1-3:王城禁書庫の少女
王城東端に位置する禁書庫の最深部は地下五階、当然朝日は入らない。
しかし夜が明けると、まるで朝日が窓から差し込むように、白大理石で造られた書庫内部はひとりでに明るくなる。
書庫を見渡せる北壁中央の空間を、壁で真四角に区切って造られている司書室も同じく。
「……朝」
机に突っ伏して眠っていたセシリア・ヴァストは、細く開いた目を左手で軽くこすった。
薄明るくぼやけた視界に台に開いた重厚な革表紙の本と、文字を書きつけた無数の紙と、尖った先のインクが乾いた羽ペンが転がっているのと、ぼさぼさに乱れた自分の黒髪が腕にかかっているのが見える。
「朝!? また仕事しながら、寝落ちた……っ!?」
うぁうあぁ……と、気の抜けたうめき声を上げて、セシリアは枕にしていた右腕を伸ばし、なにも書かれていない紙に額をつけて、ううっとうなる。
「ネイサンおじさまに、怒られる……!」
今週、これで二度目である。無断外泊だ。
一応、貴族令嬢なので、仕事をしていたからといってやっていいことではない。
それ以前に、ヴァスト家の使用人達はセシリアが王城にいることを知らない。
「たぶん、書庫にいると思っているだろうけど……」
セシリアの父も兄も、書庫にこもって二、三日出てこないことはよくある。気がつけば所属する研究機関から一週間ほど家に戻っていないことも珍しくない。
ヴァスト家の人間にとって、“研究に夢中になって朝を迎えていた”はありふれた日常だ。
使用人達も、いつものこと過ぎて、一日くらいなら不在に気がつかないことも多い。だが、ヴァスト家の王都屋敷の離れに、現在間借りしている遠戚のおじさまは違う。
『この不良バカ娘っ! これだから侯爵家は……その貧弱な体で不摂生とか百万年早いわッ! はあ、さぞかしご立派なお仕事を仕上げてきたんでしょうねえ、ねえ? ねえぇぇ、<深園の解錠師>様?』
両頬をつままれ、引っ張りながらお説教されたのはまだ記憶に新しい。
セシリアの遠戚のおじさまは、離れから入った彼女を出迎えるなり制裁を加えた。三十代半ば近いけれど美青年で十分通用する、その見た目だからこそ威力のある、嗜虐的ないい微笑みを浮かべて。
『ハッ、寝食忘れてやった仕事がこれ?』
さらに書きかけの論考を奪われ、ものすごく辛口にだめ出しされた。
背の半ばまで真っ直ぐ伸びる明るい栗色の髪を払い、細めた琥珀色の瞳でセシリアを見下ろし鼻で笑って。
「うぅ……成長期だし身体の心配や防犯その他諸々、わたしを心配してなのはわかるけど……ひどいっ」
ものすごく辛口なだめ出しが、恐ろしく的確な指摘であるのも怖い。
辞めて十年以上経つけれど、魔術の名門教育機関、アルバス魔法魔術学院の若き教授だった経歴に嘘偽りはない。
学生寮の寮監でもあったらしく時間にも厳しい。
遠戚のおじさま――魔術師ネイサン・リドルは、“魔術師ではない”セシリアの魔術の先生である。
『凡人のアタシは、才能ある若者が大嫌いなの。アルバスではその才能がいかに万能じゃないか、じっくりと教えてやるのが唯一の楽しみだったくらい。アンタときたら魔術師じゃないし……つまらないったらありゃしない』
人格的にはともかく、ヴァスト家の書庫にある本の知識だけだったセシリアが、たった一年半で封印魔術古書の解錠技法の理論を固めて実践まで持っていけたのは、間違いなく彼のおかげだ。
「大体、凡人は上級魔術師にもアルバスの教授にもなれないと思う」
性格はサディストで歪んでいるのに、指導は的確だ。それに先生として不思議な安心感を与える。どんなに行き詰まっても、不出来でも、常識から外れていても、見離されない安心感。
時折、教え子らしき人から手紙が届いて、苦虫噛み潰したような顔をしむっすり押し黙って返事を書いている。きっと彼に教わった学生も、セシリアと同様なのだろうと思う。
「リトラもどうして帰ろうって言ってくれなかったのっ」
「私は何度も帰りましょうって言いました。聞いていなかったのはマスターです」
セシリアが机に伏せていた上半身を起こし、両腕を持ち上げて背筋を伸ばすと同時に、彼女の言葉に異議を唱える声がした。
禁書庫の司書室にセシリアの他に人はいない。声はセシリアの右手から聞こえてくる。
「ずっと紙に数字や記号を書いていました」
セシリアは右手の甲を見る。細い人差し指と中指に指輪がはまっている。
人差し指の銀細工の指輪はこの王城地下書庫の鍵で、中指の白いオパールの指輪が遊色の輝きを明滅させていた。
「私の言葉を無視して……」
指輪の光の点滅が強く早くなる。
ヴァスト家所有の准一級封印魔術古書『七貴石と効能の書』。
国王の前で『深園の書』の封印を解く前に、練習台として使った本の表紙を飾る、装飾石のオパールに閉じ込められていた精霊は不服を訴えているらしい。
「そう、ごめんね」
「今度は、マスターの先生のように、マスターの頬を引っ張ってみることにします」
それはやめてほしい。セシリアがそう思ったのとほぼ同時に、ぽぅっと、指輪から白く丸い光が飛び出す。
しゅるりと人の形を取るが、人外だとすぐわかる。
セシリアの両手に乗る大きさで、足はなく、白い胴体と腕に白い髪、オレンジ色の瞳のない目。
イメージとして近いのは人魚。
ただし足に鱗はなく、つるんと白い。両生類ぽい印象だ。
顔は、整ってるけれど、目鼻立ちははっきり作られていない彫刻の置物のようである。
「本や紙の上をうろちょろして邪魔してくれたらいいから」
「……気がつきますか?」
さすがのセシリアだって、そこまでされたら気がつくし手を止める。
だがリトラは「本当に……?」と、懐疑的に首を傾げて、セシリアの顔の位置でふよふよ浮いている。
「……疑わしいです」
リトラ――正式にはリトラディスという名の精霊は、セシリアの一応契約精霊だ。一応というのは、なんの代償も要求されず、尋ねてもいないのに名乗られて主従となっているからである。
通常、精霊の名を得て、使役するには契約が必要である。
本の装飾石の中にいた精霊は、封印を解除したセシリアを勝手に主と定め、尋ねてもないのに名乗った。
以来、リトラはセシリアとずっと一緒にいる。
「契約というより、懐かれたと言うのが正しい気がする」
「なんですか?」
「なんでもない」
リトラのような人の目に見える姿形も取れ、意思と知性を持ち人間の言葉も話せる上位精霊との契約は、相当な魔力を持つ魔術師でも難しい。
一般人に毛が生えた程度の魔力で魔術適性がないセシリアは、本来、精霊と契約なんて不可能。
実に棚ぼたな経緯でセシリアはリトラを使役できる主となった。
魔術師が聞いたら卒倒しそうな話であり、その証拠にネイサンから「この小娘は〜っ」と、理不尽にこめかみを拳でぐりぐり攻撃された。
もう二年と半年前の出来事だ。
「とりあえず、お風呂入ろう」
セシリアは、細い肩からずり落ちかけた亜麻色のフード付き作業用ローブを、手を使わず、肩を回すようにして引き上げ直すと椅子から降りる。
司書室はまあまあ広く、お風呂付きだ。
部屋というよりは小さな家の様相を呈している。
「設備を考えると、住み込み前提だったんだろうな」
司書室は入ってすぐ、縦並びになった書棚兼道具棚の林を抜け、大きく重厚な木の机が部屋の中央を陣取る作業場となっている。
セシリアが突っ伏して眠っていた机だ。
さらに建物の北壁は向かって奥のスペースは用途別に半々に分かれていた。
小さなテーブルセットと寝椅子のある居間と、大きな銀枠の姿見が目立つ身支度の場所。
身支度の場所側、北壁から衝立三つでL字に区切って、小さな湯船を置いた洗面スペースとなっている。
「リトラ、水を出して」
作業用ローブの、少し丈の長いぶかぶかした袖を揺らし、湯船の前でセシリアが命じれば湯船にきらきらした水が即座に溜まる。
湯船は真っ白で、豆のさやのように細長く、つるんとした石でとてもきれいだ。ひび割れも汚れ一つない。
何百年も前に建てられたのに、建物も設備もまったく老朽化も劣化もしていない。王城禁書庫はそのすべてに、誰も再現できない、古代の魔法魔術が使われ造られている。
「出しました」
「ありがとう」
水を内包する宝石にいた精霊だからか、リトラは水属性の魔法を使う。土属性の魔法も使えるけれど、水の方が得意なようだ。
セシリアが服を脱いでいる間に、湯船から湯気が立ってくる。リトラの出した水に含まれる魔力に反応し、湯船の魔術か魔法が作用してできたお湯だ。
「湯船に魔力付与はされてないから、魔道具ではないはずなのに」
ネイサンに計器を借りて何度も測ったから間違いない。
だから何度見ても不思議だ。
「水が含む魔力で発動しているとしか、考えられないけれど……」
精霊が生成する水には魔力が含まれている。魔術師が水属性の魔術で生成しても同じく。
いまの魔術は、術者本人の魔力で発動するものが基本だ。
魔術具も、製作者が起動するための動力として魔力を付与する。だがこの湯船にはそれがない。
「不確定要素が多過ぎる、他者の魔力に反応させて成り立つ魔術って」
肌着は身につけたまま、ちゃぽんとお湯に浸かって、はあっと弛緩したため息を吐きながらセシリアは考える。
「どういう仕組みだろ……」
魔術は、術式を構成する演算の正確さ、その術式を正確に刻む魔力の制御や操作技術、発動させる魔力量で精度と強さが決まる。
演算が正確でないと狙った現象が生じない。
計算し組み上げた術式を、その通り正確に魔力を使って書き起こし、制御や操作ができないと上手く使えない。
しかしそれも魔力が足りなければ意味がない。
動力不足で不発か、現象として弱いものになる。
「マスター、いいお湯ですか?」
「うん。おいで」
セシリアが両手で小さくリトラの湯船を作ってあげると、ちゃぽんと入ってきて寛ぐ。精霊もお風呂は気持ちいいらしい。
「魔術の行使に一番大事なのは魔力だけど……他者の微量な魔力でなんてどうしたら。魔術式もわからないし古代叡智すごい」
「すごいのですか?」
「うん。人間は精霊みたいに自在に魔力を使えないから」
古代叡智とは、統一王朝時代にあって王朝滅亡と共に大半が廃れ失われた魔法魔術のことだ。頂点に達した魔法魔術で、王朝は栄華を極めていたという。
「機能も試したいし、色々好きに使っているけど……わたしに仕事部屋として与えるっておかしくない?」
様々な調査や研究で、王城禁書庫は王朝が滅ぶ大災害直前に完成した建物であること。
また解読された古文書から、当時の大図書館五〇万冊の蔵書の内、魔法魔術に関する禁書九九七三冊のため書庫だと判明している。
「マスターは管理司書官なのにおかしい?」
「王城禁書庫そのものが、当時の技術の粋を集めた大陸最大の古代遺物だもの」
「古代遺物? 私が寝ていた本のような?」
「そう。禁書庫だから内緒で地下に作られてて、完成すぐに大災害が来て誰にも荒らされず、未使用で丸ごと残ってたんだって」
建物全体に、防護と自動修復が組み込まれているため、壊れず老朽化もせず守られていたこともある。
(王城増築の際に敷地を掘り起こして発見されて、各所で保管されていた封印魔術古書は、次第にここに集まったらしいけど……)
元々すべての魔法魔術書を収めるために造られた建物だ。収容能力は問題ない。大半の本を平置きで保管できる書架、書庫を区切る目印のような柱が整然と並ぶ、美しい白大理石の箱。
「マスター! また考え事を」
リトラの声でセシリアは我に返った。
白いしっぽのような足がふにょふにょ動いている。
目の前で動いてくれたらさすがに気がつく。セシリアの言葉に忠実に従ってくれたらしい。いつからそうしていたのだろう、全然気がつかなかった。
「やはり、疑わしいです」
恨めしげな声で言われて、セシリアは曖昧な笑みで誤魔化し湯船を出た。
しゅるりとリトラが白い肌着の肩に乗る、セシリアの体や髪を濡らす水滴が意思を持つように湯船の水へと戻っていく。布で拭くまでもなく体も服も髪も乾き、湯船の水は空中で球体となって消えた。
精霊の魔法は人知を超えている。
浄化もする水なので、浸かって出るだけでさっぱりする。
「ありがと」
人差し指で頭を撫でてセシリアがお礼を言えば、リトラは肩から離れて十歳くらいの少女の姿になった。
精霊は実体がないので、色々なものに姿を変えられる。性別もない。セシリアに合わせてくれているだけだ。
王城のような人がいる場所に連れ歩く時は、尻尾がふわふわの白リスになる。
いまは侍女のような服を着て、白い髪もちゃんとまとめいる。
「お手伝いします」
本当に屋敷の使用人のように小さく一礼する。
統一王朝時代もその後も知らず、目が覚めたら人間の世界にいたらしい。長く石の中で眠っていた精霊は、人間の真似事をするのが楽しいのだそうだ。
セシリアが仕事をしている間、寝椅子で本を読み、お茶を入れて、主を放って一人で飲んでいる。
書棚兼道具棚には、ヴァスト家から持ってきた、本やお茶やお菓子を保管する場所ができていた。
「ドレスじゃないから手伝うことないかも」
「そんな……」
「<深園の解錠師>はセシリア・リドルだから」
王城に仕事で来ている時のセシリアは、侯爵令嬢セシリア・ヴァストではない。
二年前――超一級封印魔術古書『深園の書』の封印解除に成功し、本の書名から<深園の解錠師>の称号を王から賜って、王城禁書庫の管理司書官に任命されたのはセシリア・リドル。
ヴァスト家の縁戚、ネイサン・リドル子爵に引き取られた平民上がりの養女。
年齢もぎりぎり就業可能な十五歳と二歳もサバを読んだ、架空の人物。
(王から称号を賜るということは、直属の臣として仕えるってことだから……ね)
セシリア、国王、そしてヴァスト家。
三者三様の事情と思惑と利害の一致により突如誕生した、王城禁書庫の少女だ。
「でしたら、ボタンだけでも〜」
「それより魔法かな」
上等だけど貴族令嬢としては飾りの少ない地味な服と着直して、亜麻色のローブを羽織り、セシリアは姿見の鏡の前に立つ。
黒髪に菫色の瞳を持った少女の姿は、一度、霧のような靄に覆われた後、灰褐色の髪に薄青の瞳を持った少女の姿になる。
光を操り、色が違って見える水属性魔法。
髪と目の色が違うだけで、貴族令嬢な容姿が地味な平民だった娘に見えるから不思議だ。
「つまらない」
リトラがしょんぼりするのに苦笑しながら、色の変わった髪をひと束の三つ編みにして、ローブのフードをすっぽり被れば、男か女かもよくわからなくなる。
よく魔術師に間違われる。たしかにそれっぽい。
けれどセシリアは、魔術師ではない。
古書に掛けられた厳重な鍵を外す技法を編み出しただけの解錠師だ。
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