第二章 48:銀色の髪
黒い血飛沫が、石畳に落ちる。
致命的なダメージこそ与えられないが、シュタインの剣が着実にクラリッサの蛇身の尾を切り裂く。ウィルから奪った剣で対抗するが、シュタインの剣技に付いていくことができない。
振り下ろされたクラリッサの剣を、シュタインは身を翻しながら受け流すと、彼女の背後に回り込む。
逃れようとする尻尾に、シュタインが一撃を加えた。またもや黒い液体が飛び散った。
武器を封じられたクラリッサが、歯を食いしばって剣を薙ぐ。しかしすでにそこに、シュタインの姿はない。
切り刻まれて今にも千切れてしまいそうな尾を、彼女は体に巻き付けて抱き込んだ。
「…もはや、ここまでか」
クラリッサが呟いた。一瞬だけ、その瞳が物憂げに沈む。
「さっきまでの威勢の良さはどこにいった」
煽るシュタインを、クラリッサが顔を上げて血走った目で睨んだ。
「その剣では、私を殺すことはできぬぞ」
「分かってるさ」と、シュタインが口の端を吊り上げて、剣を構える。
「ここで足止めして、時間稼ぎができれば十分だ」
――援軍か。
クラリッサは、昨夜の銀髪の少女のことを思い出した。
彼が、あの少女を伴って学院に姿を現した時点で、この結果は避けられなかったのかも知れない。
偽名を使って目の前に現れたときは、彼が「シュタイン」と呼ばれる、組織にとっての要注意人物であるということには気付かなかった。
シュタインが何者なのかは分からない。少なくとも、それを知っている者を知らない。
彼女が知っていることと言えば、大陸でなんらかの事件が起きた時に、その名前を名乗る何者かが裏で関与しているということ。
そしてそれが、数十年、いや数百年前から噂されているということだ。
数百年前のシュタインと、今目の前にいるシュタインが同一人物というわけではないだろう。人間が、そんなに長く生きられるわけがない。
彼が何者であるのか、そんなことはどうでもいい。
問題なのは、そのシュタインが、自分たち「新世界」を邪魔立てしているという事実。その一点だ。
「あなたはどうして、私たちを妨げるのですか。力ある存在を忌み嫌い、迫害する、この世界の権力者の言いなりになって」
クラリッサの言葉に、シュタインはすっと目を細めた。表情からにやついた笑みが消える。
彼は腕を薙いで、付着したクラリッサの体液を振り払って剣を下ろした。
「力を否定はしないさ」
シュタインが、冷ややかにクラリッサを見据える。
「それに、力が有ろうが無かろうが、この社会の体制から爪弾きにされる人間はいる。対象は変わっても、それはいつの時代でも同じだ」
「ならば、問う」
人々が消え、静まり返った大通りに、クラリッサの声が響き渡る。
「それに抗うのは、罪ですか?」
ウィルの治癒の手を止めて、パティアが立ち上がった。彼女の背後には、少し落ち着きを取り戻した様子のテオドラの姿もあった。
「そんな身勝手な理由で、罪もない者たちを殺したというの。あなたたちが王都でやったことは、断じて許されることではありません」
仁王立ちのパティアを、クラリッサが睨み返した。
「お前たちこそ、ただ力を持って生まれてきた子供たちを、魔物と称して迫害しているではないですか。彼ら、彼女らに、なんの罪があるというのですか」
「魔物は人に仇成すもの。放っておけば、必ずや災いを引き起こすに決まってるわ」
さも当然のことだと言わんばかりに、パティアが高らかに言う。
「私たちにしてみれば」と、クラリッサの全身の鱗が、ぎしぎしと軋むような音をあげて逆立った。
「災厄は、お前たちの方だ」
クラリッサの体が激しく振動する。
さらに鱗が立ち上がるのを見て、シュタインが慌てて叫んだ。
「何か来るぞ。下がれ!」
急いでウィルに肩を貸そうと屈み込んだパティアは、カツカツと乾いた足音を聞いた。
振り向こうとした彼女のすぐ傍を、すっと真っ黒な人影が通り過ぎた。漆黒のマントに身を包み、目深にフードを被ったその人影は、ゆっくりとクラリッサの方に近付いていく。
パティアは振り向きかけた姿勢のままで、固まっていた。背筋が凍り付いて動けない。
フードの隙間から、銀色の髪が流れる。
彼女を見て、クラリッサが目を見開いた。
「――あなた様は」
「クラリッサ」と、彼女は静かに見据える。
「ここで死ぬ必要はない。一旦、退きなさい」
甲高い、凛とした声。
ウィルが息を呑み込んだ。その姿を、忘れるはずがない。
「あの時の…!」
王都で、彼が巻き込まれた事件。教会の地下墳墓の跡地で、手負いのマルセラに止めを刺そうとしたウィルの前に立ちはだかった、あの銀髪の女性だ。
身構えながら、シュタインが銀髪の女性を窺う。
「――ルナ、じゃあねえな」
シュタインの目に、わずかに動揺が走る。
「…なるほど。確かにそっくりだ」
嵐が過ぎ去った直後の水面のように、クラリッサの逆立った鱗が静かに凪いでいく。彼女の蛇身の尾が変形して、刀傷でずたぼろの人の脚を取り戻した。
「当代様は…?」
「構わずとも良い。この街は捨てる。もう十分に実験データは集まった」
クラリッサを一瞥すると、銀髪の女性はすぐに視線をシュタインに向けた。
「あれが、調和させし者か」
「…はい。おそらく」と、クラリッサが神妙に頷いた。
銀髪の女性が、一歩踏み出す。ゆっくりと左腕を持ち上げると、シュタインに向かって手を伸ばした。
小さな衝撃波が、伸ばした手の先で弾けた。空間が歪む。
「本物かどうか、試させてもらおうか」
慌ててシュタインが、真横に跳んで身を翻す。
彼女の伸ばした手の先から発せられた圧力が、石畳を削り、間の障害物をことごとく破壊しながらシュタインに襲いかかった。
圧力はシュタインを掠めて、その軌跡は石畳を削り取りながら真っすぐに突き抜ける。
激しい破壊音を響かせて、大通りの奥の建物の壁に大きな穴を開けた。瓦礫が散乱して、さらに奥の方へと吹き飛んでいく。
シュタインが掠めた左肩を押さえて、通りに転がる。
伸ばしたままの手の先から、続けざまに幾本もの光の帯が放たれた。
シュタインは顔を動かさずに目線だけで、ウィルたちと、周囲の状況を瞬間的に確認する。そして跳ねて体を起こすと、光の帯を走って躱した。
逃げるシュタインを追いかけて、さらに光の帯が放たれる。
御者も繋ぎ止めた馬もいない、荷台のみが置かれた馬車の後ろに、滑り込むようにシュタインが身を隠した。
――ィィイィィィィ!
光の帯が宙空を切り裂いて、荷台を破壊した。
激しい衝撃音が響き渡る。粉々になった荷台の破片が四方に飛び散り、さらにその後ろの建物をも穿つ。
パティアがはっと息を呑む。
咄嗟に立ち上がろうとしたウィルに気付いて、彼の服の裾を掴んだ。
「シュタインさんが…!」
振り向いたウィルと、パティアの視線がぶつかる。
「…駄目。殺されちゃう」
彼女の瞳が、悲壮の色に染まる。
「――動くな。じっとしてろ」
二人の背後から、シュタインの声がした。
驚いてウィルとパティアが同時に振り返ったが、そこは何もない空間があるだけで、誰もいない。
突如、背中の後ろに生まれた気配に気付いて、銀髪の女性が身を翻した。
突き出された剣先が、彼女のマントを斬り裂いた。
振り向こうとした彼女に、シュタインが追撃を繰り出す。
彼の斬撃が、銀髪の女性の右肩を正確に貫いた。――はずだった。
シュタインは違和感を覚えた。まったく手応えがない。
銀髪の女性の右肩が、霧のように霞む。彼の剣は、彼女を捉えていない。
後ろに跳んで距離を取ろうとする彼女に、シュタインは逃がすまいと迫る。
「…妙な技を使う」
シュタインの剣を避けながら、銀髪の女性が冷ややかに彼を見る。
「お前こそ、な」と、シュタインはさらに踏み込んだ。
彼の剣が何度か銀髪の女性を掠めて、靡くマントを切り裂く。銀髪の女性は下がりながらも、その視線はシュタインから離れない。
何処かに逃げ果せたのか、既にクラリッサの姿は消えていた。
その時、シュタインが何かに気付いて、追うのをやめて後ろに跳んだ。
反撃の機会とみて、銀髪の女性が腕を伸ばそうとした、その瞬間――。
轟音とともに、彼女の全身が炎に巻かれて、包み込まれた。
振り向いたシュタインの視線の先で、白い髪の幼い顔立ちの少女が真っすぐにこちらを見据えて詠唱を続ける。金色の刺繍で縁取られた黒いマントの胸元には、王国の紋章が縫い付けられていた。
炎は彼女の詠唱に応えるように渦を巻き、紅蓮の竜巻となって空へと噴き上がった。
「おぉ、すげえな」
他人事のように、シュタインが感心の声を漏らした。
「大丈夫ですか、パティア様」
王女の名前を呼びながら、女性が駆け付けて来る。
普段の侍女の格好ではなく、重厚な鎧を身に着けた彼女は駆け寄ると、そっとパティアの肩に手を触れた。
「遅いわよ、シリル」
恨めしそうに言うパティアだったが、その声は安堵を隠し切れない。
「勝手に逃げ出したのは、姫様の方でしょうに」
シリルはパティアが無傷なのを確認して、ほっと胸を撫で下ろした。
ウィルの父親、オルヴァン・フェルナーから使いの者を通して連絡があったのと、港湾都市ペルセイドに駐留していた軍船をパティアが動かしたとの報告が上がったのがほとんど同時だった。今、この場で、第二王女の安否を確認するまで、シリルは気が気ではなかった。
白い髪の少女、――宮廷魔術師のリュカも駆け寄って来た。
「ウィル、怪我してるじゃない」
心配そうな顔を、唇が触れそうなほど近付ける。
二人を見るパティアが、不機嫌そうに眉を寄せた。
その時、炎が弾け散って消えた。真っ黒な塊が、焼け焦げた石畳の上に残されている。
塊に、亀裂が走った。
それは折りたたまれた、巨大な蝙蝠の羽だった。
銀髪の女性は背中に生やした蝙蝠の羽を広げて、ばさりと羽ばたく。彼女の体が、宙に浮いた。
一同に、再び緊張が駆け抜ける。
「――調和させし者よ。この借りは、必ず返させてもらう」
銀髪の女性はそう言い残すと、蝙蝠の羽を力強く羽ばたかせて空高く舞い上がった。
「まさか、あれを耐えたの…!」
リュカが驚愕の表情を浮かべて、ウィルから離れて大通りに駆け戻る。
彼女が、空に向かって腕を伸ばした。
しかし既に、銀髪の女性は飛び去った後だった。その姿は、小さな点にしか見えなくなっている。
「…届かないか」と、リュカが呟いた、その瞬間。
街の離れた場所から、ひとすじの光線が空に向かって一直線に伸びた。




