第二章 38:私は人間よ
宗教都市としての色合いが強い、このベルフェルは、夜を迎えるのも早い。
酒場などの盛り場も少なく、どの商店も日没と同時に一斉に店仕舞いする。まだ夜更けとは言いがたい時刻だが、既に街は暗く、人通りも見られない。
頭上高くでは、身を半分欠いた月が、悲しげに淡い光を落としていた。
角灯を持って先を行くエイシャの後を、ルナは付いて歩く。
この薄闇の中でも、ルナの視界は周囲の建物の造形をしっかりと捉えていた。角灯の灯りがなくても、石畳の裂け目まではっきりと見える。
エイシャの歩調に合わせて、揺れる角灯が作り出す二人の影が、不気味に伸びたり縮んだりを繰り返す。
この先にあるのは、――教会か。
ルナの目星の通りに、エイシャの足は教会の方へと向かっていた。
前を向いたままで、足を止めずにエイシャが言う。
「…エリー・カーミラ、あなたの才能は認めるわ」
遠目に、鐘楼と教会が見えてきた。
「いい? どんな話をされても、決して断っては駄目。命が惜しかったら、素直に従いなさい」
「従うかどうかは、自分で決めるわ」
答えたルナを、エイシャが首だけで振り向いて細めた目で睨んだ。
だがすぐに、彼女は視線を正面に戻す。
「それと、出されたものは絶対に口にしないこと。食べ物でも、飲み物でも、なんでも。絶対に食べては駄目」
「…どういう意味?」と、ルナが聞き返したが、エイシャは応えない。
教会の目の前で、エイシャが立ち止まった。
「いいわね?」
彼女は念を押すと、ゆっくりと教会の正面の扉を押し開けた。
エイシャは礼拝堂を回り込んで、裏側に回る。
石造りの階段が見えた。
「こっちよ」と、エイシャが階段に誘う。
階段を上がる二人の足音が、静まり返った教会内に響く。
二階に上がると、エイシャは奥の部屋へと向かった。ドアをノックする。
「入りなさい」
部屋の中から声が掛けられる。エイシャはゆっくりとドアを開けた。
中でルナを待っていたのは、シスター・クラリッサだった。彼女は温和な笑みで、ルナを出迎えた。
「ようこそ、エリー。今日は素晴らしかったわ。本当にお疲れ様でした」
クラリッサは、ルナを部屋の中へと迎え入れる。そして、ドアの側に立つエイシャを見た。
「エイシャ、ありがとう。帰ってもよろしいですよ」
「…はい。クラリッサ様」と、エイシャはお辞儀をする。
顔を上げるときに、一瞬だけルナに冷たい視線を向けた。そして振り返ると、階段の方へと向かった。
カツカツと、彼女が階段を降りる音が聞こえてくる。
クラリッサはドアを閉めると、ルナを部屋の中央のテーブルに案内した。
「さあ、お掛けになって。お茶でもどう?」
ルナは無言で、椅子に腰掛ける。
満足そうに頷くと、クラリッサはティーポットを手にして、ルナの前に置かれたティーカップにお茶を注いだ。そして、自分のティーカップにもお茶を注ぐと、ティーポットを置いてルナの対面に座る。
ルナはティーカップに手を添えた。
「それで、話ってなんでしょうか」
クラリッサは笑顔でティーカップを持ち上げて、ひと口啜る。
ルナを見つめたまま、ゆっくりとティーカップをソーサーに置いた。
「――エリー・カーミラ。アルテンフォルクに、確かにカーミラ商会は存在します。でも、…知っていましたか? カーミラ商会は、もう五年も前に廃業しているそうですよ」
クラリッサは笑顔を張り付かせたままで、ルナをじっと見つめた。
「兄が、事業を継いだんです。まだ駆け出しなので、名が知れていないのでしょう」
答えたルナに、クラリッサは「ふふっ」と笑った。
「いえ、エリー。そんなことはどうでもいいのですよ」
彼女は、ルナの手元をちらりと見る。ルナはティーカップに手を添えたままだ。
「交流戦でのあなたを見れば、あなたがただ者ではないことは分かります」
そしてふと、目線を自身の手元に落とした。
「その力、…大変だったでしょう。人並外れた力は、怖れられ、迫害される。あなただけじゃない。これから生まれる力ある子どもたちも、因縁を背負って生きていかなければならない」
そして、ルナをじっと見つめた。
「さあ、話しなさい。私たちは味方です。そのお茶を飲んで。心が落ち着きますよ」
震える手で、ルナはティーカップを持ち上げた。
クラリッサが笑みを浮かべる。
ルナはゆっくりと顔の高さまで持ち上げると、いきなり逆さまにして中身のお茶を床にぶち撒けた。
「私からも質問するわ」
ルナが目を細めて、まだ笑みを崩さないままのクラリッサを見やる。
「シスター・マルセラは何者なの。この教会との関係は?」
「マルセラ――。あの子も可哀想な子でした」
クラリッサが遠い目で、ルナの後ろを見る。
「生まれながらに背負った悲哀のために、この世界から拒絶された。あなたもそうでしょう。表の世界には受け入れてもらえずに、権力の駒となって、裏の世界を渡り歩くような生き方を選ばざるを得なかった」
ルナは首を傾けながら、薄ら笑いを向けた。
「マルセラのことを良く知ってるようね」
「ええ」と、クラリッサは頷いた。
「あの子は、私が育てましたから」
「じゃあ」と、ルナは目を細めて鋭い視線を向ける。
「マルセラが人間じゃなかったことも知ってたってことね」
クラリッサの口の端が、異様なほど吊り上がる。
「――エリー、あなたもでしょ」
ガシャンッッ!
激しい衝撃とともに、テーブルもろともルナの体が壁に叩き付けられた。
思わず、息が詰まる。
短く息を吐きながら、手を付いて上体を起こした。
続けて振るわれた二撃目を、テーブルの破片で防ぐ。
「少々、お仕置きが必要なようですね」
クラリッサの口の端が、耳元まで裂ける。血の気を失った真っ白な肌に、それは真っ赤な裂け目となってぱっかりと開いた。
彼女の下半身は、鱗で覆われた大蛇の尾と化していた。
再び振るわれる尾を、ルナは曲げた肘をバネのように伸ばして飛び上がって躱す。
壁を蹴って、宙返りしながら、クラリッサから距離を取った。
ルナが素早く詠唱を紡ぐ。
「私は――」
先ほど拾って手の内に握っておいた小さな木片を、クラリッサに投げ付けた。
「人間よ!」
魔力に包まれた木片が、クラリッサを目掛けて一直線に迫る。
体を捻って躱そうとするが、完全には避けきれず、木片はクラリッサの頬を掠めて切り裂いた。
彼女の頬から、真っ黒な液体が飛び散る。
向き直ろうとしたクラリッサに、ルナは腕を伸ばして狙いを定めた。
キュィィン…!
伸ばしたルナの腕の先から、周囲の空気を歪ませながら光の帯が放たれた。
クラリッサが大蛇の尾で、身を守る。
光の帯は、しかし易々と尾を貫いて破壊した。
その時、不意に部屋のドアが開かれた。
振り返ったルナの視線の先で、栗色の髪の男性が部屋に飛び込んできた。
ルナを見つけた彼の目が驚きで見開かれた後、鋭く歪んだ。
「おまえは!」
栗色の髪の男性は一気に踏み込むと、腰から剣を抜いてルナに斬り掛かった。
ルナは慌てて後ろに跳んで、それを躱す。彼女のいた場所に残っていた銀色の髪が、数本斬られて宙を舞った。
栗色の髪の男性は、さらに剣を振るいながら踏み込んでくる。
――バリンッッ!
窓ガラスが割れる音が響いた。
クラリッサが窓から飛び出して、暗闇の中へと消えて行った。
「ちっ…」と、ルナは剣戟を躱しながら、舌打ちをした。
彼の剣は、ルナに詠唱する時間を与えてくれない。
まだドアの外から、複数の人の気配がする。まずいな、ルナは焦りを覚えた。何か手はないかと、剣を避けながら周囲を観察する。
開かれたドアから、今度は黒髪の男性が現れた。
彼はルナと目が合うと、眉を顰める。そして、即座に剣を抜いて駆け出した。
ルナは大きく後ろに跳んだ。
ガキンッ!
振り下ろされた栗色の髪の男性の剣を、間に割って入った黒髪の男性が剣で弾いた。
栗色の髪の彼が、ルナを睨み付けて叫んだ。
「シュタインさん! そいつが黒幕だ!」
ルナに向かおうとする彼の行く手を、シュタインが塞ぐ。
「落ち着け、ウィル。こいつは違うんだ」
シュタインと、ウィルが睨み合う。
後ろで詠唱を始めようとしていたルナを、シュタインが手で制する。
「ルナもやめてくれ。話が面倒くさくなる」
疲れたように言うシュタインに、ルナは唇を尖らせた。
部屋の中の異変を察して、パティアがドアの端から中を覗き込む。彼女の視線の先には、対峙するシュタインとウィルの姿、そしてシュタインの後ろの、黒い外套を纏った銀色の髪の女性。
「おれは王都の地下で、そいつを見たんだ。そいつは、マルセラを助けて、…そして、おそらく殺した」
ウィルが左足を踏み替える。それを牽制するようにシュタインが体勢を右にずらした。
「確かに、マルセラに止めを刺したのは私よ」
ルナの言葉に、ウィルの目付きはよりいっそう険しく彼女に向けられる。
「…お願いだから、今は黙っておいてくれ」
横目で言うシュタインに、ルナはさらに頬を膨らませた。
「人違いだ、ウィル」と、シュタインは腰の鞘に剣を戻す。
「こいつが止めを刺した時、俺も一緒にいた。それまでも、こいつは俺と一緒に行動していた。だから、ウィルが見たのは、別の女だ」
ウィルは、シュタインとルナを交互に見た。
しばらく逡巡した後に、彼はようやくふっと肩の力を抜いた。
「分かりました。シュタインさんを信じます」
ゆっくりと剣を鞘に収める。
シュタインも、ほっと安堵の息を吐いた。
「そうか。良かった」
「そう言えば」と、言葉を発するルナを、シュタインが振り返って露骨に迷惑そうに見た。
「確かにマルセラも、私を誰かと勘違いしていた気がするわ。あれは――」
ルナが思い出すように、考え込む。
はっと思い出して、その名前を口にした。
「「――当代様」」
ルナとウィルの言葉が重なる。
二人は目を合わせた。ウィルの表情からは、先ほどまでの警戒は消えていた。
ルナは嫌そうに、眉を顰める。
「自分と似た顔の人間がいるなんて、気持ち悪い」
「…向こうもそう思っているかもな」
ぼそっと呟いたシュタインは、次の瞬間には顔から壁に激突していた。
振り上げた足を下ろしながら、ルナは、若干引き気味のウィルとパティアを見据えた。
「それで、二人は何者なの」
「助っ人さ」と、赤くなった鼻を摩りながらシュタインが答える。
「こちらが、マリオール王国の王女、パティア様。そしてこっちが、近衛騎士のウィル」
「い、いや、おれは近衛騎士じゃ…」
慌てて訂正するウィルに、シュタインはそれほど気にした様子を見せない。
「ウィルの父親は、古くからの知り合いでな。息子の彼も、信用できる人間だ」
「へー。王女様ね」
ルナが値踏みするように、パティアの足元から頭の先まで視線を這わせる。
「こいつが、相棒のルナ。ほら、前に話しただろ。学院に潜入させている相棒がいるって」
「潜入ねえ…」
シュタインに、ルナが半目を向ける。本当にこの男だけは、どこまでが作戦で、どこからが成り行きなのか、まったく判別できない。
不服そうな彼女の視線に気付かない振りをして、シュタインは話を続けた。
「こうして期せずして合流できたんだ。ルナ、何があったか教えてくれ」
「…ええ」と、ルナは一旦伏せた視線を上げると、神妙に頷いた。




