「この千年、ずっとずっと恋しかった、待ち遠しかった音よ」
レイチェルが絵の具の顔料になる色彩豊かな蝶々の鱗粉を集めていると、森がさやさやと優しくざわめいた。
団体のお客様だと、森は闖入者を追い出したいともっと強く訴えかけてくる。迷子だと魔獣が追いかけ回すから、餌にするか、餌になる前に森の外に逃げていく。
レイチェルは魔獣たちの思念を読み取った。
様子見、客人、勿忘人。
誰が来たのか分かったレイチェルは満面の笑みを浮かべた。
鱗粉集めなんて二の次。色彩豊かな蝶々たちに別れを告げて、翼を広げてお出迎えに向かう。思った通り、森に入ってきたのはガンドルフだった。
「まぁまぁまぁ! 来てくれたのね!」
「おう」
レイチェルは翼を背中に格納すると、空からガンドルフ目がけて落下した。ぽすん、とガンドルフの両腕の中に落ちる。
ガンドルフの表情は相変わらず固かったけれど、出会った当初のような殺気はこれっぽっちもなかった。それが嬉しくて、レイチェルはぎゅうぎゅうとガンドルフに抱きつく。彼の背中にはまぁまぁの大きさの背嚢が背負われていて、レイチェルは肩越しにその荷物を覗きこんだ。
「あらあら、今日は荷物が多いのね?」
「まぁ……料理を食いたいって言うから、色々と」
「嬉しいわ! すぐにお家に帰りましょうね!」
ガンドルフがレイチェルとの約束を守ってくれた。
それだけでレイチェルは舞い上がる。心だけじゃなくて、せっかく格納した翼をもう一度広げて、ガンドルフに抱きついたまま飛び上がった。
「ま、待て待て待て待て! 落ちる! 落ちるからっ……!」
「落ちないわよぅ」
レイチェルは空高く飛び上がった先で、ガンドルフをさらに高く上へ放り投げた。ガンドルフの表情が虚無になる。レイチェルは自由落下してきたガンドルフを横抱きで受け止めると、悠々と空を飛行した。
楽しい空のお散歩。
レイチェルはご機嫌で自分の寝床へとガンドルフを連れて行く。
広く広がる大森林の真ん中。
少し開けたそこに、虹色にグラデーションされた屋根の家がぽつんと建っている。庭と畑には小型の魔獣が出入りしていて、レイチェルに気がつくとさっさと森の中へと逃げていった。
「……ずいぶんと可愛らしい家だな」
レイチェルは家の玄関先でガンドルフを降ろした。
物珍しそうに辺りを見渡すガンドルフに、レイチェルは笑顔で頷く。
「アマンダの家よ。千年前と変わらない。私とアマンダとエルダーが住んでいた家よ」
「英雄王も一緒に住んでいたのか?」
「そうよ」
レイチェルは家の中へとガンドルフを招く。
家の中は千年前から変わらない。
アマンダの好きだった雑貨が飾られている。掃除はしても、アマンダの残したものは全てそのままだ。
もっと言えば、エルダーが家を出ていった時のままでもある。エルダーの私物が、ほんの少しだけまだこの家には残っていた。
たとえば玄関に立てかけられたままの木剣。これはエルダーがアマンダとの稽古で使っていたもの。
ガンドルフが可愛らしい内装の家には不釣り合いなそれを目ざとく見つけて手に取った。だからレイチェルは教えてあげる。
「それね、アマンダがエルダーに稽古をつけてあげていたのよ。竜を倒すには、エルダーが弱すぎたから」
エルダーのことを思い出すと、ふつふつと胸の奥に荒々しい感情が湧き出てくる。なかなか歯止めの効かないその感情を、レイチェルは吐き出した。
「……悔しかった。私が今みたいに強かったら、アマンダを守って、エルダーをけちょんけちょんにしてあげられたのに!」
木剣を眺めていたガンドルフがレイチェルへと視線を向ける。その表情が意外そうで、ほんの少しだけ首を傾けていた。
「お前は英雄王よりも弱かったのか?」
「レイチェルよ! んもぅ、名前で呼んでったら!」
「分かった分かった。レイチェルは英雄王よりも弱かったのか?」
「当然よ。私まだ五歳だったんだから! 十五歳のエルダーに勝てるわけないじゃない!」
レイチェルは思い出す。
あの頃はまだ幼かったし、竜としての自覚もなかった。だから弱くても仕方ないと思う。
対照的にエルダーは、出会った時から大人みたいだった。心の奥でめらめらと闘志を燃やして、アマンダから毒の竜を滅ぼすための立ち振舞を授けてもらっていた。
剣術然り、魔術然り。
魔術は大地の血管からこぼれ出た大気中の魔力を現象として具現化する方法の一つだ。
レイチェルもアマンダに教えてもらった。ただ竜種であるレイチェルと人間だったエルダーでは、魔力を操作する方法も、操作できる量も全然違う。エルダーは魔術が得意だったけれど、レイチェルは繊細なパズルや編み物のように構築する魔術が苦手だった。
エルダーのことを話していると、ガンドルフが木剣を元あった場所に戻す。
「この間も聞いたが、大地の血管というのはなんだ?」
レイチェルはきょとんとした。
話していたっけ? 話していないかも。
どう話そう? どう伝えよう。
うんうん唸って、それからにっこり笑った。
「ねぇ、お母さん! 私、お腹が空いたわ! お料理を早く作って頂戴!」
さぁさぁさぁと、ガンドルフの背中を押して台所に向かう。
大地の血管のことは、まだ話さなくてもいい。話しても無意味。だってエルダーの話には関係ないから。
アマンダにも、今の現状を知られたくない。大地の血管を直接見られたら、頑張りが足りないって怒られちゃうかも。だからレイチェルは聞こえないふりをした。
丁寧に扱われてきた調理器具が立ち並ぶ台所。千年経てば、道具はあっけなく壊れる。さすがに千年前から残っている道具は少ないけれど、それでも丁寧に使われてきた調理器具たちは埃をかぶることなく仕舞われていた。
ガンドルフは眉間にしわを寄せながらも台所に入ると、背負っていた背嚢を降ろす。背嚢の中には色んな材料が入っている。腕をまくって、食材を手に取った。
おもむろにレイチェルのほうを振り向く。
「……大したものは作れないぞ」
「いいの。お母さんが作ってくれることが大切なのよ」
「そうか」
ガンドルフが微妙な顔になる。
それすら愛おしく感じたので、レイチェルは満面の笑顔を贈ってあげた。
調理を始めたガンドルフは、その大きな体で小さな台所を立ち回る。食材を切って、鍋で炒めて、水を注いで煮込む。
トントンと包丁がまな板を叩く音。ぐつぐつ煮込まれるシチューの音。台所で動く影。
そのどれもが、レイチェルの心を優しくしていく。
「……嬉しい」
「なんだ」
「懐かしいわ。アマンダが料理をする音がね、好きだったの。この千年、ずっとずっと恋しかった、待ち遠しかった音よ」
ダイニングのテーブルでにこにこと頬杖をついていたレイチェルは、気持ちの溢れるままに言葉を吐き出す。
ガンドルフが鍋の中身をゆっくりとかき混ぜる手を止めて、顔を上げた。
「……寂しかったのか?」
「寂しい?」
「恋しいと思うことは、寂しいと思うことじゃないのか」
レイチェルは考えた。
寂しい。
レイチェルの知ってる寂しいの気持ちを思い出してみる。うんうん唸って感じてみる。
なんだか少しだけ違う。
寂しいの感情は、レイチェルの心と噛み合わない。
「寂しくはないわ。だって私には魔獣がいるもの。彼らは私の言うことをなんでも聞いてくれるのよ」
千年かけて育てた魔獣たち。
彼らがいるから世界は今日も賑やかだ。
賑やかなのに、寂しいというのは違う気がする。
そう伝えれば、ガンドルフは首を振った。
「そんなのただの奴隷だ。お前がこの森の支配者と言うのなら、ずっと孤独だったんじゃないのか」
「違うわ。私の可愛い子たちを奴隷だなんて言わないで。なんでそんなひどいことを言うの」
「事実だろう」
嫌だ。
嫌だと、思った。
支配者と奴隷、そんなの違う。
この森はアマンダの森だ。アマンダが我が子のように育てていた森だ。
だからこの森の生き物たちはアマンダの子供で、レイチェルの兄弟のようなもの。それにこの千年、レイチェル自身が生んで育てた魔獣たちだって沢山いる。
奴隷なんかじゃない。それは違う。そんなこと、言わないで欲しい。
嫌だ、嫌だと、レイチェルの心がガンドルフの言葉を拒絶する。拒絶すればするほど、心臓が掴まれたように痛んで、思考が天秤にかけられてぐらぐら揺れる。
駄目ね、と思った瞬間、とぷんとレイチェルの思考が悪いほうへ傾いた。
虹色の瞳孔が大きく開く。
「ひどい、ひどいわ……! なんでそんなことを言うの! ……あぁ、でもそうね。そうだったわね。あなたはエルダーの血を引いてるものね。エルダーの血を祟ってやると言ったのよ。だから私があなたを殺してあげる……!」
レイチェルが手を上げれば、家の中にも関わらず紫色の茨がガンドルフの身体を絡め取ろうとした。
寸前でガンドルフが気がついて、包丁を使って茨を切り落とす。
「料理中に危ないな!? 家の中はやめておけ!」
「そうね、アマンダの家を汚したくないから、外に出ましょうね?」
紫の茨がガンドルフの足首を絡めた。引き摺るように玄関から彼を放り投げる。
レイチェルは笑う。うふふ、と笑う。嫣然と笑う。
やらないといけないことは唯一つだけ。
「エルダーの血は根絶やしにする。それが約束だったわ。もぅ、うっかりね。忘れちゃうところだった」
殺さないと、殺さないと、と頭の中で声がする。
眼の前にいるのはエルダーの血。殺される前に殺さないといけない。それが約束だ。
エルダーの血が滅ぶまで、レイチェルは死んではいけない。死なせてもらえない。
アマンダの魔法とエルダーの約束。
幼かったレイチェルにとって、千年は長すぎた。
「エルダー、返してくれるって、言ったのに……!」
寂しくはない。だって魔獣たちが寄り添ってくれるから。
でも、それならこの感情は?
寂しいとは違うこの感情。いつまで経っても果たされない約束に胸が張り裂けそうなだけ。
この感情を持て余すことに、レイチェルは疲れていた。疲れていたから、エルダーの血を滅ぼすことでしか、もう、癒やされなくて。
レイチェルは紫の茨でガンドルフを攻撃する。
ガンドルフはいつの間にか剣を掴んでいて、鞭打つようにしなる紫の茨を切り捨てた。
「アマンダの心臓を返してよぉ……! アマンダの心臓で私を殺してよぉ……!」
虹色の瞳に涙が浮かぶ。
ガンドルフは強い。強いから殺せない。アマンダの魂を持ってるから殺したくない。
でもこのままじゃ、エルダーの血を殺せない。
殺せない。殺したい。殺したくない。殺せない。
癇癪のように胸に渦巻く気持ちに、レイチェルはえずく。
ガンドルフの琥珀色の瞳が大きく見開かれる。
「お前は、死にたいのか……!?」
レイチェルは一瞬、動きを止めた。
ガンドルフの言葉を脳内で反芻して、感情の天秤にかけようとする。
「死にたい……? だめ、だめだめだめだめ! アマンダがだめって言ったのよ? 死にたがりの私のために約束をくれたのよ? 忘れちゃったの? 私はエルダーがここに来るまで、森を守って、広げて、世界を調律しないといけないの……!」
そう、守らなきゃ。
死んでる暇なんてないの。
アマンダが遺していった約束。
エルダーと交わした約束。
全部全部、レイチェルのための。
空を見上げる。
両手を広げる。
レイチェルは歌う。
「広がれ、広がれ、私の森よ。呪え、呪え、血を吸う大地。塞げ、塞げ、闇の茨」
地面から何本もの茨が突き出て、ガンドルフを追いかけた。レイチェルの声に惹かれるように、森から魔獣たちが姿を表す。
ガンドルフがレイチェルに背を向けて走り出した。
その背に向けて紫の茨が迫る。
振り向きざまに一閃されて、届かない。
「ずるい、ずるいわ。あなたってばずるい」
レイチェルは呟く。
震える唇が言葉を紡ぐ。涙が頬を伝う。
レイチェルの感情に触発されたように、雨雲が森の上を覆い出した。あっという間に豪雨が降り注ぐ。
雨飛沫が烟る森の中、駆けていったガンドルフの背中をぼんやりと見つめた。
「アマンダの魂で、エルダーの血を持ってるなんて、ずるいわ」
逃げるガンドルフを追いかけるべきだと思うのに、追いかけられない。
冷たい雨の中、魔獣たちがレイチェルに寄り添ってくれた。レイチェルは彼らをひと撫ですると笑う。
笑って部屋に戻って、彼の残した作りかけのシチューを見た。
すっかり冷えちゃったシチュー。ひと口食べてみる。やっぱり、この味は。
「……お母さんの味だわ」
千年たっても忘れない。
恋しくてたまらない、アマンダの味だった。




