表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

プロポーズあるいは酔っ払いのたわごと

作者: 志岐

 きっと待ってて、絶対に迎えに来るから。

 そんな男のたわごとを心底信じているわけじゃないが、何故だか忘れられずにいる。

 佐藤 加奈子、30歳。彼氏いない歴10年。



*     *     *     *     *     *



 待ってて。そう言い残して彼氏は飛び立った。

 もとから5歳の年の差のせいで、私が大学2年の時あいつはすでに社会人だった。

 それも、そこそこ期待されていたらしく、勤め始めて2年で海外勤務を仰せつかっていた。

 あの頃はまだ若かったから、彼が行ってしまう日まで毎日のように泣いた。

 彼もそんな私を心配したのか、滅多にメールも電話もしない癖に毎晩電話をしてきて、ちょっとした時間を見つけては私に会いにきた。

 嬉しくて、だけどそんな心配をかけてしまう自分が情けなくて、電話の後ひたすら泣いていたなんて知らないだろう。

 本当に、私は彼が好きだった。


 「加奈子、約束通り迎えに来たよ」


 そんなセリフを吐いた男が私の目の前に現れるまで、私は確かに彼を愛していた。



 にこにこしている目の前の男は、田辺 亮一郎という。

 向こうへ行く前に比べてだいぶすっきりしたというか、全体に削れて帰ってきた。

 見た目は悪くない。ニコニコしている顔も大多数の人に好まれるだろう。

 しかし、なんというか。とりあえず、逃げたくなった。

 この男。本質的に空気が読めてないようである。


 ちなみに、私のいるテーブルの全員がこの男を注視している。

 そりゃそうだ。

 いきなり合コンをやってるテーブルに来て、私の手を握った挙句ひざまづいてかの台詞をのまったのだから。


 「加奈子? どうしたの。さぁ、迎えに来たよ。帰ろう」

 「えっと……今、友達と飲んでるから」

 「うん。それはわかってるけど、やっと直に会えたんだから。俺の部屋で飲みなおせばいい」

 「いや、そうじゃなくてね?」

 「ずっと会いたいのを我慢してたんだ。さ、帰ろう」


 手を握ったまま左下斜め45度から亮一郎が言う。

 とにかくこの場をどうにか収めねばならないだろうとは思うけれど、幹事もボケっとしていて役に立ちそうにない。

 それにしても、何で5年間も基本的に音信不通だった人間がここに現れたんだろう。


 「というか、何でここにいるの?」

 「部屋の片づけもひと段落して、友達がご飯食べに誘ってくれたんだ。トイレに立った時、加奈子がいるのを見て『運命だ!』って思って」

 「いやその……この場を見てわからない?」


 頼むからわかってくれ。年齢的に合コンだって行ったことがあるでしょう?

 そんな気持ちをこめて、ゆっくりと彼の手をほどこうとした。

 比較的簡単にほどけてホッとする間もなく、立ち上がった亮一郎は私のカバンとコートを手にしてにこにこ笑った。


 「じゃぁ、席に戻るね。あっちの角なんだ。カバンとコート預かっておくから、絶対こっちに来てね」


 にこにこにこ。

 全身から嬉しい、とオーラを出しつつ去って行った彼。

 それを見送っていたら、彼の進行方向から手を合わせてお辞儀をしてくる男性が見えた。

 ……今さら詫びられても。

 詫びる位なら、先に引き取りに来てよ。そう思いつつ、気を取り直して箸をとった。

 食べに走らなきゃ、やってられない。


 「加奈子……今のって、前話してた人?」

 「そうだよ」

 「音信不通で、自然消滅したんじゃなかったっけ?」

 「………こっちはそのつもりで携帯も番号変えたし、部屋も変わったんだけどな……」


 段々と、遠くを見てたそがれてしまいそうになる。

 そんな私の肩を今回の幹事をしてくれた友人がそっと叩いた。

 何も言わない。しかし分かる。

 今日の合コンは、私の話題で盛り上げていいかと、その目が語っていた。

 溜息を吐いて鶏のから揚げを口に放り込む。


 「とにかく、皆さん飲みません?」


 まずはこの変な雰囲気をそれなりに盛りあがっていた状態に戻すのが先だ。

 そう思っていても黄昏たくなる。

 顔には出ていないが、あれはだいぶ酔っている。

 それでいて計算高く、私のカバンとコートを人質に取った。

 無視しようにもできない状況に持って行かされた悔しさを、コップのビールをあおることでごまかす。

 うまい具合に元の雰囲気に戻そうとあえてワイワイ言っている周りをうかがう。

 ……さて、誰が糸を引いているのやら。


 冷静になるまでもなく、おかしな話である。

 5年も音信不通の恋人といきなり出先で会うなんて、そんな偶然まずあり得ない。

 したがって、誰かが画策したと思うけれど、周りにはそれっぽい人間がいない。

 (困ったな)そう思いつつ、杯を重ねる。


 いっそコートもカバンも無視して帰ろうか。

 いや、確か免許証とか入ってるから住所はバレる。

 勤め先までは(本人だけでは)分からないかもしれないが、手引きをした人間がいるなら絶対に分かってしまう。

 自然消滅だと思ってて、やっと新しい恋愛にも積極的になれたというのに。

 どんな意図があるのか知らないが、この手引きをした人間を一発殴ってやりたいと真剣に思った。


 大いに飲み、そして食べて。

 自由に席を移動し始めた頃合いで、そっと個室のふすまが開かれた。

 チラ、とそちらを向いたら知った顔が覗いていた。

 確か……亮一郎の友人だった、はず。

 名前までは覚えていないが、付き合ってたころ何回か顔は合わせた。

 その人が合掌してこっちに頭を下げている。……嫌な予感しかしない。

 しかし、そのまま放置もできずに幹事に合図をして部屋を出た。

 廊下の片隅でその人が手招いている。そちらに近付いて頭を下げた。


 「あーっと、加奈子さんだよね。覚えてる?」

 「すいません。お名前が思い出せなくって」

 「杉本です。よかったよ、気づいてくれて。声をかけたらエライことになりそうだったし」

 すでになってます。という言葉を飲み込んで、話の先を促した。

 「えーっと。亮一郎が潰れそうになっててね。君のコートを抱きしめてバッグに頬ずりを」

 「殴ってでも止めてください。そして私のコートとバッグを返してください」

 「そういうわけにも、ね?」

 「ね。じゃありません! あっちに行ったと思ったら連絡もくれなくなって、5年も前からは完全に音信不通ですよ? 自然消滅したとばかり思ってました」

 「アイツの頭の中じゃ違うみたいだよね」

 「そんなの知りません。私は新しい恋人を見つけるだけです」

 「そこをなんとか。今日のところは俺達で連れて帰るから。せめて携帯番号だけでも教えてやってくれない?」


 アイツはアイツなりに君が好きなんだよ。

 苦笑とともに告げられた言葉に、何かが切れる音がした。


 「私は縁が切りたくて何もかも変えたんです。王子様を待つほど暇じゃない。私から亮一郎へつながるラインはもうないんです」


 吐き捨てるように言った。

 何も知らない癖に。私がどれだけ待って、心配して、苦しんだかなんてわかるはずがない。


 「誰が画策したのかは知りませんが、私の友人まで巻き込むのはやめてください。私はあの人じゃない人と未来を創っていきたいんです」

 「……とりあえず、コートとバッグは返すよ。そろそろ落ちてるはずだから……ああ、寝たみたいだ」


 彼が携帯電話を取り出して、何かしら読んだのちにそう言った。

 ちょっと待ってて。そう言って角を曲がっていく姿に、苛立ちが募った。

 ――優しい恋をしたかったのに。

 目頭が熱くなる。意識して深呼吸をして、気持ちをそらしていく。

 やがて彼がやってきて、コートとカバンを渡してくれた。

 静かに私に渡して、深く一礼して去っていく。

 私はと言えば、急に襲ってきた怒りをそらすために俯いたまま深呼吸を繰り返した。



 やがて立っていられなくなって、座り込んで怒りのあまり震えだした右手をひたすら撫でた。

 行き交う店員さんたちが「大丈夫ですか?」と問うのに、頷きだけを返して深呼吸を繰り返す。

 気休めにすらならないと分かっていた、だけど、そうでもしないと今すぐにでも亮一郎を追いかけて殴ってやりたくてしょうがなかった。

 「カナ、大丈夫……な、わけないか。お開きになったから、帰ろ?」

 どのくらいそうしていたのか、幹事の美貴にそう言って背中を撫でられて、顔をあげた。

 きっとひどい顔だろう。

 怒りに震えて、醜くゆがんでいるだろう。

 そう思って、また俯こうとした私に、美貴はそっと私の握りしめていたコートをかけた。

 「まだ冷えるからねー。あったかくしてないと風邪ひくわ。ほら、いこ」

 手を取られて促されるまま歩き出す。

 涙は出なかった。どんなに感情が高ぶっても、もう亮一郎のためには涙は出ない。

 震える右手をそっと包み込んだ美貴が、店を出る前に振り返った。


 「行こう」


 ありがとうございましたー。の掛け声に押されるように、自動ドアを出る。

 不意に吹き付けた風は生ぬるく、春の訪れを感じさせた。

 それでも私は顔を上げられず、美貴に引っ張られるまま歩いて行く。

 いつもだったら渡らない信号機の前で彼女は止まり、違和感を感じて私は顔をあげた。

 点滅を繰り返す青信号。その向こう側に杉本さんが立っている。

 怪訝に思って美貴を見ると、いつも以上に真剣な表情をしている。

 嫌な予感がして手を振りほどこうとすると、握る手に力が込められた。


 「……恨んで、いいから」


 信号が変わる。

 とおりゃんせの音楽をBGMに美貴は早足で歩きだした。つられて私も早足になる。

 あっという間に向こう側につき、美貴は杉本さんに目礼した。杉本さんも返礼し、先に立って歩き出す。

 嫌な予感はそのままに私も連行される。


 「……アイツね、あっちでかなり鍛えられたみたいなんですよ」


 不意に杉本さんが口を開いた。


 「仕事ができるできないの前に、日本人だからって嫌な目にもあったみたいで。彼女に電話で愚痴れば? って言ったことがあったんです。俺にばっかり愚痴ってないでさ、って」


 少し歩くと、小さな公園らしき広場に出た。

 小さなブランコと花壇とベンチしかないような、小さな広場。


 「そしたらね、アイツ言うんですよ。『彼女にだけは愚痴ったりとかそんなみっともないとこ見せられない』って」


 ベンチに座り込んで眠っているのだろうか、うつむいたままの男性がいる。


 「そんなねぇ、妙な気づかいだと思います。素の自分さらけ出せないなら、何で付き合ってんの? そう聞いたことがありますよ」


 ぐったりとしたまま、コートにくるまれている。


 「ただまぁ、アイツが全面的に悪いんで。もう、殴るなり蹴るなり噛みつくなり、好きにしてください」


 亮一郎が、いた。


 「アイツに本当に気持ちがないなら。頼みます、アイツに引導渡してやってくれませんか?」

 ――それは俺たちじゃできないから。そう続けた杉本さんと美貴に背中を押されて、私はベンチに近付いた。

 思えばこの人が酔った姿を見るのは初めてだ。

 初めて出会ったのはサークルのOB会で、飲むよりもほかの人間にお酌をして回っていた。

 付き合うようになってからも、一緒に飲んだ回数は少ない。

 弱いわけじゃなく、酔って醜態をさらすのがいやだからって、飲まなかった。

 仕事で飲まされることもあっただろうに、そんな日は絶対に電話もメールもなかった。


 今になって思えば、本当に弱いところとか情けないところを私には絶対に見せなかった。

 それが大人の証なんだろう、って私は妙なところで納得して、無理に見せてほしいとは思わなかった。


 「……起きたら?」


 声をかけても碌な反応がない。

 イラっとして、肩を掴んで強くゆすった。


 「起きてよ! ねぇ!!」

 「……かなこだぁ」


 へらりと笑って亮一郎は私に倒れこんできた。

 とっさに受け止めたけれど、意識の怪しい人間は重い。

 支えつつ、私もベンチに腰かけた。


 「かなこ。だいすきー」

 「……嘘ばっかり」

 「うそじゃないよー。すきだよー」

 「じゃぁ、なんで連絡くれなくなったの?」

 「なにはなしたらいいのかぁ、わかんなかったの」

 「馬鹿じゃない? 私、ずっと待ってたのに」

 「うん。だから。むかえにね、いったよ……いなかったけど」


 どきりとした。

 彼の連絡がないのに腹を立てて、諦めて、部屋を移った。部屋を変えて私からも連絡がつかないようにするために。


 「……引っ越したのよ」

 「ねー。かなこー」

 「何、酔っ払い」

 「すきだからさ」

 「うん」

 「けっこんして、ください」


 それが最後の力だったようで、亮一郎は私の膝に崩れ落ちた。


 「馬鹿」

 思わぬ膝枕に呆然としながら、私は呟いた。

 できることなら胸倉を掴んで揺さぶってやりたい。

 目一杯、詰ってやりたい。

 でも。今それをすればきっとえらいことになる。そう冷静に判断もしてしまって、身動きが取れないでいる。

 気がついたら視界に映る彼の顔がにじんでいて、泣きそうなんだと自覚した。

 そうしたら、止まらなくなった。


 声を殺して、空を見上げて泣いた。

 ありえないとか、バカ野郎とか、とにかく罵る言葉は浮かぶのに、何も行動に起こせない。

 ただひたすら、泣いた。


 「あーっと、大丈夫?」

 気がついたら杉本さんと美貴がそばに来ていた。

 美貴はハンカチを必死にカバンの中で捜している。そうしている間に、杉本さんがハンカチを差し出してくれた。

 「泣かせたいわけじゃなかったと思うんだけどね……あぁ、本当にもう。こいつ、どうしようもないな」

 差し出されたハンカチを受け取って、遠慮なしに眼尻にあてる。

 鏡を見たわけじゃないから何とも言えないが、たぶんマスカラやらアイライナーやらが溶け出して、えらい顔になっていると思う。

 それでも、半ば女のプライドで眼尻から流れる涙をぬぐう。

 だけど涙は止まらない。

 我慢している声が喉もとでたまって唇が震える。

 これ以上はハンカチじゃ無理だ。そう思ったのが伝わったのか、美貴がタオルを引っ張り出して私に渡してきた。

 「泣くならこっちでしょ。ハンカチじゃ足りないんじゃない」

 こくりとどうにか頷いて、タオルを顔に当ててわぁわぁ泣いた。


 「ずっと待ってたのに」

 「何にも言ってくれないし。どこにいるのかもわからないし」

 「こっちからの電話にだって答えてくれないし」


 ひたすら胸の内に溜まっていた言葉が溢れて止まらない。

 そして、私は決定的な一言を口にした。


 「好きなのに! 本当に好きなのに!!」


 後は言葉にならなかった。

 訳のわからない、言葉にすらならない切れ端を並べ立てることもできずに、咽び泣いた。

 とにかく止まらない涙を私自身がどうすることもできなかった。


 不意に、膝の上のぬくもりが消えた。

 タオルから顔を離して見上げると、杉本さんが荷物のように亮一郎を担ぎあげるところだった。

 重っ! といううめき声が聞こえて、それをぼんやり見ていると、杉本さんはどうにか抱え込んで笑っていた。


 「さっきの言葉は、こいつが素面の時にいってやってくれるかな。俺はどうにかしてコイツを連れて帰るから」


 今度は私のコートや鞄が人質にされることはなかった。

 頷くこともしないでいると、美貴が穏やかに言い放った。


 「それはその人次第でしょ。私はカナの味方ですから、まだ許してやろうなんて思ってないですよ」

 まぁ、新しい住所も携帯も教えるつもりはないですから。

 そう告げる彼女に、杉本さんは笑い。

 「分かってる。これからはコイツが苦労する番だよ。ここまでお膳立てしてやって何にもなりませんでした。じゃ、始末に負えないし」

 彼の体をゆすりあげ、どうにか自分にもたれさせるとふらふらと道路の方角へと歩いて行く。

 タクシー呼びましょうか? という美貴の言葉に、大丈夫。と返す声が聞こえた。

 ゆらりゆらり去っていく人影を見るとはなしに見ていた私に、美貴はそっと手を伸ばした。

 「帰ろ?」

 その手を取って立ち上がり、タオルで顔を押えたまま歩き出す。




 街灯のほとんどない公園を出て、大きな通りに出た。

 まだ私の涙線は決壊したままで、タオルのお世話になっていた。

 「美貴。タオル買って返す……」

 「気にしないでいいよー。洗って返してくれれば大丈夫だから。葬式の引き物だから、買うほうがばからしいしね」

 「ごめんねー。ホント、ごめんね」

 「ああもう、目を擦らないの。明日腫れ上がって大変な噂になるよ」

 特におじさんたちの! 明るくそう言われて、少し笑った。

 言われるまでもなく、きっと明日の顔はとんでもないことになっているだろう。

 「休もっかな……」

 「それはだめだよ。明日、会議の資料作りを私一人でやるの?」

 「そうだった」

 先回りして休めない理由を言われてしまえばそれまでで、どんなひどい顔になっても行くしかないなと覚悟を決めた。

 ゆっくりとしたペースでタクシー乗り場まで歩く。

 本当は流しのタクシーを捕まえたかったけど、そう都合よくはいかなかった。

 少しだけ列に並んでいる間も、私たちは手を繋いでいた。


 「ね、カナ」

 「なに?」

 「連絡、もう一回だけ取ってみたら?」

 「……また繋がらなかったら?」

 「その時はその時でさ。だって、うちの会社まで押し掛けられても困るでしょ?」

 「それはそうだけど」

 「最後のチャンスを与えてあげてもいいんじゃない? どうも、真剣みたいだったし」

 最後のチャンス。電話して、もしも彼が出てくれなかったら。

 今度こそ本当に私は潰れてしまうかもしれない。

 怖い。

 繋がるためのツールを使ったって繋がれなかった私たちが、本当にもう一回繋がれるんだろうか。

 「カナに引っ越されてさ、連絡つかなかった。それってカナがされたことじゃない? されたことの仕返しはもうすんだでしょ? ならさ」

 「……ここら辺で歩み寄ったほうがいいのかな」

 「チャンスを与えると思ったほうがいいよ。あっちはあっちで悪かったし。帰ってきて自分の都合で連絡取ろうとしたなんてのも身勝手」

 「諦めようとしたんだけどな……」

 「それ以前にさ、カナ」

 アンタ自分がどこに勤めてるって話したことある?

 美貴の一言にハッとした。そういえば、就職したとは話した記憶があるが、どこに勤めてるとは言った記憶がない。

 「……知らない場所にはどうやったっていけないよね……グーグルだって教えてくれないよ。『カナ 勤め先』なんて検索したって出るわけないんだから」

 「そうだね……」

 「だからね。もう一回だけ、勇気を出しなよ」

 列は段々と短くなり、もう次が私たちの番だ。

 ひときわ強く手を握られ、タオルから顔を離して彼女を見た。

 「詰ってやればいいよ。今度は、面と向かって」

 うん、とも、いいえ、とも答えられないまま、美貴は私を空車に押し込んだ。

 じゃぁ明日ねー。と手を振って、彼女は駅へと歩いて行く。

 終電まではまだ時間がある。

 ぼんやりしている私に運転手が声をかけた。「お客さん、どちらまで?」

 それに反射的に答えながら、私の頭の中は明日かけるであろう電話のことでいっぱいだった。


 出たら出たで、詰る。

 出なかったら、押しかけてでも文句を言ってやる。


 流れ星のようなヘッドライトを見ながら、心が決まっていく。

 もう一度だけ、彼と会おう。そう思えた30歳のとある夜だった。



 結論からいえば、翌日の彼との電話はうまくいかなかった。

 それは彼があまりにもグロッキーすぎたせいである。

 決して私の泣きすぎでかすれた声が聞きづらかったわけではないと、確信している。

 そしてなんだかんだあって、私たちは手を取ってまた歩き出したわけだけど。

 一般的に言われるゴールまでは、なかなかたどり着くのに時間がかかっているのである。

 でも、少しだけ。

 彼が私に胸を開いてくれるようになったのは、進歩じゃないかなと思っている。



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ