第二章 43:演説と対決
大講堂に、四つの寮すべての生徒たちが集められた。
修道服姿の教師たちと、二百人以上の生徒たちで埋め尽くされている。彼ら彼女らの話し声が大講堂内で反響して、ざわめきがまるでひとつの生き物の声のようにも聞こえた。
ツインテールの女子生徒が、旧知の友人のような口調で隣のルナに話しかける。その話に適当に合わせながら、ルナはさりげなく周囲に視線を巡らせた。
見える範囲に、グレタの姿は見当たらない。
エーデルと一緒なら問題はないか、と自分に言い聞かせて、ルナは隣の女子生徒に愛想笑いを向けた。
しばらくすると、急に大講堂の端の方が静まり返った。
静けさが波のように、生徒たちに伝播していく。ルナが静まり返った方向を見ると、老齢の修道女が別の修道女に手を引かれて、ゆっくりと大講堂の演壇に向かって歩いていた。
彼女が静けさの波の中心のようだ。その移動に伴って、静寂が大講堂内に広がっていく。
老齢の修道女が演壇に通される。付き添っていた修道女が彼女に目を伏せて一礼すると、そっと大講堂の端に控えた。
生徒たちの視線を一身に浴びたまま、老齢の修道女は大講堂内を落ち着いた素振りで見回す。
静まり返った大講堂内に、彼女の良く通る声が響いた。
「皆さん、ご機嫌麗しゅう。一年生の皆さんは、初めましてですね」
そして、その温和な顔に優しげな笑みを浮かべる。
「校長の、リオティネ・ブランシェットです。またこうして皆さんの元気な姿が見られて、私はとても幸せです」
――マザー・リオティネ。
大陸では、伝説といっても良いほどの偉人だ。その彼女がこうして目の前にいる。
周囲の緊張も伝わってきて、ルナでさえ思わず身震いする。
「この幸せは、とても脆いものであり、紙一重の幸運で与えられているということを、私たちは忘れてはいけません」
リオティネはその表情から笑みを消すと、遠い目で生徒たちの頭上を眺めた。
「この度の視察でも、兵士たちによって焼かれた村や町をいくつも見てきました。皆さんの中にも、家族や故郷を失った者もいることでしょう。この世界では、未だに同じ悲劇が繰り返されています。これは、とても嘆かわしいことです」
生徒たちは静かに、リオティネの言葉に聞き入っている。
「自らを正しく律することは日々における修練のうちの一つですが、正しさは自分の心の中だけのものです。誰かに正しさを語ることは、私にはできません。ましてや正しさを押し付けることなど、あってはならないことです。正しさの押し付け合いこそ、争いの火種となり得るものだからです」
リオティネは言葉を切って、生徒たちをゆっくりと見回した。
まるで生徒一人ひとりの瞳を覗き込むように、じっくりと時間をかけて反応を窺う。
「必要なのは、正しさではありません」と、自身の胸に手を当てた。
そして、目を伏せて微笑む。
「――愛、です」
リオティネは視線を上げると、胸の前で手を組んだ。
「愛を以って接すれば、隣人とも解り合うことができます。たとえ問題が起きたとしても、お互いの根底に愛があれば、決定的な破局に至ることもありません。必要なのは、愛なのです」
大講堂内に感嘆の声が漏れる。
リオティネは満足そうに頷いた。そして、すぐに顔色を正す。
「ですが、愛だけがあれば良いというわけではありません」
彼女は真剣な眼差しを、生徒たちに向けた。
「愛のない力は、ただの暴力です。力のない愛もまた、無力です。マリセア様の教えにもありますように、そしてこのアウレリア学院の目的でもあるように、ぜひ皆さんには愛を守るための力も身につけてもらいたいと思っています」
ルナは目を細めて、リオティネに射るような視線を向けた。
彼女の言っていることは、理解はできる。だが、何かが引っ掛かる。
リオティネが巡らせた視線が一瞬、自分を見た気がした。ルナの背筋に寒気が走る。
「それは武技であったり、知識であったり。皆さんそれぞれが力を持って、この世界に愛を広めてくれるよう期待しております。私たちの手で、新しい世界を築きましょう」
腕を広げて言うリオティネを、大講堂が割れんばかりの拍手が包み込んだ。
感極まって泣き出す女子生徒の姿も見える。ルナも周囲に合わせておざなりに拍手をしながら、演壇から降りるリオティネを見送った。
端で控えていた修道女が先導して、リオティネが大講堂を後にする。
拍手が鳴り終わるのを見計らって、教師のひとりがパンパンと手を叩いた。
「さあ、次の授業の準備に取り掛かって。定刻どおりに始めますよ」
生徒たちはざわめきを取り返して、思い思いに戻り始める。
「エリー。やっと見つけた」
戻ろうとしたルナに、不意に声が掛かった。
彼女が振り向くと、三年生のアズリオが安堵した表情で立っている。
「俺たちは、こっちだ」
アズリオが親指で指し示した方を覗くと、エーデルや、彼女に肩を貸すロゥをはじめとして、見知った顔が揃っていた。交流戦の選抜メンバーたちだ。
「リオティネ様のブランチに招待された。粗相のないようにな」
笑顔で言うアズリオの顔は、どこか緊張で引き攣っているように見えた。
校舎の一階、中庭に面した広間に、アズリオは仲間を案内する。
普段は教員たちの会議室として使っているこの部屋の長いテーブルには、今日は清潔な白いテーブルクロスが張られていた。
窓際にアズリオたち三年生と、二年生の女子生徒が座る。残りの二年生と、ルナたち一年生は、部屋の入り口に近い席に座った。空いている席は、あと二つ。
ルナは、隣に座るエーデルの耳元で囁く。
「…理由は聞かないで。もし私が合図したら、何も考えずに前面に防御魔法を展開して」
振り向いたエーデルが、不思議そうにルナを見た。
ルナは真っすぐに、無人の中庭を眺めている。
「…分かりましたわ。あなたが言うんだから、何か理由があるんでしょう」と、エーデルが小声で応じた。
その時、ドアが開いた。アズリオがさっと立ち上がるのを見て、一同もそれに倣って一斉に席を立つ。
開けたドアを支えている修道女の脇を通って、リオティネがゆっくりと部屋に入ってきた。
遅れて席を立とうとしたルナの方を見て、彼女は優しげに微笑んだ。
「大丈夫。そのままで結構よ」
そして、部屋にいるフォルティトゥド寮の面々を見回した。
「皆さんも、お座りになって。そう畏まらずに」
修道女に先導されながら、リオティネがテーブルの上座に向かう。修道服の裾を小さく払いながら、椅子に腰掛けた。
修道女も空いていたアズリオの隣の席に座った。それを確認して、アズリオたちも座る。
「今年の交流戦の優勝はフォルティトゥドでしたのね」
落ち着いた口調で言いながら、リオティネが組んだ手をテーブルの上に乗せた。
「おめでとうございます。昨日の今日で、皆さんお疲れのところごめんなさいね」
「いえ。こちらこそ、お目にかかれて光栄です」
アズリオが代表して、リオティネに答える。
ドアが開いて、食事が運ばれてきた。籠に乗った山盛りのパンに、マッシュポテトとチーズ。各自の前に、小皿とティーカップが置かれた。
配膳を待って、リオティネが笑みを見せた。
「さあ、いただきましょうか」
それぞれで自分の分を取り分けて、和やかにブランチの時間が過ぎていく。
「アズリオは二年ぶりですね」
リオティネが温和な笑顔で声を問い掛ける。
「はっ、はい。俺を、…あ、いや、私を覚えていてくれているんですか」
アズリオの緊張の度合いは、他の誰よりも大きい。背筋をぴんと正して、椅子に浅く腰掛けている。
「二年ぶり?」と、エーデルが思わず眉を顰めて聞き返した。
アズリオは罰が悪そうに、一年生の方を見て小声で言う。
「昨年はプルーデンティアに負けて、二位どまりだったんだ」
「もちろんですよ」と、リオティネがティーカップを置きながらアズリオに笑みを見せる。
「あの子は元気かしら。ええと、ほら、…そう、ラインハルト。とても面白い子でしたけど」
「はい」と、アズリオは頷いた。
「今、彼は寮生代表をやっています」
会話が続く中、ルナは一切、食事には手を付けずに、大人しく鳴りを潜めていた。
昨夜のこともあった。エイシャから、クラリッサの出した食事には絶対に手を出すなと言われた。その言葉が引っ掛かって、まったくもって手を付ける気にならない。
周囲を見る限り、毒などが盛られている様子は見受けられないが。
そんなルナに気付いたリオティネが、ふと彼女の方を見る。
「あら、どうしたの。あなたは食べないの?」
ルナがそっと小皿を押し出しながら、リオティネに冷ややかな視線を向けた。
「リオティネ様。お尋ねしたいことがあります」
小首を傾げるリオティネから、ルナは視線を外さない。
――もう学校ごっこは終わりだ。
「あなたは一年生の子? お名前は?」
問い返す彼女を見据えたままで、ルナはウィンプルを脱いで銀色の髪を顕わにする。
一瞬だけ、リオティネの瞳に陰りが走ったように見えた。
「名前はなんだっていいわ。聞きたいのは、シスター・マルセラのこと。――そして、クラリッサも」
「お、おい。エリー」と、立ち上がろうとしたアズリオを、リオティネがそっと手で制した。
ルナを見る彼女の目付きが、笑顔のままですっと細められる。
「シスター・クラリッサが、どうかしましたか?」
鬼が出るか蛇が出るか。ルナは短く息を吸った。
「昨夜、襲われたわ」
きっぱりと言い切って、ルナは試すようにリオティネを窺う。
その言葉に、部屋にいる誰もが言葉を失った。ただ一人、マザー・リオティネを除いては。
「何があったのか、きちんと話してください」
リオティネの顔から笑みが消えて、厳粛な面持ちでルナを見据えた。
「話すも何も、言葉どおりよ。すでに教会には、王国の調査が入っているわ」
ルナの言葉に、がたんと音を立てて付き添いの修道女が立ち上がった。
「教会を見て来ます」
修道女がリオティネに一礼して、駆け足で部屋を出て行った。
他の寮生たちの、ルナを見る目付きが変わる。ある者は疑心に駆られ、ある者は委縮した視線を向け始めた。
「あなたは王国の手の者なのですか」
リオティネが、ルナを見据えて静かに問う。
ルナはわずかに腰を引きながら、口の端を釣り上げて見せた。
「…そうだとしたら、どうするつもり」
リオティネがテーブルの上の手を組み直す。
「あなたの言うことが、もし事実であるのならば。まずはシスター・クラリッサに会って、事の次第を確かめなければなりませんね」
「ふん」と、ルナはその言葉を鼻で笑った。
「クラリッサは魔物だったのよ。まだ状況が理解できていないようね」
「…エリーが、その状況を説明していないからじゃなくて?」
隣から、エーデルが小声でつっこみを入れる。
ルナは彼女を横目で睨むと、咳払いをしてリオティネの方に向き直った。
「魔物、ですか?」と、リオティネが驚いたように目を見開いた。
彼女は口元に手を当てると、何やら思案顔で視線を落としてテーブルを見つめる。
ルナが見つめる先で、リオティネはふと視線を彼女に戻した。
「おそらくそれは、シスター・クラリッサに化けた魔物でしょう。私は彼女を幼い頃より知っていますが、決して魔物などではありませんから」
「では、マルセラのことは? 彼女を王都に派遣したのはマザー・リオティネ、あなたでしょ」
挑むようなルナの視線を、リオティネは真正面から受け止める。
「シスター・マルセラにも何かあったのでしょうか」
「王都での事件を知らないって言いたいわけね」
リオティネの瞳の奥を覗き込むように、ルナはじっと彼女を睨み付けた。胸中がまったく見えない。リオティネが本心を語っているのか、それともしらばっくれているだけなのか。
「あなたの言っていることが、よく分かりません。もっと丁寧に話してくださらないかしら」
「そう」と、ルナは不敵に笑った。そう来るなら、付き合うまでだ。




