幕が上がるまで
芝居小屋の舞台袖は、おしろいの香りと、古い木材が吸い込んだ数十年分の汗の匂いが混じり合っている。
そこは、現実と夢が入れ替わるための、細くて暗い通路だ。
銀髪を完璧にまとめ、白塗りの女形に姿を変えた老座長は、じっと自分の拳を見つめていた。衣装の重みは、そのまま彼が背負ってきた劇団員の生活の重みだ。隣では、抜けるように白い肌をした若きエースが、何度も扇子を握り直している。
「おい、さっきから扇子と心中でもするつもりか」
座長が低い声で言った。若者は、鋭く、しかしどこか甘えを含んだ視線を師匠へ向ける。
「……扇子が滑るんです。今日の客席、やけに熱気がすごくて。SNSで評判が広まったせいだって、座員がはしゃいでますよ」
「文明の利器か何か知らねえが、客は客だ。一人だろうが千人だろうが、お前がやることは変わらねえだろう」
「わかってますよ。でも、怖いんです。僕がしくじったら、この劇団の『明日』が消える気がして」
若者の声が微かに震えた。座長はふっと目を細める。市井の人々の悲喜こもごもを見つめ続けてきたその瞳には、若者の背後にある孤独が透けて見えていた。
「いいか、よく聞け。幕の向こうは、ただの板の上じゃねえ。そこは、お前を待っている誰かのための、たった一つの居場所だ。お前が震えていたら、客はどこに座ればいい?」
座長はそう言うと、若者の背中を、おしろいで真っ白になった掌で力強く叩いた。
「痛いな……。化粧がついちゃいましたよ」
「勲章だと思え」
その瞬間、舞台袖の空気が変わった。どこからか不思議な風が吹き抜け、暗がりに舞う埃が、まるで数多の星屑のように光り輝いて見えた。それは、かつてこの舞台で散っていった役者たちの、目に見えない喝采のようでもあった。
若者は深く息を吐き、扇子を美しく開いた。その所作は、まるで一輪の花が夜の闇の中で開花したかのような、残酷なまでの美しさを放っていた。
「座長、僕が先に華を散らしてきます。あなたは後から、その大きな背中で全部拾い集めてください」
「生意気を言うようになったな。行ってこい」
呼び出しの拍子木が、小気味よい音で鳴り響く。
幕がゆっくりと上がり始めた。隙間から漏れ出す眩い光が、二人の横顔を照らし出す。若者は光の渦の中へ、迷いのない足取りで踏み出した。座長はその背中を見送りながら、自分もまた、一歩前へ踏み出す。
幕が上がりきった先には、彼らを待つ人々の笑顔と、新しい明日が待っていた。




