第二章 19:甲板での対決
早朝の船上で、甲板に船員たちがこぞって集まる。
大勢の船員たちが輪になって、二つの人影を囲んでいた。
一つの影、――フィーノが輪の中をゆっくりと歩く。
その対角線上には、ウィルの姿があった。二人を取り囲んだ屈強な船員たちの視線とガヤを気にしながら、ウィルは何度か膝を曲げて体を慣らす。
船員たちに交じって、パティアの姿もあった。腕組みして、輪の中心の二人を見比べていた。
賭けも始まったようだ。一人の船員が帽子をかご代わりにして、ベットを煽っていた。
帽子の中に、みるみるうちに賭け金が溜まっていく。
船員が、帳面を片手にペン先を舐めながら、パティアの側に立った。
「姫様はどうします?」
「私は――」と、パティアは腕組みしたまま、力強く叫ぶ。
「当然、ウィルに賭けるわ」
立て掛けてあった掃除用のモップを二本、手に取りながらフィーノが情けない声をあげた。
「そりゃないぜ、姫様。長い付き合いなのに」
パティアはにやりと笑う。
「長い付き合い、だからこそよ」
フィーノが手にしたモップのうち一本を、ウィルに投げて寄越した。
ウィルがそれを器用に受け取ったのを確認すると、自身が持ったモップで肩を叩きながら顎を上げた。
「さすがに真剣で、というわけにはいかねえが。――悪いが、手加減は無しだ」
ウィルは何度かモップを振って、持ち応えを試すと、手先でくるくるとモップを回す。そして、ブラシを手前にして、中段に構えた。
「はい。お願いします」
ウィルの反応を見て、満足そうにフィーノが口元を歪ませた。
二人を眺めながら、パティアは思い出す。
――あれは、出立の日の早朝だった。
パティアが目覚めたとき、すでにウィルの父親、オルヴァンは、庭で木刀の素振りをしていた。それは彼の日課だったが、パティアはそれを知らない。
「お早いですね、義叔父様」
パティアが声をかけると、オルヴァンは素振りを止めて彼女を見た。
「すまない。起こしてしまいましたかな」
優しく微笑みかけるオルヴァンに、パティアも笑みで返した。
「いえ。とても気持ちの良い朝です」
「そうですか。それは良かった」
オルヴァンが正面に向き直って、素振りを再開する。
しばらくそれを、パティアは眺めていた。遠くから小鳥たちのさえずりが聞こえてくる。朝の涼しい風が柔らかく彼女の頬を撫でていった。
正確に同じ軌跡を描いて、オルヴァンの木刀が振り下ろされる。ヒュンヒュンと、空気を裂く音だけが聞こえてくる。
昨日に見た稽古で、顎を蹴り上げられて痛みに油断したウィルが、オルヴァンに木刀を突きつけられたのを思い出した。
涙目のウィルを思い返すと、可笑しくも思うが、なぜか妙に悔しい。
「…ちょっとは義叔父様を見習って、ウィルも早起きすればいいのに」
口をとがらせて、パティアがぽつりとつぶやく。
オルヴァンはしばらく素振りを続けていたが、ゆっくりと息を吐いて、その動きを止めた。
そして、あらためて彼女の方に向き直る。
「おそらく姫様が気になって、なかなか寝付けなかったのでしょう」
「えー。そうなのかな」
パティアは少し嬉しそうに俯く。
「それに――」と、オルヴァンが続けた。
「すでに、あいつは私より強い」
パティアが顔を上げて、小さく首を傾げる。
「あいつに足りないのは、経験と――、覚悟だけだ」
そう言って、オルヴァンは優しく微笑んだ。
パティアはしばらくの間、その言葉を胸の中で繰り返した。
そして彼女は大きく頷くと、オルヴァンに笑みを向けた。
「私にも、稽古をつけてくださらない?」
オルヴァンは驚いたように目を丸くしたが、すぐに笑みを取り戻した。
「喜んで、お相手いたします」
パティアは裾を気にして、少しだけスカートを手繰り上げた――。
船員たちの野次がひときわ大きくなった。
パティアの視線の先で、ウィルが静かにモップを握り直す。
フィーノはまだ構えない。モップで自分の肩を、トントンとリズムよく叩いている。
「では、始めるか」
フィーノが宣言するが、彼はまだ突っ立ったままだ。
ウィルもまだ動かない。お互い相手の出方を窺っている様子だ。
その緊張感が伝わったのか、徐々に船員たちからざわめきが消えて、次第に場が静まり返った。
パティアも固唾を呑んで見守る。
――その時。
ハッ…クション!
どこかで船員の一人が、大きなくしゃみをした。
一瞬だけ、ウィルの視線がそちらを向いた、その瞬間。
ドンッと大きな音を立てて、フィーノが床を蹴る。そして一気に、ウィルとの距離を詰めた。
脳天を目掛けて振り下ろされた斬撃を、ウィルは体を捻ってすんでで躱した。彼のすぐ目の前を、フィーノの一撃が空振る。
ウィルは足を踏み変えて、フィーノの背後に回り込む。
フィーノが左足を踏み込んで、体重を移動させると、そのまま背後のウィルに肩から体当たりした。
体格が二回りは大きいフィーノの体当たりを受けて、ウィルの体は簡単に吹き飛んだ。
飛ばされながら、ウィルは体勢を整えて、なんとか片手を付いて両足で着地する。
フィーノがにやりと笑う。
「…誘ったな?」
ウィルは体を起こすと、すぐにモップを中段に構えた。
フィーノがモップを大きく振る。ゴウッと風を裂く音が響いた。
「それに、目も良い。シリルの嬢ちゃんを翻弄したってのも嘘じゃないようだ」
船員たちが歓声を上げる。
パティアが一気に息を吐き出した。思わず息をするのを忘れていたらしい。
「さて、第二ラウンドと行くか」と、フィーノが駆け出す。
振り下ろされたモップを、ウィルが受ける。
ガンッ!
木が打ち合う音が響いた。
「――ッ!」
受け止めたウィルの腕が、ジンと痺れる。
立て続けに、フィーノがモップを薙ぐ。ウィルはそれを受け流そうとしたが、あまりの力に、モップを持つ腕が弾かれた。
慌てて、ウィルは後ろに跳んで距離をとった。
さらにフィーノは追撃をかける。
ウィルは弧を描くように下がりながら、なんとかそれを凌ぐ。
――なんて力だ。フィーノの攻撃を、ウィルは距離をとりながら避けるので精いっぱいだった。
このままではジリ貧だ。
ウィルは短く息を吸った。
力強く振り下ろされたフィーノのモップを、ウィルは踏み込んで逆手で受ける。
圧倒的な力で押し込まれるが、ウィルはその勢いを利用する。彼は体を反転させながら、さらに踏み込んできたフィーノの懐深くに潜り込んだ。
フィーノの腕に、手を掛ける。
ウィルの身が沈み込んだ。その次の瞬間。
フィーノの両足が、床から離れた。
弧を描いて、その体が宙に浮く。
ドシンッ!
その大きな体躯が、背中から床に叩きつけられた。
「――ぐッ!」
フィーノがくぐもった声を上げる。
ウィルがそのまま馬乗りになって、彼の首元にモップを押し当てた。
時間が止まったかのように、船上が静まり返る。
そしてそれは一瞬の後に、大歓声に変わった。
フィーノがモップを手放して、ハァハァと荒く呼吸を繰り返しながら床に大の字で寝そべる。
彼の首元からモップを引いて、ウィルは肩で息をしながらゆっくりと立ち上がった。
「ウィル!」
名前を叫びながら、パティアがウィルに飛び付いた。そのままの勢いで彼を押し倒す。
寝そべったまま、フィーノが頭だけを持ち上げて二人の方を見た。
「…本当に、見せつけてくれるぜ」
立ち上がったウィルの周りに、船員たちが一斉に押し寄せた。
彼らは荒っぽい言葉で、しかしその口調とは裏腹に素直な賞賛の言葉を浴びせる。
賭けに勝った者は、ウィルの肩に手を置いて「街に着いたら奢らせろよ」と笑顔を見せる。賭けに負けた者も、恨み節を言いながらも、その表情は明るい。
ウィルが揉みくちゃにされている間も、彼を獲られまいと、パティアはウィルにしがみ付いたまま離れない。
船員たちを掻き分けて現れたフィーノが、ウィルの前に立った。
「また、稽古を付けてくれ」
差し伸べられた彼の大きな手を、ウィルが強く握り返す。
「いえ、こちらこそ。またよろしくお願いします」
握る手に、フィーノが力を込める。
「痛たたたた…!」
身をよじるウィルを見て、フィーノは豪快に笑った。




