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終わる日に、花を買う

作者: 夢崎 翼
掲載日:2026/07/07

その夜、私は百八十年愛した人を、救われる直前で殺した

180年前、死にかけた恋人を救うため、澪は悪魔と契約した。

不老と力を得た代わりに、二人は“感情が暴走する存在”となる。


愛するほど壊れていく関係を、それでも繋ぎ止めながら生きた二人。

だが澪は限界を迎え、魔法使いを狩る者たちに恋人の殺害を依頼する。


拷問の末、死の間際に彼は言った。


「あと少しで、人間に戻れる日だった」


――その瞬間、すべてが遅かったと知る。


百八十年の愛は、

救われる直前で終わった。


五十一階の窓は、地上の生活を小さく見せた。


 車は光の粒になり、人は見えない。喧騒も届かない。そこに住む者だけが、世界から少し切り離された静けさを手に入れる。


 女は、その静けさが嫌いだった。


 リビングの一面ガラスの向こうで、夜景が濡れたように光っていた。高層の部屋にありがちな白と黒で統一された室内は美しく、清潔で、どこか冷たかった。生活の気配はあるのに、体温がない。飾られた絵も、磨かれた床も、整然と並ぶグラスも、誰かの幸福を演じるための舞台装置のように見えた。


 ソファに座る男は、ネクタイを緩めることもなく、黙って時計を見ていた。


「……今日、何の日か覚えてる?」


 女はダイニングテーブルに寄りかかったまま言った。何気ない調子を装ったつもりだったが、声の底が、少しだけ掠れた。


 男は視線を上げない。


「仕事だ」


「そう」


「遅くなる」


 それだけだった。


 女は笑った。笑ったつもりだった。自分の口角が上がったのがわかったのに、頬は少しも温かくならなかった。


 男の名前は冬真。女の名前は澪。


 二人は傍から見れば、若く、美しく、金に困らず、羨まれる側の人間だった。まるで新婚のように整った部屋に住み、上質な服を着て、必要なものは何でも手に入れられる。だがそのどれもが、二人の間にある長い沈黙を埋めることはなかった。


 冬真が立ち上がる。コートを取る。革靴の先が光を返す。


 その時、インターホンも鳴らさず、玄関の方から鈍い破裂音がした。


 澪は一度も振り返らなかった。


 ドアが内側に吹き飛び、冷たい廊下の空気とともに六人の女がなだれ込んでくる。全員が白い装束を纏い、それぞれ得物を持っていた。刃物、銃、鉄杭、細い針束。人を脅すためではなく、殺すために選ばれた道具の顔をしている。


 冬真の目だけが、初めてわずかに揺れた。


「澪」


 呼ばれた女は、答えなかった。


 先頭の女が言う。


「押さえろ」


 二人がかりで冬真を床に組み伏せる。男の身体は細く見えたが、妙なほど重かった。筋肉ではない、何か別の密度がその肉体の奥に詰まっているようだった。


 冬真は暴れなかった。いや、暴れられなかったのではない。ただ、澪を見ていた。責めるでもなく、怒るでもなく、確かめるように。


「……お前が呼んだのか」


 澪は数秒遅れて、ようやく口を開いた。


「終わらせたかったの」


 冬真は目を閉じた。それが悲しみなのか、納得なのか、澪にはわからなかった。


 拷問は、儀式のように始まった。


「自分でやれ」


 鉄の器具が床に並べられる。ペンチ、細いナイフ、針。冬真の前に置かれたそれらは、医療器具にも見えた。命を救うための形に、命を汚す用途を与えたような不気味さがあった。


「従えば苦しませない。逆らえば、ここで女ごと焼く」


 先頭の女が澪を顎で示す。


 冬真はゆっくりと息を吸った。まるで、雨の日に傘を開く前の動作のように自然だった。恐怖に歪んだ顔は見せなかった。ただ、少しだけ肩を落とした。


「殺さないでくれ」


 その声は、哀願というより確認に近かった。


「なら、やれ」


 冬真は自分の左手を見た。長い指、白い爪。ピアノでも似合いそうな綺麗な手だった。


 次の瞬間、ためらいなく親指の爪にペンチをかけ、一気に引き剥がした。


 澪の喉が鳴った。


 肉が裂け、血が散り、床に赤い線が走る。だが冬真は眉一つ動かさない。呼吸だけが、ほんの少し乱れた。


 剥がれたはずの爪の下から、すぐに新しい皮膚が盛り上がる。肉が音もなく再構成され、透明な爪が伸び、数秒で元通りになる。


 部屋にいた全員が、その異様さに一瞬だけ黙った。


 冬真は次に、右の眼球へナイフの先を向けた。


 澪が叫んだ。


「やめて!」


 その叫びは遅かった。刃先はすでに白目に沈み、ぬるりとした音を立てて眼窩から球を抉り出していた。血が頬を伝い、床に落ちる。なのに冬真は、片目を失った顔で、まっすぐ澪だけを見ていた。残った片方の目で。


「……怖がるな」


 何を、今さら。


 そう思ったのに、澪はその場で崩れ落ちそうになった。


 失った眼窩は、まるで時間を巻き戻したようにふさがり、新しい眼球が形を取り、虹彩に色が宿る。深い夜の底みたいな黒が戻ってくる。


 人間ではない。


 そんなことは、最初から知っていた。


 知っていたはずなのに、目の前で見るたび、澪の心のどこかが冷えた。


「次だ」


 女たちは容赦しない。人間に向ける嫌悪と、化け物に向ける恐怖が混ざった目をしていた。


 冬真は従い続けた。指を折り、肉を裂き、舌を噛み切り、また生え変わる。どんな拷問よりも不気味なのは、その再生そのものだった。痛みはある。苦しみもある。だが死なない。壊れても戻る。戻るから、また壊される。


 澪は知っていた。


 これが彼の罰であり、彼女自身の罰でもあることを。


 六人目の女が銃を構えた時、冬真が初めて本気で動いた。


 拘束具が弾ける。細い腕が信じがたい力で一人を突き飛ばし、鉄杭を持った女の喉に肘を打ち込み、床に滑るように抜ける。瞬間移動ではない。ただ、速度が人間の尺度を外れていた。


「待って!」


 澪が叫ぶ。


 冬真はリビングを横切り、その先の廊下へ走る。部屋の奥、寝室のさらに先、小さな書斎の扉へ。


 その途中だった。


 乾いた銃声が、空気を破った。


 一発だけ。


 冬真の身体が不自然に止まる。肩口から黒い煙のようなものが立ち上がり、次に心臓の辺りに遅れて穴が開いた。血ではない、暗い液体が内側から滲む。肉は盛り上がらない。再生の兆しがない。


 冬真は膝をついた。


 撃った女が息を呑む。


「当たった……銀杭が」


 普通の弾ではない。祝詞と呪詛を重ねた銀を核にした、魔を殺すための一発。


 澪は走った。気づけば床に膝をつき、冬真を抱えていた。


「冬真、ねえ、冬真」


 男はゆっくり顔を上げる。唇に血ではない黒を滲ませながら、それでもどこか穏やかに笑った。


「……あと少しだったのに」


「え?」


「もう少しで、普通の人間に戻れる日だった」


 澪の呼吸が止まる。


「何、言って……」


 冬真は震える手を、廊下の奥へ伸ばした。


 半開きの扉の向こうが見える。書斎の机の上に、花束があった。季節外れの白い芍薬と、深い青のデルフィニウム。隣には小さな箱。古びたリボン。手紙も置いてある。


 澪の視界が滲んだ。


「……今日で、終わる。そう、思ってた」


 冬真の声が遠くなる。


「最初から……やり直せると……」


 その言葉を最後まで聞く前に、澪は自分が叫んでいるのを知った。


 叫びは言葉にならなかった。


 六人の女たちは、誰も動けなかった。冬真の身体から、ゆっくり熱が消えていく。百八十年、生と死の間に留まり続けた存在が、ようやく一つの終わりに辿り着く、その静かな瞬間だった。


 澪は、冬真の胸に顔を埋めた。


 そこにはもう、鼓動がなかった。


     *


 百八十年前、二人はただの人間だった。


 冬の終わりに、港町で出会った。


 澪は薬屋の娘で、冬真は花火師の見習いをしていた。金持ちではない。将来も定まっていない。それでも二人は、驚くほど簡単に恋に落ちた。


 春の匂いがする坂道で、冬真はよく本を読んで聞かせた。澪は難しい言葉が出てくるたび笑って、わざと間違えて復唱した。冬真は訂正しながら、結局つられて笑った。


 どこにでもいる若い恋人だった。


 戦があり、疫病があり、日々は脆かったが、だからこそ二人は、自分たちの小さな幸せを信じようとした。


 運命が壊れたのは、二十五の年だった。


 冬真が死んだのだ。


 正確には、死にかけた。町外れで起きた騒乱に巻き込まれ、腹を裂かれ、冷たい泥の上に倒れていた。医者は首を横に振り、夜が明ける前に息を引き取るだろうと言った。


 澪は、その夜、神ではないものに祈った。


 祈りではなく契約だった。


 窓のない蔵の中で、名もなき悪魔は言った。


「命は返せる。若さも、力も、富も。望むものは与えよう」


「代わりに何を」


「感情が肥大する。愛せば狂う。憎めば壊す。欲すれば飢える。それに耐えろ。」

「届かぬものほど、よく熟す。」


澪は、その言葉の意味を考えなかった。

ただ、冬真の名前だけを口にした。


 愛する人が死ぬことに比べれば、どんな代償も小さく見えた。


 冬真もまた、生き返った後に契約の全てを知った。最初は怒った。泣いた。澪を責めもした。だがそれでも二人は離れなかった。離れられなかった。なぜなら感情は、契約によって削がれるのではなく、増幅されるのだから。


 愛は、救いではなくなった。


 強すぎる愛は執着になり、執着は猜疑になり、猜疑は傷つける衝動に変わる。相手が少し遅く帰るだけで狂いそうになり、他人が一言褒めるだけで殺意が芽生える。怒りも、嫉妬も、悲しみも、喜びさえも、普通の人間の器では収まらない。


 それでも二人は、百八十年を共に生きた。


 時代を渡った。名を変え、土地を変え、服を変え、言葉を少しずつ変えた。明治の灯りを見た。戦火を逃げた。バブルの街を笑った。魔法の力で金を得て、人間社会の上澄みに紛れた。


 だが夜ごと、二人は壊れた。


 皿が割れる音。炎。泣き声。血。謝罪。抱擁。再会。誓い。裏切り。やり直し。


 何度も、何度も。


 冬真は感情の暴走を、自分を傷つけることで耐えた。澪を傷つけないために、自分の肉を削り、指を折り、目を潰し、喉を裂いた。彼の再生能力は、その頃から彼の檻だった。


 澪は最初、彼を救おうとした。抱きしめて、宥めて、泣いて、何度も手を取った。だが年月はどんな誓いも摩耗させる。百八十年は、人間の「いつか」を腐らせるのに十分すぎる時間だった。


 そして澪は、冬真を失ったあの夜に初めて知ることになる。

 契約には終わりがあったのだと。


 百八十年を越えれば、力は消え、老いが戻り、人間に戻れる――そんな記述が契約書の断片に残されていた。


だがその情報は断片的で、確かな日付までは掴めなかった。冬真はずっと探していた。古文書を読み漁り、悪魔崇拝の記録を辿り、呪術師の墓を暴き、ようやく終わりの日を見つけた。


 今日だった。


 だが澪は知らなかった。


 知らないまま、限界が来た。


 誰より愛した男が、誰より恐ろしい存在に見えた夜が続いた。自分もまた化け物になっていることに耐えられなくなった。眠るたびに、相手の息の音でさえ憎くなる瞬間がある。そんな自分ごと終わらせたくて、澪は魔を狩る女たちに連絡を取った。


 その結果が、あの夜だった。


     *


 葬儀はなかった。


 できるわけがない。戸籍のどこにも本当の二人はいない。死んだところで、誰も百八十年生きた男の弔い方など知らない。


 六人の女たちは報酬も受け取らず去った。気まずさでも、後悔でもない。自分たちは怪物を一体殺した、それだけの顔だった。澪も引き留めなかった。


 部屋には、死体と花と、夜景だけが残った。


 冬真の身体は夜明け前に灰になった。火をつけたわけでもないのに、指先から静かに崩れ、光のない灰となってソファの前に溜まった。その中に、小さな銀の鍵だけが残っていた。


 澪はそれを拾った。


 書斎の机の上の手紙を、震える手で開く。


 達筆でもなく、見慣れた字だった。


『澪へ


 たぶん、今日はうまく笑えないと思う。

 でも、終わったら言いたいことがある。


 君と出会ったあの日から、ずっと君を愛していた。

 契約のせいで歪んだ日も、それでも本当だった。


 もし今日を越えられたら、魔法のない明日が来る。

 老いて、病んで、先に死ぬこともある。

 でもそれを君とやってみたい。


 花を買った。

 指輪も買った。

 百八十年も経って、まだこんなことをするのは馬鹿みたいだと思う。

 それでも、もう一度、最初から恋をしてほしい。


 冬真』


 澪は読み終える前に崩れた。


 泣き崩れる、という言葉では足りなかった。身体のどこにこれだけの水があったのかと思うほど涙が溢れ、息ができず、喉が裂けそうになり、声にならない嗚咽が続いた。


 百八十年の重さが一度に胸に落ちてきた。


 終わるはずだったのだ。あと少し耐えればよかった。あと一日、あと数時間、あと一発早く気づければ。


 自分は、愛した男を、救われる直前で殺した。


 その事実だけが、澪の中に杭のように残った。


     *


 それから澪は、冬真のいない世界を生きた。


 不老は消えなかった。契約は片方が死んでも完全には閉じなかったらしい。あるいは、殺した者への罰なのかもしれない。季節は巡り、街は変わり、同じタワーの窓から見える景色も少しずつ姿を変えた。だが澪だけが取り残された。


 彼女は銀の鍵の意味を探した。


 何年もかけて、各地の魔術書を辿り、契約の残滓を追い、悪魔の名を割り出した。冬真が百八十年かけて辿り着いた場所へ、今度は彼女が向かった。どこにも救いはなかったが、鍵の用途だけは最後に判明した。


 それは、契約の最終頁を開くための鍵だった。


 人が魔に変わる時、終わりの条件は与えられるが、例外も一つだけある。


 片方が終わりの日の前に死んだ場合、残された方は、相手を“最初の出会いの場所へ返す”ことができる。ただしそれは蘇生ではない。記憶も力もない、まったく別の人生を歩む一人の人間として、この世に生まれ直すだけだ。


 澪は震えた。


 それでも十分だった。


 冬真が、今度こそ普通の人間として生きられるなら。


     *


 港町は、百八十年前より綺麗になっていた。


 坂道は舗装され、花火屋はもうない。代わりに、海の見える小さなカフェが建っていた。春先の風は昔と変わらず、少しだけ塩の匂いがした。


 澪はその坂道に立ち、銀の鍵を握った。


 鍵穴はどこにもない。だが鍵は、触れるだけで空気の中に溶けた。世界の見えない継ぎ目に差し込まれていくように。


 目を閉じると、冬真の声がした気がした。


 ――怖がるな。


 澪は泣きながら笑った。


「今さら遅いよ」


 風が吹いた。


 その瞬間、海鳴りに混じって、遠くで誰かの足音がした。


 澪が振り返る。


 坂の下から、一人の男が上ってくる。二十五歳くらいに見える。白いシャツの袖を雑に捲り、古本を数冊抱えている。少し困ったような顔で、途中、澪の前で立ち止まった。


「あの、すみません」


 声が、似ていた。


 澪の心臓が痛いほど脈打つ。


 男は首を傾げる。


「この辺りで、前に花火屋があったって聞いたんですけど、知ってますか」


 澪は答えられなかった。喉の奥で何かが詰まり、言葉にならない。


 男は少し笑う。


「変なこと聞いてますよね。もう何百年も前の話みたいで」


 澪は、その笑い方を知っていた。



 男は名乗らない。澪も名乗らない。ただ、春の風だけが二人の間を通り抜ける。


 もしここで名前を聞けば、また何かが始まってしまう気がした。運命だの再会だの、そんな大げさな言葉で汚したくないものがあった。


 だから澪は、ただ一つだけ言った。


「この坂を上った先に、花屋があります」


「花屋?」


「うん。たぶん、今日行った方がいい」


 男は少し不思議そうにしたあと、「ありがとうございます」と頭を下げた。その仕草まで、痛いほど懐かしかった。


 すれ違う瞬間、男がふと足を止める。


「……どこかで会ったこと、ありましたっけ」


 澪は息を止めた。


 海の匂い。春の光。百八十年分の後悔。失った夜。灰。花束。手紙。全部が一瞬で胸を駆け抜けていく。


 それでも澪は、微笑んだ。


「いいえ。はじめて」


 男も、なぜか少しだけ寂しそうに笑った。


「そうですよね」


 彼は去っていく。坂を上り、澪の示した花屋の方へ。


 その背中を見ながら、澪は初めて思った。


 やり直しとは、過去を取り戻すことではないのかもしれない。


 覚えていなくてもいい。約束が消えてもいい。愛した証が世界のどこにも残らなくても、ただ相手が人間として生きて、笑って、老いて、誰かを愛して、やがて死ねるのなら、それでよかった。


 それが自分でなくても。


 その時、男がもう一度だけ振り返った。


 風に前髪を揺らしながら、ほんの少し大きな声で言う。


「花、何色がいいと思います?」


 澪は泣きそうになりながら、空を見た。


 百八十年前も、同じ色をしていた春の空。


「白がいい」


 男は頷いた。


「じゃあ、白にします」


 そして今度こそ歩いていく。


 澪はその背が見えなくなるまで立ち尽くし、やがて静かに目を閉じた。


 世界は続いていく。魔法のない日々が、誰かの上に降り積もっていく。


 五十一階の窓から見ていた頃には、少しも美しいと思えなかった地上の時間が、今はどうしようもなく愛しかった。


 終わる日に、花を買う。


 その約束だけが果たされなかったことを、澪はもう悲しまなかった。


 たぶん、花はちゃんと届く。


 今度は、誰も死なない日に。

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