第二章 31:シュタインの秘密
朝食の空いた皿が下げられて、ティーカップが運ばれてきた。
傍に立った侍女によって、銀のティーポットから茶褐色のお茶が注がれる。
パティアたち三人と、アギュスールも同席した食堂で、朝食の後のひと時の余韻が静かに漂う。
焙煎されたお茶の香ばしい香りが、湯気とともに立ち昇った。パティアはその香りを、カップを持ち上げて堪能する。
「いい香りね」
「やはり」と、アギュスールがひと口だけ啜ったカップを、受け皿にそっと置いた。
「パティア王女様でしたか」
彼女はそれに、笑みで応えた。
「昨夜は、身分を明かさず、すみませんでした」
「…いえ」
アギュスールは緩やかに首を横に振る。
「私こそ、気付かずに、大変なご無礼をいたしました。それにしても――」
そして彼は、ふと視線を、シュタインに向けた。
「シュタイン様には、いつも驚かされます」
侍女にお代わりを要求しようとしていたシュタインが、その上げかけた手を途中で止めて振り向いた。
「そんなですかね、変なことをやってるつもりはないんですが」
アギュスールが手を上げて、侍女に指示をする。
侍女がやって来て、シュタインのカップを再びお茶で満たした。
遠い目をして、アギュスールが続ける。
「あの時も、そうでした。私と、妻が、脅迫されていたときも、あなたはふらりと現れて、そして助けてくださった。その後も…」
「そう言えば、奥様は?」
シュタインの言葉に、彼は視線を落とした。
「一昨年に、亡くなりました。シュタイン様のおかげで、彼女も幸せな最期を迎えられたと、私は思っております」
「…そうですか」と、シュタインは手元に落としていた視線を、ゆっくりと上げた。
「とても優しい方でしたね。息子さんをとても愛してらっしゃった」
その言葉を聞いて、アギュスールが笑みを浮かべた。
「息子も、私の後を継いで、しっかりと領地を治めております。今があるのは、本当に、シュタイン様のおかげです。――しかし、不思議だ」
アギュスールが首を傾ける。
「あなたの姿は、あの時と、寸分も変わらない」
シュタインがこほんと咳をする。
自分に向けられる視線を誤魔化すように、彼は話題を変えた。
「教会に行く前に、噂の鐘楼を見に行かないか?」
言いながら、テーブルの上に体を乗り出した。
「二人とも、まだ見たことないだろ?」
「あるけど」と、パティアが即答する。
パティアの視線から目を逸らして、シュタインは食い入るようにウィルを見た。
「ウィルはないだろ? な?」
「は、はい…」と、押され気味に、ウィルが身を引きながら答えた。
「そうだろ。じゃあ、決まりだ」
シュタインがカップの中身を一気に飲み乾した。
「行くぞ、ウィル。…アギュスール卿、ありがとうございました」
立ち上がって丁寧に頭を下げると、シュタインがウィルに手で合図を送る。
カップを置いて立ち上がったウィルに顔を近づけて、強引に肩に手を回した。
「早く行かないと、鐘楼が逃げちまうぞ。さあ、行こう」
ウィルを伴って、シュタインは食堂の出口へと向かう。
二人の背中を眺めながら、パティアはそっと受け皿にティーカップを置いた。
カチャリと小さな音が鳴る。
「…アギュスール卿」と、老紳士の名前を呼んで、パティアが彼を見た。
「あなたが、シュタインと最初に会ったのは、いつ頃の話ですか」
アギュスールはなんでもないことのように、笑顔で答えた。
「私も、妻も、まだ若かったですから。もう、かれこれ、四十年近く前でしょうか」
さすがにパティアも、その言葉には驚きを隠せなかった。
整備された小高い丘の上に、黄金色の鐘が吊るされた石造りの巨大な塔が建つ。
塔に向かって真っすぐに伸びる階段の前に立って、ウィルは鐘楼を見上げた。
ずっと見つめていると、まるで塔がこちらに向かって倒れてくるような錯覚すら覚える。圧倒的な存在感だ。名所と呼ぶのに相応しい。
「もう、そろそろだ」
傍らで、シュタインも目を細めて鐘楼を見上げる。
太陽の位置から察するに、正午までおよそ二時間。海神マリセアが目覚めるとされている時刻だ。
鐘楼を見上げる二人をその場に置き去りにしたままで、ただ時間だけが過ぎる。
何も起きない。
「鳴らないわよ」
呆れた表情で、パティアが二人を見た。
「ベルフェルの鐘楼が鳴らなくなったのは、有名な話よ。治せる職人も見つからないって話だし」
シュタインが振り返る。その目は驚きではなく、探るように静かに光を湛える。
「それは、いつの話だ」
パティアが自身の腰に手を当てて、肩を尖らせる。
「逆に聞くけど、あなたが鐘の音を聞いたのは、いつ?」
「ん…」と言い淀んで、シュタインは考え込む。
傍目には、答えを探して逡巡している様子ではなく、本気で思い出そうと考え込んでいるように見えた。
パティアの睨むような視線の先で、シュタインは唸った末に、首を捻った。
「いつだったか、覚えてないな。七年か、八年か、多分それくらいだろう」
「へー」と、パティアが腕組みして、疑いの眼差しを彼に向けた。
「それで、シュタイン。その時のあなたは、いったい幾つだったの」
シュタインが、彼女を睨み返した。
思わずパティアは身構える。
「俺は」と、シュタインが静かに、一歩踏み出す。
「――そんなに、老けて見えるか?」
そう言いながら、悲しそうに肩を落とした。
そんな彼の背中を、ウィルが後ろから摩って慰める。
「そうじゃなくて!」と、パティアが叫ぶ。
「あなたは本当は何者なのか、って聞いてるのよ!」
シュタインが大きくため息を吐いた。
「あのな、姫様。それ、そんなに重要か?」
自身の首に手を当てて、首を回す。
「俺たちは、同じ事件を追っている。そして、俺たちには姫様の力が、姫様もきっと俺たちの力が必要だ。だから協力し合う。それでいいじゃないか」
「あなたが敵じゃないっていう証拠は?」
パティアは引かない。
シュタインは困ったように、眉を寄せた。
「敵だったら――」
彼が腕を振り上げる。その手には、いつの間にか抜き身の剣が握られていた。
剣の切っ先が、真っすぐにウィルの眼前に向けられる。
ウィルは思わず息を呑んで、自身の腰を弄る。しかしそこには、空の鞘があるだけだった。
「悪いが、いつでも君たちを殺せた」
シュタインは剣を下ろすと、ウィルに投げて寄越した。
慌ててウィルは、剣を受け取った。
「俺は、君たちの敵でも、味方でもない。だが、目的は一緒だ」
シュタインが、未だ戸惑ったままのウィルの肩に手を回して引き寄せる。
「利害の一致。これほど信用できるものはないだろう」
そして、屈託のない笑顔を見せた。
諦めたように、パティアは短く息を吐いた。
「…分かったわ。これ以上はやめにしましょう」
彼女はつかつかと二人に歩み寄ると、無造作にウィルの脛を蹴り上げた。
「いたっ」と、ウィルが足を上げて蹴られた脛を抱える。
「でも」と、パティアが不機嫌そうに、シュタインを見やる。
「いつか話してもらうからね」
シュタインは肩を竦めた。
「本当に、しつこいお姫様だ」




