第三章 1:無邪気
大陸の西方は、幾つかの国家が群立する。
その代表は、内海に突き出た半島を領土に持ち、海洋貿易の中心地であるマリオール王国だ。東側をドゥルメリア都市国家同盟、南側はアストラエル王国と隣接し、海上交通の要所として、小国ながら大いに繁栄している。
そして、そのマリオール王国とは内海を隔てた対岸にある、ここヴェルディア王国。
王都セドにある王城の謁見室で、国王のディートリヒ・ベルディオスは満面の笑みでその少年を出迎えた。
「よく来てくれた、ベルル。もっと近くに」
少年の隣では、彼の父親らしき男性が畏まって小さくなっている。貧相な顔立ちだが、仕立ての良い衣服や、身に着けている高価な装飾が、男性の身分の高さを物語っていた。
ベルルと呼ばれた少年は、そんな父親の様子を気にした風もなく、無遠慮に国王の元へと歩み寄った。
「国王様は、のんきだね」
ベルルは手前で立ち止まると、可笑しそうに笑った。
ディートリヒは笑みのままだが、その顔に怪訝を浮かべる。
「…こ、こら。ベルル、国王様になんて不敬なことを」
父親が慌てて窘めるが、ディートリヒはそれを手を伸ばして制した。
「私の、何が呑気なんだ?」
問うディートリヒを見て、ベルルはさらにけらけらと大声で笑った。
「だって、自分の命が狙われているのに、何も気づいていないんだもの」
そして、国王の玉座の傍に並び立つ大臣たちのうち、一人の初老の男性を指差した。
指差された男性の額に汗が浮かび、手が震える。表情から血の気が引いていく。
ディートリヒの視線が、彼の方に向けられる。男性の目が険しく歪められ、忌々しそうに少年を睨み付けた。
「この、化け物が」
男性は懐から装飾の付いたナイフを取り出して、ベルルに襲い掛かった。
ベルルは彼に視線を向けることすらなく、無抵抗に可笑しそうに笑い続けている。
男性が、ナイフを構えてベルルに突っ込む。
笑いながら、ベルルが男性をちらりと一瞥した。
一瞬、男性の動きが固まる。
男性が体を仰け反らした。背後から振り下ろされた剣撃で、背中から真っ赤な血が飛び散った。
くぐもった呻き声を漏らしながら、ナイフを取り落として男性がうつ伏せに倒れ込んだ。伸ばした手の先が、ベルルの足元で力を失う。
護衛の近衛騎士は振り下ろした剣を引くと、刃に付いた鮮血を自分のマントで拭った。
「おお、ベルルよ」
ディートリヒは玉座から立ち上がると、慌ててベルルに駆け寄った。
愛おしそうに、彼は少年を抱き締める。
「ベルル、怪我はないか。お前にもしものことがあれば、私は一生、後悔することになるぞ」
ベルルが暑苦しそうに、顔を背けた。
少年を抱き締めたまま、ディートリヒは顔を上げて周囲に大声で言う。
「今日の執務は終わりだ。…ベルル、あっちで話を聞かせてくれ。珍しい菓子も用意してある」
立ち上がったディートリヒが、ベルルの手を引いて謁見室を後にする。
その一連の様子を冷や汗混じりに見ていた父親も、慌てて二人を追いかけた。
兵士たちによって、男性の遺体が運び出される。
立ち並んだ大臣たちもほっと胸を撫で下ろしたように、それぞれの顔を見合わせた。
邸宅が並ぶ一画、通称貴族街に、ルーベルト伯の別邸もあった。
彼は王城から戻ると、心身ともに疲弊したように食堂の椅子に座り込んだ。侍女が、彼のためにティーポットから温かいお茶をカップに注ぐ。
男性はカップに視線を落としただけで、手に取ろうとはしなかった。背もたれに体重を預けて、ゆっくりと天井を仰ぎ見た。
「お帰りなさい。あなた」
奥のドアから現れた妻が、笑顔で彼の隣に座った。
「思っていたよりも、遅かったですね。それに疲れていらっしゃる。王城で何かありました?」
彼は、自身に不釣り合いなほど美しい妻に視線を向けた。
「ベルルだよ。いつも冷や冷やする」
彼の六歳になる息子は、この部屋にはいない。この別邸の地下室、息子に頼まれて彼が大工に作らせた部屋に、いつも閉じ籠もっている。
「国王様のご寵愛を受けているんでしょ。良いことではありませんか」
妻が手を上げると、侍女が彼女の前にカップを置いた。お茶が注がれて、温かな湯気が立ち昇る。
その芳醇な香りを嗜んでから、妻はカップに口を付けた。
「私は、あの病弱だったベルルが、こうして元気に走り回っている姿を見られるようになっただけで、とても幸せです」
「それは私も同感だが――」
男性は窓の外の景色を見やる。白いレースのカーテンが、中庭の植え込みを抜けて来た風で揺れる。
「…私は、少し怖いよ。今日も先生は来ているのか?」
「いいえ」と、妻はカップを置きながら答えた。
「代わりに、先生の娘さんがいらっしゃっています。さっきまでここでお喋りしていましたの」
楽しげな妻の笑顔を眺めながら、男性は嘆息した。
フードを目深に被った銀髪の少女の姿が、彼の脳裏を過る。十五歳だと聞いたが、すらりと伸びた手足や、その容貌からはもう少し大人びて見えた。
「私は、あの娘も怖いよ」
男性は独り言のように呟くと、ようやくティーカップを手に取った。
地下の自室に戻った少年を、銀髪の女性が出迎える。
「おや、もう来ていたのかい」
ベルルはドアを閉めながら、銀髪の女性を見て笑う。ゆっくりと部屋の中を進んで、彼のための大きなベッドに腰掛けた。
「国王がなかなか帰してくれなくてさ。彼は自分でも気付いていないけれど、小児性愛者なんだ。見た目が子供ならば、誰だっていいのかな」
可笑しそうにお腹を抱えて笑いながらベッドに体を倒した。
銀色の髪の女性は、その様子をただ静かに見つめる。ベルルがひとしきり笑い終わって、体を起こすのを待ってから、口を開いた。
「ベルル様がおっしゃっていた、調和させし者に会いました」
「ほお」と、ベルルが興味深そうに目を輝かせる。
「彼は元気そうだった?」
「正直に言って、あの程度の者をベルル様が恐れているなどとは信じられません」
女性は首を横に振りながら応えた。
「ディアナ――」
ベルルが、彼女の名前を呼んで瞳を覗き込む。
「彼は、君を相手に剣を抜いたのかい?」
ディアナは怪訝そうな表情で、首を傾げた。
「はい。とても古い剣でしたが、クラリッサの龍麟すらも貫けない鈍らでした」
その言葉に、ベルルはまた可笑しそうに笑った。
「それは剣じゃないよ。ただの金属の棒だ。なるほど、彼らしい」
ベルルが自身の口元を覆うように、左手を当てる。
「それに、僕は別に彼を怖れてはいないよ。ただ彼が出て来ると、いつも話がややこしくなるんだ。言ってみれば、トラブルメーカーさ」
まだ納得がいってなさそうなディアナを横目に、ベルルが腕を広げて体を伸ばした。大きく欠伸をする。
「皆が動きやすいように、君は、君のしたいことをすればいい。もう種は蒔いてある。水と肥料さえ与えてやれば、あとはすくすくと勝手に育っていくのを眺めるだけでいいんだ」
ベルルはベッドにごろりと寝ころんだ。
腕を挙げると、会話は終わりだとばかりに手を振った。壁の方を向いて、体を横にする。
ディアナは小さく頭を下げて、部屋を後にした。




