第二章 49:反撃
教会のある方向から遠ざかるように、大勢の人々が走って逃げて来る。
押し寄せてくる人の流れに逆行して、ルナとエイシャの二人は教会へと早足で向かう。一人の男性がルナと肩がぶつかったが、互いにそれを気にした素振りはなかった。
「――化け物よ…!」
すれ違った誰かの呟きが、風に乗って聞こえてきた。
「急ぎましょう」と、エイシャが眉を顰めて駆け出した。
その時、教会の方向から天に向かって炎が巻き上がった。
炎は竜巻のように渦巻いて、嵐に晒された大木の如くその真っ赤な体躯をうねらす。
思わずルナは足を止めて、遠くの炎を眺めた。
「また派手なこと、やってる奴がいるものね」
「そんな呑気なこと言ってる場合じゃないでしょ」
エイシャが苛立ったように、ルナを急かす。
視線の先で、巨大な炎が弾けるように散った。そしてそこから、真っ黒な影が飛び上がった。
それは蝙蝠の羽のようなものを羽ばたかせて、空高く舞い上がっていく。
「…あれ、敵だよね」
ルナが標的に向かって、真っ直ぐに腕を伸ばした。
エイシャの返事を待たずに、ルナは魔力を集中させる。伸ばした手の先の空間が、密度を増して複雑に歪む。
光の波動のリングが、波紋のように広がる。
次の瞬間、空高くの標的に向かって、一直線に光線が放たれた。
光線は凄まじい速度で、既に点としか視認できない標的に一気に迫る。
目を細めてそれを見送ったルナは、にやりと口元を吊り上げた。
体の一部を変身させた蝙蝠の羽を羽ばたかせながら、彼女は空を緩やかに飛ぶ。
上空の風は肌にやや冷たいが、日差しが眩しい。あまり長い時間、この陽光に晒されるのは、彼女にとって好ましいと思えることではなかった。
彼女は、眼下のベルフェルの街並みを見下ろした。
クラリッサも無事に逃げ果せたようだ。パール・シティでマルセラを討たれたような失態の、二の轍を踏むことは避けたい。太陽の光が肌をちくちくと刺すが、まだしばらく敵の目を引くために、彼女は敢えてゆっくりと飛翔する。
この街での目的も、概ね達成した。あの娘も始末しておくべきだろうが、生かしておいたとしても、それほど計画には影響は無いだろう。わざわざ虎穴に入る必要はない。
「それにしても、あの男――」
彼女はひとりごちる。
話に聞いていたほどの威容さは感じられなかった。
最大の障壁だと思っていたあの男――調和させし者が、あの程度の存在であれば、「新世界」の実現は想定よりも遥かに近い。
彼女の長い睫毛が揺れる。視線を上空に戻そうとした、その時。
街の一画で、眩い光が瞬いた。
反射的に、彼女は身を躱す。
――バシュンッッ。
高出力のエネルギーが掠めて、彼女の右肩を焼く。
「くっ…!」
痛みに顔を歪ませながら、彼女は眼下を睨み付けた。
あの男か。それとも、奴の仲間か。
彼女は追撃に備えて、身構えた。光が放たれた辺りの一画を注意深く凝視する。
しかし、次の攻撃の気配は無い。
「まあ、いい。この傷の分も合わせて、この借りの代償はしっかりと払わせてやる」
ベルフェルの街並みに吐き捨てて、彼女はその漆黒の翼を一際大きく羽ばたかせた。
シリルが連れて来た王国の兵士たちが、ベルフェル聖堂を取り囲む。
修道女たちの手前、彼女たちを保護するためだが、兵士たちの剣と殺気は内側に向けられていた。そのことに、修道女たちは気付いていない。
ざっと教会内の探索を終えたシリルが、大通りまで戻って来た。
「…いないわ」と、シリルが困惑した顔で首を捻る。
彼女の後ろには、同じように不安そうな表情のシスター・ドルネが畏まっていた。
「教会にいるはずの修道女たちの、半数がいなくなっている」
「そうですよね?」と振り返ったシリルに応えて、ドルネは頷いた。
パティアが思案顔で唸る。その左手は彼女の顎の下に当てられて、右手ではしっかりとウィルの服の裾を掴んでいた。
教会の前の大通りには、激しい戦いの痕跡が残されていた。
破壊の後を調べていたリュカが、深く抉られた石畳の段差に躓いて転びそうになる。周辺の建物も被害は甚大だ。崩れた壁の瓦礫が、あちらこちらに散乱していた。
「混乱に乗じて、逃げられたってことね」
瓦礫を危なっかしく跳び越えながら、リュカが戻って来る。
「兵士たちに追わせましょうか」
シリルの言葉に、パティアは首を横に振った。
「いえ、やめておきましょう。あんな化け物相手では、無駄に犠牲を出すだけよ」
悔しそうに下唇を噛むシリルを見て、パティアはウィルの服の裾を掴む手によりいっそう力を込めた。
蛇身のクラリッサに向かってウィルが駆け出した時、そしてあの銀髪の女性に対峙した時――。
正直、パティアは怖かった。
自分の命が失われるかも知れない、その現実に力尽くで直面させられた。しかし、その時の彼女が恐れたのは、また別の恐怖だった。
ウィルを、――大切な誰かを失ってしまう恐怖。
そして、自分が何も出来ないという、無力さ。
正確に言えば、何も出来なかったわけではない。何もしなかった。
「姫様、よく我慢しましたね」
浮かない顔のパティアに気付いて、シリルが声を掛ける。
「大丈夫ですよー。取ったりしませんから」
リュカが歩み寄りながら、パティアの手元をにやにやと眺める。そんな彼女に、シリルが窘めるような視線を送った。
その時、通りの向こうから、二人の修道女が近付いてくるのが見えた。
それを見たテオドラの表情からすっと血の気が引く。
長い黒髪の修道女と、銀色の髪の修道女。テオドラの視線を追って二人に気付いたシリルが、腰の剣に手を掛けて駆け出した。
剣を抜いて、脇構えで一気に迫る。
「「あっ、」」と、パティアとリュカの声が重なった。
修道女たちが同時に散開する。シリルは目標を銀髪の修道女に決め、さらに踏み込んだ。
「前にも同じシーン見たなあ…」
リュカが軽くため息を吐いた。
「シリル様ぁー。多分それ、違いますよー」
のんびりと声を掛けるリュカの視線の先で、シリルが鋭い目付きで剣を横に薙ぐ。
銀髪の修道女は、それを後ろに跳んで躱しながら間合いを取る。戸惑った表情で、目線を散らして周囲に助けを求めるような視線を送った。
それを横目で見ながら、黒髪の修道女がパティアの方へと歩み寄って来る。
咄嗟に身構えるウィルの腕を、パティアがそっと押さえた。
「やはりあなただったのね、エイシャ」
「パティア様、お久しぶりでございます」
黒髪の修道女が、目を伏せながら軽く会釈をする。
「名前を聞いた時に、もしやと思いましたが。どうしてあなたがここに?」
「それよりも」と、エイシャが交戦中の二人の方を見る。
「あれを先に止めてもらえないでしょうか」
身を屈め、上体を反らし、シリルの剣が描く幾つもの軌跡をルナは躱す。
そのうちに、建物の壁際まで追い詰められる。
「抵抗をやめて、おとなしく観念なさい」
剣を握った手とは反対の手を柄に添えて、シリルが鋭く剣を突き出した。
「はい、そうですかって――」
ルナは背中を見せて、壁に足を掛ける。
「それで斬られたら、たまったもんじゃないわよ」
壁を蹴って、その反動で飛びあがった。後方に宙返りしながら、シリルの頭を飛び越える。
突き出されたシリルの剣先が、壁を穿つ。
「シリル! やめなさい!」
パティアの制止の声に、シリルは目を見開いて振り返ると戸惑いの表情を見せる。
「しかし…!」
シリルは油断なく、剣を構え直す。
「彼女は味方よ。さっきの魔物とは、別人です」
言い放つパティアの傍らに立った黒髪の修道女を見て、ようやくシリルも二人が敵ではないことを理解した。
しかしまだ、二人を見るテオドラの目には恐怖の色が浮かんだままだ。
シリルは剣を収めたが、ルナに向けられるその視線は、彼女を信じ切ってはいない。
「いや、俺も初めて見たが。本当にそっくりだった。あれは、ウィルが間違えるのも無理はない」
呑気に言うシュタインに歩み寄りながら、ルナが睨む。
「間に割って入るなり、助けてくれてもよかったんじゃないの」
「ルナなら大丈夫だろ。それに、あの姉ちゃんの腕前も見たかったしな」
シュタインが間近で、ルナの顔を覗き込む。
「実はおまえ、双子だったりするんじゃないか」
「何よ、それ。気持ち悪い。そんなの聞いたこともないわよ」
悪態を付いてシュタインから視線を逸らしつつ、ルナは周囲を見渡した。
大通り沿いにある建物は破壊され、石畳も大きく削られている。とても激しい戦いがあったことは、その痕跡からも容易に窺い知ることが出来た。
「私も会ってみたいわね、その蝙蝠の化け物に」
自分で発した言葉に、ルナはふと引っ掛かった。
蝙蝠といえば、ヴァンパイアの眷属だ。ルナは蝙蝠の羽など生やすことはできないが、彼女自身も半分はヴァンパイアの血を引いている。
双子でないにしても、その化け物は自分の知らない血縁の者なのかも知れない。
ヴァンパイアだという父親のことは顔も知らない。母親に聞いても無駄だろう。ルナが母親の元にいた十四年間、それらしい者たちとの付き合いはなかったように思う。
その母親とも、もう一年も会っていない。
「後は姫様たちに任せるとして――」
シュタインが振り返って、病的にやつれた金髪の少女を見る。
「テオドラを連れて帰らないといけないが、彼女は重要な証人だ。まだ敵に狙われる可能性もある」
「そのことですが」と、エイシャが口を挟む。
「当面の間、王都で保護したいと思っております。彼女の身内にも、護衛を出した方が良いでしょう」
エイシャがゆっくりと、テオドラに歩み寄る。
テオドラの体がびくっと震えた。エイシャを見つめる瞳が怯えで揺れる。
彼女の前に立ったエイシャは、小さく頭を下げながらそっと目を伏せた。
「申し訳ありません、テオドラ。仕方がなかったなどと弁解はいたしません。あなたには酷いことをしました」
テオドラの瞳を、真正面からエイシャが覗き込む。
「それに、あなたには専門医の元で適切な治療が必要です」
「シスター・エイシャ…あなたは、いったい…?」
ドルネが困惑した表情をエイシャに向けた。
「彼女は、王国の宮廷魔術師よ」
パティアの言葉に、エイシャの身分を知るルナとリュカ以外の皆が、一斉に驚きの眼差しを彼女に向けた。近衛騎士のシリルでさえ、驚愕の表情でエイシャを見つめていた。
「シリルが知らないのも無理はないわ。エイシャは、兄様直轄の外事専門調査官――つまり、間諜なの。こんなところで会うなんて、思ってもいませんでしたが」
「私も、会うのは久々ね。エイシャ」
笑顔を向けるリュカに、エイシャはお辞儀で応えた。
「リュカ様はお変わりなく。いつもながら、とても四十に近いご年齢とは思えません」
リュカの左の眉が、ぴくっと跳ねる。
その事実を知るパティアとシリル以外の皆が、目を見開いてリュカを見つめた。
リュカが顔を真っ赤にして叫ぶ。
「四十に近くない。まだ三十五だ」
「四捨五入すれば、四十になります」
悪びれた風もなく言い放つエイシャを、顔を真っ赤にしたままでリュカが睨み付けた。
「…仲悪いの?」と、小声で問うルナに、パティアは二人が言い合うのを眺めながら微笑んだ。
「いえ、見てのとおりとても仲良しですよ」
頂点を過ぎて、傾きかけた日差しはまだ眩しい。
ルナは納得のいかない顔付きで、ウィンプルを目深に被り直した。
右肩が、まだひりひりと痛む。しかし、破れた修道服から覗くグレタに食い千切られた傷は、既に完全に塞がっていた。
シュタインに半ば強引に入学させられたアウレリア学院での学園生活は、不本気ながら、楽しくなかったかと言えば嘘になる。
しかし、楽しいことばかりではなかった。
自分の存在が、グレタの死を招いた。屍同然となったグレタに引導を渡したのも自分だ。その事実からは逃げられない。
いや、クラリッサたちを放っておいたら、グレタだけでなく、もっと多くの犠牲者が出ていたに違いない。悪いのは、「新世界」だということは分かっている。
それでも、グレタの死を、運命の一言では片付けたくない。
――せめて、グレタの魂だけは、安らぎの地に招かれますように。
信仰心を持たないが、ルナはそれを、名前も知らない神に祈った。
「そもそも、女の子に年齢を指摘するのはマナー違反よ!」
リュカの大声が、昼下がりのベルフェルの街に響いた。




