第二章 22:望まぬ舞台へ
甘辛く煮付けられた大豆のほのかな香ばしさを、にんまりと堪能していたルナは、近づいてくる気配を察してげんなりとした。
その気配は、ルナの真後ろで立ち止まった。
「ちょっと、いいかしら」
その声に、隣のグレタがびくっと体を震わせて反応する。
ひとまずそれを無視して、ルナは次のひとくちを口へと運んだ。
「ちょっと。聞こえてるでしょ、エリー・カーミラ」
苛立った様子のエーデルが、腕組みしてルナを見下ろす。
正直、面倒臭かったが、仕方なくルナはフォークを置いて顔を上げた。
「…なんでしょうか」
「思いっきり面倒くさそうな顔してるわね」
どうやら心の声が、そのまま表情に出ていたようだ。
「そんなことないです」と、ルナがしれっと言う。
「まあ、いいわ」
エーデルが顎を上げて、余裕を取り返して笑みを見せた。
「後で、談話室まで来てちょうだい。話があるから」
「行かなきゃ、ダメですか?」
心底、嫌そうに言うルナを、エーデルがキッと睨んだ。
「あなた、交流戦の、一年生の代表に選ばれたんでしょう。何を今更、わがまま言ってるのよ」
「選ばれたくて、選ばれたわけじゃないんだけど」
あの後、ルナの後ろ回し蹴りの一撃を受けたラインハルトは、アズリオたちに担がれて退場した。結局、断るタイミングを失った。
「とにかく、ラインハルト先輩が呼んでるんだから、ちゃんと来なさいよ」
エーデルが軽く頭を振って、その金色の髪を揺らしながら言った。
ルナは考える。ラインハルトがいるのならば、今からでも、会って断ればいい。交流戦がどんなものなのか知らないが、学園生活を謳歌するために来たわけじゃない。
「私も、付いて行ってあげようか?」
グレタが心配そうに、ルナの顔を覗き込んだ。
そんな彼女を、エーデルは冷たい視線で見る。
「あなたはいいわ。エリーだけで来てちょうだい」
「いいわね」と念を押すと、エーデルは優雅に踵を返して、立ち去った。
それを見送るまでもなく、ルナはすぐにフォークを手にして食事の時間に戻る。
この大豆の旨辛煮付けもなかなかの逸品だが、添え物の油で揚げた芋や野菜も、ちょうどいい塩加減で美味しい。この寄宿学校には、よほど腕の良い料理人がいるのだろう。
この後に待ち構えている憂鬱な時間のことを思うと、今はこの楽しい食事の時間に浸っていたかった。
「よく来てくれた。まあ、座ってくれ」
寮の談話室で先に来ていたラインハルトが、ルナを見て笑みを見せた。
彼の短く刈り込んだ髪から覗くその額は、赤く腫れ上がっていた。昼間、倒れたときに打ったのだろうか。その痛々しさに、ルナは少しだけ申し訳なく思った。
ラインハルトの傍らには、いつもの通りアズリオの姿もあった。
向かい側の席にルナが座ると、さも当たり前のように隣にエーデルが座った。そしてさらに向こうの席にもう一人、長髪の背の高い男性が座る。授業の時も見かけたことのある顔だ。
ラインハルトが三人をゆっくりと順番に見た。
「ロゥ・ケヴィノル、エーデル・ローゼンベルク、そしてエリー・カーミラ。こうして集まってもらったのは、他でもない、今度の交流戦の件だ。その前に――」
隣のアズリオを気にするようにちらりと視線を送ると、ラインハルトは口元にこぶしを当てて、こほんとひとつ咳をする。
「すまなかった、エリー。君の、その、…体を触ってしまって。あまりにも美しい筋肉だったので、つい――」
言いかけた彼の頭を、アズリオが押さえて無理やり下げさせる。
「ごめんな。この筋肉馬鹿が、変なことをやらかして」
アズリオも一緒に、頭を下げた。
「それは、もうどうでもいいんだけど」と、ルナは短く息を吐いた。
「私、交流戦を辞退――」
彼女が言いかけたところで、ラインハルトが顔を上げる。
「まあ、待て。まずは話を聞いてからだ」
ラインハルトが、歯を見せてにやりと笑う。
「先ほど、クラリッサ副校長から連絡があった。マザー・リオティネ様が近々、ベルフェルにお戻りになられるそうだ」
その名前に、ルナが微かに反応した。
――マザー・リオティネ。
この大陸では、おそらくその名を知らない者の方が少ないだろう。戦災孤児や、貧困者たちの救済にその人生を捧げている。大陸に住む者たちのうちでは、彼女のことを聖人と崇拝する者も多い。
そして、シュタインの情報では、魔族の血を宿したマルセラは、彼女の元にいた。どういう立場だったのかはわからないが、マルセラがパール・シティに派遣された経緯を、何か知っているかも知れない。
ルナが押し黙って、考え込む。それを見て、どう受け取ったのか、ラインハルトは満足したように続けた。
「優勝した寮の代表生徒には、マザー・リオティネ様から直々にお言葉がいただける。これはとても名誉なことだ」
アズリオが横から補足する。
「知っているとは思うが、マザー・リオティネ様は、この学校の校長だからね」
しばらく考え込んでいたルナが、ゆっくりと顔を上げてラインハルトを見据えた。
「わかった。出るわ」
「そうだろう」と、ラインハルトが嬉しそうに何度も頷いた。
「きっと、君なら、そう言ってくれると思っていたよ」
ルナのために、ラインハルトが改めて交流戦のルールを説明する。
寮ごとに、各学年からそれぞれ三名ずつ、計九名が代表として参加。
学年別、一対一の模擬戦。勝ち抜き戦方式。
寮対抗の、リーグ戦方式で行われる。
気絶を含む戦意喪失、若しくは敗北宣言により、勝敗を決める。
「順位が並んだときの対応など、細かい話もあるが」と言った後、ラインハルトが腕を組んで胸を張る。その逞しい大胸筋がぴくりと動いた。
「問題ない。全勝だ。全部勝てばいい」
彼の隣で、アズリオも笑顔だ。
「何か質問はあるか?」
ラインハルトの問いかけに、そっと手が上がった。奥に座った、長髪の男性。確か、ロゥという名前だった。
「殺してしまった場合は、どうなるんでしょうか」
ロゥの言葉に、ラインハルトが無表情ですっと目を細めた。
「失格だ。もちろん十分に安全には配慮してある。そうならないように気をつけてくれ」
理解したのかどうなのか、ロゥは小さく二回、頷いた。
「スコットの怪我のこともある」と言いながら、ラインハルトは一瞬だけ視線をロゥに向けた。
「君たちも十分に気をつけるように。以上だ」
ロゥがさっと立ち上がると、一礼して、足早に談話室を出て行った。
それに倣って、腰を浮かしたルナだったが、ふと思い出す。
「…先輩方、テオドラ・ブロムって名前に心当たりないですか?」
「テオドラ・ブロム…?」
ラインハルトが腕を組んで、考える仕草を見せる。
「すまん。わからんな」
彼の隣で、アズリオが小さく唸る。
「聞いたことがあるような…」
ルナの視線が、アズリオに向けられた。
その時、不意にルナの背後から声があがる。
「カリタス寮の子でしょ。二年生の」
振り返ったルナの視線の先で、エーデルが不機嫌そうに彼女を睨む。
「エルドヴァル市長の一人娘。なんで最初から私のところに来て聞かないのよ」
エーデルがそう言いながら、不服な顔をルナに寄せる。
ルナは思わず視線を逸らした。さすがに目の前にして、面倒臭そうだったからとは言えない。
「その、テオドラ・ブロムが、どうかしたのか?」
問うラインハルトに、ルナが返す。
「以前から、テオドラさんのお父上には大変お世話になっておりますので。ぜひ一度、ご挨拶をと思っております」
「そうか」と、ラインハルトが納得したように頷いた。
「カリタスの寮生代表のシャルロットに話を通しておこう。会わせてもらえるはずだ」
「ありがとうございます」と、ルナは目を伏せて一礼する。
ようやく一つ、手掛かりを得た。早速、明日にでも、カリタス寮を訪れてみることにしよう。
「だから、言いましたのに。困ったことがあったら、私を頼れって」
エーデルが拗ねたようにそっぽを向く。
意外と良いやつなのかも知れない。ルナは少しだけ、考えを改めた。




