニャ。
僕は欠伸をしたニャ。
別に飽きてるわけでもなくて、かといって眠たいわけでもないニャ。
そして次々と流れてくる人間を見ていたらその人は現れたニャ。
もうわかるニャ? その人が誰なのかということを。
そうニャ、その予想通りニャ。予想をしなくても簡単なことなのニャ。
その人とはお姫様のことニャ。
お姫様は制服姿だったニャ。傘は持っていたニャ、でも急いでいて走っていたニャ。
後ろを気にしていて必死だったニャ。
僕は何故か気になったニャ。今まで何も気にしてこなかったのに、この時だけは何故かそうなったニャ。
これは運命という何かなのかニャ? 今思えばそんな感じもするニャ。
僕は屋根から出ようとしたニャ。でもこれがなかなか難しかったニャ。
連日降っているこの雨。遮る物がなければ当然体に当たってしまうニャ。僕は傘なんて持っていないのニャ、だから雨に打たれるしかないのニャ。
そこで僕は考えたのニャ。
わざわざ雨に濡れてまで追いかけるべきかニャと。
僕は水が嫌いニャ。人間は嬉しそうに水に入るニャ、なんであんなに笑顔なのか僕にはわからないのニャ。
水に入ると毛が水を弾かないのニャ。体の熱もうばわれるから寒くて寒くてヤバイのニャ。
今はムシムシしていて暑いからむしろ寒いほうがいいのかもしれないけどニャ。
僕がそんな事を考えていたら「待て待て」と声を出しながら走ってくる人達がいたニャ。
なんだか怖い顔をした人達だったニャ。悪いことしかしていないように見えたニャ。
誰かを追っているみたいだったニャ。
僕はそのことにすぐわかったニャ。わかったから早く屋根から出ないといけないのニャ。
でも勇気がでないのニャ。ここにいたらエサもくれるし平和だし幸せニャ。
それを捨ててまでわざわざ追いかける意味はあるのかニャ?
なんだか雨足が強くなってきたような気もしたニャ。
さっきよりも雨が打ち鳴らす音が大きいのニャ。
もういいや、僕には関係のないことニャ、僕はあの女の子の飼い猫でもなんでもないのだから。僕はただの野良だからニャ。
そう思う事は無かったのニャ。気づいたら僕は雨の中にいたニャ。
何で僕がこんなことをしているニャ? 追いかけてどうするというのニャ? 猫の僕がこの雨の中怖い顔をした人達に立ち向かえるわけなにのニャ!
そうは思っても足は動く。屋根から地面へと飛ぶこの俊敏な動き、さすが僕と褒めたニャ。
女の子はどこに行ったのかニャ? この時僕は女の子を見失っていたのニャ。
怖い顔の三人も見失っていたニャ。
だから僕は雨に打たれながら、当てもなく捜していたのニャ。
そうしているうちにも体力は奪われるニャ。ムシムシしていたのになんだか寒くなってきたのニャ。
でもそんな事は気にしていなかったのニャ。
どこにいるのニャー! 僕は大きな声で女の子を捜したニャ。
僕が助けるニャー! この声は雨音で消されていたニャ。
それでも僕は叫んだニャ。叫び続けたニャ。
こういう時って大体このあと見つかるのニャ、そう根拠はないけど思ったニャ。
しかし見つからないのニャ。
世間はそんなに甘くはなかったのニャ。
僕は叫ぶのをやめたのニャ。だってもう叫んでも見つからないのニャ。
僕は溜息を一つはいて元の場所に戻ろうと引き返したニャ。
こんなことをするんじゃなかった、今まで通りずっと雨宿りをしておけばよかったのニャ。
そうしていたらこうやって雨に打たれていなかったのニャ。
変わらない毎日、あの場所でずっと見ている行き交う人間達、ぼーっとしている僕。そして欠伸をしていたニャ。
ああ馬鹿ニャ、僕は大馬鹿ニャ。野良は野良らしくしとけばよかったニャ。
優しくしてくれる人間には可愛く近づくのニャ、強い猫には近づかないのニャ、僕は喧嘩はあまり好きじゃないのニャ。
僕は馬鹿だ馬鹿だと自分に言い聞かすように歩いていた。
そうやって元いた場所、あの家の屋根の下で雨宿りしようと歩いたニャ。
でも僕の体はとても寒かったのニャ。ムシムシと暑いはずなのに寒気を感じてきたニャ。
これが雨の恐ろしさニャ?
僕は急に不安になったのニャ。このまま僕の体が冷たくなるんじゃないのかと思ったのニャ。
そうなったらその時はしょうがないのニャ。
野良はいつその時が来るのかわからニャい。
強い猫に倒されてその時にできた傷が原因で動かなくなる、エサがあるラッキーと飛び出していったら車に引かれて動かなくなる、飼い猫みたいに注射を打たれていないから何かの病気が原因で動かなくなる。
なんだか僕はもうこのまま天国へと昇ってしまいそうな雰囲気さえある。
ほらだって眠たくなってきたのニャ。
寒いと眠たくなるのは何故なのニャ? その理由を知りたいけどもう遅いのニャ。
瞼が重いニャ。開けているのが辛いニャ、閉じたほうが楽なのニャ。
僕は楽になるのかニャ? それは馬鹿なことをしたからニャ。
短いような長いような、そんな一生だったのニャ。
思い残すことは考えたらいっぱいあるけれどもういいのニャ。
だってもう遅いのニャ。
雨の音が聞こえるニャ、屋根に当たって演奏しているみたいニャ。
何だか楽しそうな音楽ニャ。そんなに僕が天国に昇ってしまうのが楽しいのかニャ?
それは僕が野良だからニャ。野良が一匹動かなくなったところで誰も何とも思わないのニャ。
まあそれもしょうがないニャ。だって今僕の体が宙に浮いた感じがするニャ。
僕は天国へと昇るのニャ。さようならニャ。
あー欠伸をしたいニャ。




