第一章 6:若きウィルと動く死体
「白亜の城」パール・キャッスル。
海水を引いた堀の向こう側に、二重の真っ白な城壁が見える。日の光を受けて輝くその姿は、まるで深い海の底から浮かび上がる真珠のようだった。まさしく王都の象徴に相応しい。
ウィルがようやく王城近くの警備兵の詰め所に着いた時には、すでに太陽が頂点を過ぎて下りに差し掛かっていた。焦る気持ちを抑えて、ウィルは詰め所を覗いた。
詰め所のなかには複数名の警備兵の姿があった。
「あの、すみません」と、声をかけたウィルに、ひとりの警備兵が気付いた。
「どうしましたか?」
「人を探していまして。ヴァレンという近衛兵の方がどこにいらっしゃるかご存じありませんか?」
目の前の警備兵が腕組みをして唸る。
「ヴァレン、ねえ…」
すると、詰め所の奥にいた年配の警備兵が振り向いてウィルを見た。
「ヴァレン、というと、レオン・ヴァレンのことですかな」
「多分、その方だと思います」
答えたウィルに、年配の警備兵が近づいてくる。近くにいた警備兵が、彼のために場所を開けた。
「なんのご用件かな」
「父に頼まれまして。この手紙を、ヴァレンさんに渡すようにと」
ウィルが鞄から取り出した封蝋で封印された手紙を、年配の警備兵が訝しげに見る。
「君の父親の名前は?」
「はい。オルヴァン、オルヴァン・フェルナーです」
年配の警備兵の顔が一瞬で曇る。
「オルヴァン・フェルナー、だと…。まさか、君はあの人の息子さんなのか」
そして、彼は食い入るようにウィルの顔を覗き込んだ。
「偽りではないだろうな」
ウィルは思わずたじろいだ。
「その人って、有名な方なんですか」
まだ若い警備兵の問いかけに、年配の警備兵が振り向いて答えた。
「ああ。有名人だ。…良くも、ある意味では、悪くも、な」
含みを持ったような言い方に、若い警備兵が眉根を寄せる。
年配の警備兵はウィルの方に向き直った。
「どこにいるかはわからないが、ヴァレン邸を訪ねるといい。きっと会ってくださるだろう」
手書きの地図をもらって、ウィルは詰め所を後にした。
父親がかつて王都に住んでいたことは知っている。しかし何をしていたのか、どんな仕事をしていたのか、まったく聞かされていない。考えたことがないわけではない。その後、山間の小さな村でひっそりと暮らしていたことを考えれば、王都で何かがあったのだろうということは想像がつく。なんとなくだが、母親が関係しているような気がする。だからこそ母親の死をきっかけに、再び王都の近くに越してきたのだろう。
どうやら知る人ぞ知る有名人らしい。父親のことは尊敬している。自分を育ててくれたというだけではなく、その幅広い知識や、剣技の腕前、そして父親としての厳格な優しさを。だから何を知らされることになっても、その信頼は揺るがない自信があった。
地図と実際の通りを見比べながら、ウィルは目的地であるヴァレン邸に向かう。
角を曲がった辺りで、ふと人通りが途絶えた。
先ほどまで賑やかだった石畳の通りが、まるで別の世界に迷い込んだかのように静まり返る。
その時だった。空気が流れる音と、微かな金属音が聞こえてきた。
ウィルは瞬間的に身をひるがえした。
ひゅんと空気を切る鋭い音が響く。ウィルがさっきまでいた場所に剣が振り下ろされていた。
ウィルは身を低くして、背後の男に体当たりをする。
よろめいた男は、なんとか踏みとどまって、ゆっくりと剣を正面に構えた。
「さっきの…」と、ウィルは思わず目を丸くした。
ウィルの背後から剣を振り下ろしたのは、先ほど詰め所にいた若い警備兵だった。
男が剣を振り上げて、無言でウィルに迫る。その瞳は濁ったような灰色だった。
再び振り下ろされた剣を、ウィルはすんでのところで躱し、その背中に強烈な蹴りを叩き込む。男は吹き飛び、頭から地面に叩きつけられた。
注意深く様子を窺うウィルの視線の先で、男はゆっくりと上体を起こすと、四つん這いで、まるで獣のように低く唸る。唾液が、口元からだらりと落ちた。
「キャーッ!」と、甲高い悲鳴があがった。ウィルが視線を向けると、口元を押さえて震える若い女性の姿があった。
男が四つん這いのままで、女性に顔を向けた。
「しまった…!」
ウィルが慌てて駆け出すが、間に合わない。
獣のような走り方で、男が女性に襲い掛かった。
女性は一歩も動けずにいる。その目が絶望感に見開かれた。
男が、女性に飛びかかろうとしたその瞬間。ふと男の動きが止まった。
ぐちゃ、と嫌な音が響いた。男の目が飛び出し、体が醜く膨れ上がる。
それは断末魔のように咆哮を上げると、どさりと地面に落ち、動かなくなった。
女性の後ろから二人の警備兵が駆け込んでくる。
「これは…、いったい…」
震えながらその場にへたり込んでいた女性を介抱しながら、警備兵が呟く。
もう一人の警備兵が、ウィルの方に駆け寄ってきた。
「おい、大丈夫か」
「ええ。なんとか」と、ウィルは深く息をしながら答えた。二人の警備兵に見覚えがあった。襲ってきた男と一緒に、詰め所にいた警備兵だ。
ウィルは緊張感を緩めずに、二人の警備兵の挙動を窺う。
「何があった?」
問う警備兵に、未だ警戒したままでウィルは答えた。
「詰め所にいた、警備兵に襲われました。理由はわかりません。それが、彼女に襲い掛かったと思ったら、突然こんなことに」
二人の警備兵は腰に剣を携帯している。ウィルは用心深く、彼らから視線を外さない。
警備兵が目を瞑って、天を仰いだ。しばらくして視線を落として、ウィルを見た。
「様子が、変だったんだ。君が出て行ってから、奴がぶつぶつと何やら呟きはじめたかと思うと、いきなり詰め所を飛び出した。我々は、慌ててそれを追った。まさか、こんなことが…」
戸惑いを隠せずに警備兵は言うと、かつては人間であったはずの、醜い肉塊を見る。
飛び出た眼球が、ぎろりと自分を睨んだような気がして、ウィルは思わず身を引いた。それは今にも動き出しそうに見えた。
女性の介抱を終えた警備兵が肉塊を、目を細めて遠巻きに見る。
「…似てる」と、ぽつりと呟いた。「昨夜の、あれに…」
「今朝、言ってた、あれか」
同僚の言葉に、警備兵は頷いた。
応援の警備兵たちが駆けつけてくる。彼らは肉塊から人々を遠ざけるように誘導をしながら、さらに増援の要請をかけていた。
いつの間にかウィルも、人ごみの外側に押し出されていた。
「なんの騒ぎかしら」
視界の外から聞こえてきた声に、ウィルは無意識に振り向いた。
年のころは十八、九。自分と同じぐらいだろうか。金色の、緩くウェーブのかかった髪が、柔らかくその華奢な体に落ちている。大きな瞳が、人ごみの向こうにいる警備兵たちに興味津々に向けられていた。
「駄目ですよ」と、彼女の隣にいる女性がたしなめる。侍女の格好をしているが、ウィルには、その凛とした立ち姿がまるで凛々しい剣士のように見えた。
警備兵の一人が、侍女に気付いて、慌てて駆け寄った。
「シ、シリル様…」と、彼女に何やら耳打ちする。
シリルと呼ばれた侍女の目が一瞬、見開かれると、次の瞬間には鋭く見据えられる。
そして警備兵とともに、人ごみの中に割って入っていった。
「あなた、何か見た?」
金色の髪の女性が、ウィルを食い入るように見つめて問う。
その青い大きな瞳に見つめられて、ウィルは思わずたじろいでしまう。
「さあ、戻りますよ」
いつの間にか戻ってきていた侍女が、金色の髪の女性の腕を引く。
彼女は不服そうにぷくっと頬を膨らませたままで、街の奥の方へと引っ張られていった。
そんな二人を見送ったあと、ウィルはしばらく呆然とその場に立ち尽くしていた。しかし警備兵たちがすでに自分への興味を忘れているのを察して、あらためて目的地であるヴァレン邸に向かうことにした。




