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第二章 47:穴

 陽光を反射して、割れたガラスの破片がきらきらと光る。

 中庭に飛び出したルナに馬乗りになったグレタが、両腕で彼女の首を絞める。

 ルナはその腕を掴んで引き剥がそうとするが、微動だにしない。体を捻って足掻いても、グレタを振り解くことができない。

 ルナの顔がうっ血して紅潮しはじめた。遠ざかりそうな意識を、必死の思いで奮い起こす。

 霞む視界に、口をぽっかりと開けたグレタが見えた。

 空洞の奥からだんだんと光が迫ってくる。

 ――この距離はやばい。

 ルナは力を振り絞るが、もう腕にほとんど力が入らない。

「…ご…めん。グ…レタ…」

 消え入りそうな意識の中で、手に魔力を集中させる。

 焦げる臭い。

 その次の瞬間、バチンと弾けた。

 ――ゴグワアアアァァォォォォォ!

 グレタが体を仰け反らせた。

 馬乗りになったグレタを退けて、ルナは体を回転させてその支配から逃れた。

「…ゴホッ、ゴホッ」と、息を吸い込んだルナが咳き込んだ。

 急速に意識が回復する。深呼吸しながら、ゆっくりと上体を起こした。

 グレタが咆哮をあげながら両腕を掲げる。その手首から先が焼き切れて、失われていた。

 切れ落ちた自分の手を踏みつけて、グレタがゆらりと立ち上がった。ぐしゃりと骨が砕ける音が聞こえた。

 ぶら下げた両腕が地面に付きそうなほど腰を低く下げて、虚ろな瞳をルナに向けた。

 ――いつか、私も連れて行ってよ。広い世界で、嫌なこと全部忘れて。エリーとだったら、どこに行っても、何があっても、きっと楽しそう。

 そう言って羨望の眼差しを向けていたグレタは、もう此処にはいない。

 ルナは小さく詠唱し、グレタに向かって手を伸ばしたが、思わず躊躇する。腕からふっと力が抜けた。

 不意に背後から、詠唱が聞こえてきた。

 突如、渦巻くように現れた大量の水が、グレタの全身を包み込んだ。

 水泡を吐くグレタが、彼女を包み込んだ巨大な水塊ごと宙に浮く。

 ルナが振り返る。ウィンプルを首の後ろに垂らした、長い黒髪の女性が厳しい顔付きで立っていた。

「知っているでしょう」と、女性が叫ぶように言った。

「こうなったら、もう元には戻れないのよ。殺してあげるのが、せめてもの弔いよ」

 水塊の中で、グレタが苦しそうに藻掻く。

「エイシャ…先生?」

 現れた人物の正体に思い当たって、ルナは身構えた。

 鐘楼の前で、ルナたちに手を引くようにと脅した。そして、クラリッサに引き合わせたのも。

 彼女は、敵だ。

「敵じゃないわ」

 ルナの視線に気付いて、エイシャが機先を制する。

「…と言っても、すぐには信じてもらえそうにないでしょうけれど」

 水面越しに、グレタの姿が歪む。ひと際大きな水泡が、彼女の口から溢れた。

「私は、マリオール王国宮廷魔術師がひとり、エイシャ・フェルノア。事情は後で説明するわ」

 水塊から水蒸気があがる。

「…分かった。今は、敵じゃないってことで納得しておく」

 ルナが水塊に視線を戻す。

 苦悶の表情を浮かべたグレタの体から、青白い光が発せられた。

 ――じゅうううううぅぅ。

 水塊が爆発するように、一気に蒸発した。大量の水蒸気で何も見えない。

 高温の水蒸気が、ルナたちをも襲う。ルナもエイシャも、腕で顔を庇った。

 どさりと、何かが地面に落ちる音。

 次第に晴れていく水蒸気の奥に、それは立っていた。

 全身が真っ赤に焼け爛れ、所々皮が破れて筋肉が露出している。かつては、グレタだったもの。

 その足が、覚束なく一歩、踏み出した。

 瞳から、ひとすじの血が流れ落ちる。

「…タスケ…テ…エリー…イタイ…ヨ…クル…シイ…ヨ…」

 風に掻き消されそうなほど、それはか細い声で鳴く。

 ルナは思わず駆け出した。

「だ、駄目よ!」と、その背中にエイシャが叫ぶ。

 しかし、ルナは足を止めない。

 グレタの前まで駆け寄ると、彼女の目の前で立ち止まった。

 そして腕を広げて、焼け爛れた彼女の体を抱き締めた。

 グレタの体がびくりと震える。

「…エリー…エ、リー…。エリ…エエエエエ…ケケケケケ」

 おぞましい奇声をあげながら、グレタがルナの右肩に噛み付いた。

 修道服ごと、ルナの肩の肉を噛み千切る。

 ルナはわずかに眉を顰めたが、それ以上は表情を変えない。

 抱き締めた腕を降ろすと、押し戻すようにそっとグレタの胸に手を当てた。

「さよなら、グレタ」

 ほんの一瞬だけ、二人の間で眩い光が発散した。

 力を失ったグレタの体が、ゆっくりと後ろ向きに倒れる。その胸元には大きな穴が穿たれていた。

 空洞から漏れ出た青い炎が、グレタだったものを静かに包み込む。

 それはまるで彼女を浄化するように、その体を燃やした。

 ルナは振り返ると、呆然と立ち竦んでいるエイシャに歩み寄った。

 その目からきらりとひとすじの光が零れ落ちた。しかしその眼光は、鋭くエイシャに向けられていた。

「エイシャ先生、事情を話してください。――そして、誰が彼女を陥れたのか。教えてください」

 ルナはこぶしを強く握り締めた。


 皮膚を喰い千切られて組織が露出したルナの肩に、エイシャが手を当てようとする。

 ルナはその手を、左手で押し留めた。

「治癒は必要ないわ」

 エイシャが眉を寄せて、ため息を吐いた。聞き分けの無い子供を見るような目で、ルナを見る。

「感傷的になっているようだけど、ちゃんと治療しないと痕が残るわよ」

「そんなんじゃないから、構わないで」

 生徒たちを避難させる教師たちを横目に、二人は校舎の中を進む。

 幾つかの部屋を巡りながら、エイシャはすれ違う教師や修道女をちらりと窺う。声を掛けてくる教師もいたが、エイシャは軽く手を挙げてそれを制した。

 足を止めずに、エイシャが言う。

「名乗った通り、私は宮廷魔術師よ。国王の密命で、各地に潜入調査している者の一人なの。本当はこうして身分を明かすのはご法度なんだけど、この事態じゃそうもいっていられないし」

 エイシャの半歩斜め後ろを、ルナも早足で付いて歩く。

 ルナは自身の右肩を一瞥する。すでに新しい皮膚が再生を始めていた。

「それに――」と、エイシャが振り向く。

「パティア様のお連れなんでしょ。どういった立場なのかは知らないけれど、あなたのような人がいるなんて知らなかった」

「それに関しては、説明しづらいんだけれど。とりあえずそういう認識でいいわ」

 ルナの曖昧な答えに、エイシャが怪訝そうな視線を向ける。

 そして、ふっと息を吐いて視線を戻した。

「国王様やアレクシス王子のご苦労も推して知るべし、…本当に、パティア様には困ったものね」

 それからも、エイシャは階をまわって幾つかの部屋のドアを開ける。

 その度に、彼女の顔が曇っていった。

「いつまで歩き回るつもりなの」

 不満げな視線を向けるルナを意に介さず、エイシャは苛立ったように舌打ちをした。

「…いない。誰も」

「誰かを探しているの?」

 二階の廊下の端で、エイシャが立ち止まった。その表情が険しく歪む。

「誰もいない。私が、敵性勢力と見做していた修道女が、誰ひとりいなくなっている」

 エイシャが振り返って、ルナを見た。

「マザー・リオティネも」

 彼女の瞳が、何かを思考して揺れる。腕を組んで頬に手を当てた。

「あなたも、その敵性勢力のひとりじゃないの」

 ルナの言葉を聞いて、エイシャは彼女を睨んだ。

「違う…と、きっぱりと言いたいところだけれど。深く潜り込んでいたのは事実よ。信頼を得るために、何人も見殺しにしたわ」

「私のことも、見殺しにしようとした」

「いえ」と、エイシャが口の端を釣り上げて笑みを見せた。

「あなたなら、なんとかするだろうって思っていた」

 そして、彼女は窓の外に視線を向ける。

「教会に急ぎましょう。残りの修道女たちも気になるわ。パティア様のことも」

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