「……古竜の大森林では、羊は畑で育つのか」
レイチェルは岩山の天辺で、大きな卵にもたれて歌っていた。
枯れ木と枯れ草でできた、角持ち鷲の巣の中で歌うのは、眠れない夜にアマンダが歌ってくれた子守唄。レイチェルの歌は全部思い出の中に残っている。
自分の身長ほどもある卵。中から感じる生命の脈動にレイチェルは微笑んだ。
「大きくなぁれ、大きくなぁれ、愛しい子ども」
心臓が形成されたのか、卵の中からとくとくと脈打つ鼓動が伝わってくる。早く生まれてきてね、とレイチェルは卵を撫でた。
そんなレイチェルの尖った耳がぴくりと動く。卵にかけるような聖母のような微笑みではなくて、子供のように無邪気な笑顔を浮かべた。
でも困った。今は大事なお仕事の真っ最中。ここから離れるわけにもいかなくて、レイチェルはちょっぴりしょんもりする。
そうだわ、と気づいたレイチェルは唄った。
「導け、導け、闇の茨」
大地の血管を通じて力が動くのが分かる。レイチェルは満足気に笑って、卵を温める作業に戻った。
そうして暫く、穏やかな時間を過ごしていると。
「今日は出迎えはないのか」
「いらっしゃい、お母さん!」
岩山の、ちょうどレイチェルから見て崖になっている所から、にゅっと腕が伸びてきた。
登攀してきたガンドルフが身軽に身を持ち上げて、岩山の天辺に到着する。その後ろではレイチェルの操る紫色の茨が手を振るようにうねうねとうねっていた。
上手に案内できた茨たちは、レイチェルがパンッと両手を打ち鳴らすと、紫色の光の粒子を散らして消えていく。
ガンドルフが巣に埋もれて卵に寄り添っているレイチェルのもとへ、大股で寄ってきた。
「それはなんだ?」
「角持ち鷲の卵よ。大地の血管から生命の力を注いでいるの。こうやって卵のうちから注いでいるとね、卵の中で進化が起きて、角持ち鷲から分化した新しい生き物になることがあるの」
レイチェルが魔女しか知らない秘密よ、と教えてあげると、ガンドルフは興味深そうに卵を見下げた。
「新しい生き物が生まれるのか」
「そうよ。とはいっても、進化が起こるのは珍しくて、ほとんどはちょっと強い個体になるだけ」
「そうか」
レイチェルはこうやって魔獣を作っている。
成体から魔獣化させることもできるけれど、それは元の生き物に対して負荷が高くなる。進化に伴う痛みだけじゃなくて、それまでの生や価値観を捨て去らないといけないこともあるから。
それはレイチェル自身がかつて、身をもって体験したこと。
生きるためだからとレイチェルを進化させたアマンダはもちろん、そんな方法でしか助けられないことにエルダーも悔しそうにしていた。
でもそれで良かった。レイチェルは竜種に進化したことで救われた。救ってもらった。たとえいつかエルダーに殺されることになろうとも、それで良かった。
生きることで得られた幸せは、間違いなくあったのだから。
だからレイチェルは許さない。
エルダーは自分を殺さなかったから。自分じゃなくてアマンダを殺したから。竜殺しとしてもたらすはずだった死の約束を放棄して、レイチェルを殺さなかったから。
だからレイチェルはエルダーを許さない。
胸の奥底から湧き上がる怨嗟を、レイチェルは優しくしまう。
今はだめ。怨嗟を卵に注いでは駄目。そんなことをしてしまったら、この卵は悍ましい進化を遂げてしまうから。
レイチェルは自我に忍び寄る狂気を霧散させて、にっこりと微笑む。
「お母さん、今日はどんなご用かしら。また何か聞きたいこと?」
せっかくアマンダの魂を持つガンドルフがやって来たんだもの。レイチェルはこの時間を大切にしたい。しげしげと卵を観察していたガンドルフに声をかければ、彼はちょっとだけ動揺したように肩を揺らした。
それから視線を右往左往させて、背負っていた背嚢を降ろす。
「あぁ、いや……しばらく忙しくなるから、寂しくないようにこれを渡しに来た」
そう言って背嚢から出てきたのは、手のひらサイズの小さな包みだった。
淡いローズピンクの花模様が水彩で描かれた袋。袋の口はレモンイエローのリボンで可愛く結ばれている。
虹色の瞳に住んでいる光の魚がくるりと嬉しそうに泳いだ。
「プレゼントだわ!」
レイチェルは頬を染めて、ガンドルフの持つプレゼントに手を伸ばす。ガンドルフはぶっきらぼうな表情でレイチェルへ贈り物を渡してくれたけれど、照れているのかほんのちょっぴり耳が赤くなっていた。
「ラッピングが可愛いわ! リボンも可愛い! 開けるのがもったいないわ!」
「開けてくれ。ラッピングがプレゼントではないんだから」
「仕方ないわ……丁寧に開けましょう」
千年ぶりの母からの贈り物だ。
このまま大切にしまっておきたいけれど、ガンドルフの言うようにラッピングが贈り物ではないので、ゆっくり丁寧にラッピングを開けていく。
中身が露わになると、レイチェルの頬はますます上気して。
「まぁあああ! ぬいぐるみだわ! ぬいぐるみだわ! 可愛らしい!」
「気に入ってくれて良かった」
贈り物はぬいぐるみだった。白くてもこもこしていて、くるりんっとうずまきを描いた角を持つぬいぐるみ。
レイチェルは嬉しくてぎゅうぎゅうとぬいぐるみを抱きしめた。
「ありがとう、お母さん!」
「母親じゃない。せめて父親にしてくれ」
満面の笑顔でお礼を言ったら、ガンドルフが微妙な表情で抗議してきた。
父親。
ちちおや、ちちおや、とレイチェルは呟く。その言葉が指すものを記憶の底から掘り返す。
「おとーさん……」
「なんだか不満そうだな」
「ねぇ、おとーさんってなに?」
「はぁ?」
ガンドルフがまじまじとレイチェルを見つめてきた。レイチェルは困ったように眉をへにょりとさせる。
「なんだか嫌な響きなの。胸がざわざわするわ」
「嫌なのか」
「嫌」
「そうか……」
ガンドルフが複雑そうにため息をついて肩を落とした。レイチェルはちょっとそわそわしてしまう。父という概念があまりにも馴染みがないから。
遠い昔、父と呼んだ存在がいたような記憶もあるけれど、その記憶はアマンダとエルダーがレイチェルから取り上げてしまった記憶だ。レイチェルには要らない。幸せになる子には要らない。レイチェルの家族はアマンダとエルダーだけ。そう教えてもらった。
レイチェルはぬいぐるみの腕らしきものを引っ張ると、卵にひっつけた。ぬいぐるみが卵に抱きついているようにも見える。
うんうん、と満足げに頷いていると、それをちょっと離れたところに座って見ていたガンドルフがぽつりと呟いた。
「なぁ、アマンダってどんな人だったんだ」
アマンダってどんな人。
レイチェルはぬいぐるみのもこもこした毛並みに指を通しながら、アマンダの感触を思い出す。
髪は緋色で、瞳は翡翠色。糸を手作りしては花弁で染色して、素敵なドレスを作っていた。
「可愛い人だったわ。少しおっちょこちょいだったけれど、いつも笑顔で、楽しそうだったの」
アマンダはいつだって楽しんでいた。
エルダーがレイチェルを拾ってきた時も。レイチェルがぺっちゃんこなパンを焼いた時も。エルダーが狩りに失敗して怪我をした時も。クッキーを持ってお魚釣りに出かけた時に、うっかり釣った魚を魚籠じゃなくてクッキーの籠に入れた時も。エルダーに心臓をあげるために、剣で刺された時でさえ。
どんな時だって笑っていた。
アマンダが笑うから、レイチェルもエルダーも安心したし、どうにかなると思えた。エルダーがいなければ、アマンダは今でも笑っていたはずだ。
レイチェルの虹色の瞳が濁る。すぐそばにあるエルダーの血に心がざわめく。
でもまだガンドルフと、アマンダの魂を持つこの人と話していたくて。喉の奥にせり上がる狂気をぐっと飲みこむ。
レイチェルが虚ろになりそうな自我の手綱をなんとか握っていると、ガンドルフはそんなことを知らないまま、しみじみと呟く。
「良い母親だったんだな」
不思議な言い方だ。
レイチェルはこてりと首をかしげる。
「お母さんに良いも悪いもいるの?」
「母親じゃなくても、人間なら良し悪しはある」
「たとえば?」
「たとえば?」
ガンドルフが面食らったように琥珀色の瞳を丸くした。それからアッシュグレーの髪をがしがし掻く。考えるように口を真一文字に引き結んで。
「そうだな……俺の母親は厳しい人だった。誠実であれ、とそれだけを言われ続けたな。その代わりに父が優しい人で、めいっぱい遊んでもらった記憶がある」
「お母さんにもお母さんがいたの?」
「当たり前だ」
「お母さんのお母さん……」
アマンダの母は、誰だっただろうか。
アマンダは自分が魔女で、もっとずっと東のほうから来たことしか教えてくれなかった。
レイチェルはアマンダのことを知らない。アマンダに母がいることも想像したことがない。眼の前にいる彼は間違いなくアマンダのはずなのに、アマンダの魂を持つはずなのに、レイチェルの記憶の中で齟齬が起きようとしている。
頭の中がぐるぐるする。
表情の抜け落ちたレイチェルに、ガンドルフが気がついた。
「そうだ! 南にだな、えぇと……こう、もこもこした生き物がいる」
「もこもこ」
「羊は知っているか? そのぬいぐるみがそうなんだが」
ガンドルフがレイチェルの持つぬいぐるみを指差した。
レイチェルの表情に温度が戻ってきて、角持ち鷲の卵に抱きついているぬいぐるみへと視線が向かう。まじまじとレイチェルはぬいぐるみを見て、ピンときた。このぬいぐるみは羊だった!
「知っているわ! どうりで見覚えがあると思ったら! 草の実のぬいぐるみだったのね!」
「は? 草の実?」
「羊はこれくらいの草に実として成るでしょう?」
「ならないぞ!? そんな大きさではそもそも羊を支えられないじゃないか!?」
「なにを言っているの? 羊はこれくらいでしょう?」
レイチェルは両手を使って羊のサイズを示した。自分の知っている羊の大きさは、本当に手のひらと同じくらいか、もう少し大きいくらいだ。
ガンドルフは大真面目な表情で、レイチェルと同じように両手を使って羊の大きさを教えてくれる。その腕が大きく広がった。
「……羊はこれくらいある」
「嘘よ」
ガンドルフの言う羊は犬や狼くらいの大きさがあった。レイチェルが信じていないように半眼になる。ガンドルフが唸った。
「本当だ。この森の南のほうに牧場がある。そこにたくさん居るから、今度、見に行こう」
「牧場なの? 畑じゃなくて?」
「……古竜の大森林では、羊は畑で育つのか」
遠い目でガンドルフがぼやく。
レイチェルはガンドルフの言う牧場を想像して、なんだか温かい気持ちになった。
約束を。
アマンダがもう一度、レイチェルに約束をくれた。
レイチェルは嬉しい。アマンダの約束によって生かされるレイチェルは、これでまた、約束を果たすまで生きようと思えるから。
貴女は死にたがりだから、と笑うアマンダが今でも記憶の中に住んでいる。
レイチェルはぬいぐるみの頭を撫でると、新しい約束を大切に胸の中へとしまった。




