3-10:疑念と運命の強制力
吹き抜けの高い天井に、金枠に水晶が連なるシャンデリアが輝き、蝋燭ではなく魔道具による光が大広間をまぶしいほど照らしている。
磨かれた床に映る、向い合う二人の足元が淡い影を伴って、優雅な音楽の調べに合わせて動いていた。
(まさか、こんな形で“彼女”と再会するなんて)
銀糸を編んだ繊細なレースを重ねる藤色のドレスの裾が揺れ、白絹に紫紺を配した銀の装飾がきらめく上着をひらめかせて動く足元が、華奢な令嬢の爪先が下がる先をゆっくりと追いかけて次のステップへと移る。
(よりにもよって王家主宰の夜会。それもシーズン最初の宴で目立ち過ぎる……)
踊りながらさりげなく周囲を見回して、クリストファーは胸の内でつぶやいた。
欠席の返事をした夜会に来るよう、父フランシス王に言われた時からなにかあるとは思っていたが、いまのこの状況はまったくの想定外だった。
近く王太子妃となるベアトリスの招待で、セシリア・ヴァスト侯爵令嬢が来ていたなんて。それも王族に囲まれていた彼女を紹介するように引き合わせられ、ダンスの相手をクリストファーが務めるよう促された。
(婚約者候補の令嬢として引き合わせられたも同然だ。貴族の間でも噂になる……いまになって)
周囲の人々の好奇と羨望の目が、踊る自分達に注がれている。苦々しい思いが込み上げるのを押し隠して、クリストファーは口元に微笑みを浮かべた。
公の場に出ている時の、どのような令嬢にも公平に優しく接する元王子の公爵の表情を保ち、内心に渦巻く嵐のような動揺は誰にも気取られないように。
そしてクリストファーは、目立つ場に突然立たされた困惑を上手く隠せないでいる、まだあどけなさを残す儚げな美しさの少女に囁きかけた。
「緊張してる?」
踊り始めて、床に大きな円を二度描いたが、一度もクリストファーと目を合わせてくれない。
彼の問いかけに反応して、セシリアが伏せていたまつ毛を持ち上げる。
クリストファーを見上げる菫色の瞳に、彼は胸を締め付けられる思いがした。
彼がこうして彼女の手を取ることは、どんなにそうしたくても回帰する人生で一度もなかったから。
「上手だね。ヴァスト家のご令嬢はまだ社交デビュー前だと記憶しているけれど」
「そんな……ことは。閣下のリードのおかげです……あっ」
クリストファーとの会話に気を取られたからだろう、セシリアの足が少し遅れて互いの爪先が軽くぶつかる。彼女の動揺が伝わったが、クリストファーはなんでもないように床に足を落ち着けた。
軽く重心を傾けて自然にセシリアを促し、滑らかなターンへと繋げば、まるで初めて魔術を見て驚いた人のように目を瞬かせた彼女に、くすりとクリストファーは演じるのではなく微笑む。
「どうしたの? ああ、急に僕の相手をさせられて困っているよね」
「こちらこそ、申し訳ありません……」
「どうして?」
「……ほとんど初対面も同然なのに、こんな」
「初対面の令嬢と踊るなんて珍しいことじゃないよ。兄上と違って婚約者もいないからね」
くるりとセシリアと一緒に回りながら、なんでもないようにクリストファーは答える。
かつての人生ではセシリアを嫌っていたベアトリスも威圧的に接していた兄オスカーも、今世では彼女に好意的な様子だ。冷めた傍観者であったアメリアも、いまは少女らしい憧れの眼差しをクリストファーとセシリアに向けている。
(父上はともかく、ベアトリスや兄上に他意はなさそうだ。兄上に誘われたお茶の席での、僕の言葉を真に受けて……どうしてセシリアに目をつけた? 先日の魔法薬治験といい、なにか強制的な力の働きを感じる)
ヴァスト家との縁に損はないくらいのことは後付けで考えたかもしれないが、おそらくは善意の紹介。
クリストファーはセシリアにだけわかるように、少し困ったような顔をしてみせる。
「どうやら僕の姉になる人が、君をとても気に入って紹介したかったみたいだ。いい人だけどちょっと強引でね……でも、せっかくだから楽しく踊ってくれたらうれしいな」
「……はぃ」
回帰する人生の強制力を思いながらも、少しばかりクリストファーはどこか高揚した気分でもいた。
だからこそ余計にセシリアの小さな返事に驚き、すっと高揚した気分が冷める。
どこか仕方がないといった響きを帯びた、その声と調子があまりに聞き覚えがあるものだったために。
「レディ……」
「はい」
呼びかけられたと思ったのだろう。クリストファーに応じておずおずと彼を見上げる表情まで似ている。
(レディ・リドル……)
見た目から受ける印象はまったく異なる。
そもそも髪も瞳の色も違う。
けれども、物言いたげに揺れる菫色の瞳が、よく見知った薄青い瞳と重なる。
(リドル家はヴァスト家の遠戚と聞いてはいたけれど、こうして間近に見ると目鼻立ちがよく似ている)
警戒心が強く、内気を通り越して卑屈にすら思える、<深園の解錠師>セシリア・リドルはいつも顔を隠すように地味な亜麻色のローブのフードを目深に被っている。その顔を、主に彼女が意識を失っている時とはいえ、クリストファーは何度かはっきり見ていた。
身体的な特徴が似ていて、声も似ることはありえる。しかし、遠縁の血のつながりでこれほど似るものだろうか。
『おおよそだから正確さに欠けて……役に立たない、かも……』
クリストファーの記憶の中にだけ存在する婚約者だったセシリアと、ぴったり同じ言葉を言ったセシリア・リドルを彼は思い返す。
偶然、こんな偶然があるのかと思うと同時に、あり得ないといった否定もクリストファーの中にある。
最初の頃は疑っていた。けれど魔力がなくてもセシリア・リドルは魔術の天才だ。演算能力に優れているとか、魔法魔術の知識に詳しいとかいった次元じゃない。
(投影の魔術を知っていても、塔を映像装置に変えるなんてまず思いつかない。思いついても未知のものの条件を即興で定義できない。それをまるで当たり前に知っているもののような容易さで作り出した)
大体、もし同一人物だったとして、なぜ“彼女”が封印魔術古書の解錠技法など確立しているのか。
こんなこと、クリストファーの回帰する人生では一度もない。
「……君は……誰だ……?」
無意識に喉の奥からこぼれた己の言葉にクリストファーははっとした。
幸い、言葉は流れる曲の盛り上がりに複数の弦が一斉に鳴り響く音にかき消され、そうでなくても会話よりダンスに集中するセシリアの耳には届いていないようだった。
一度、疑念を持ってしまうとクリストファーが握る華奢な手も、肩から背を支えている小柄な体もなにもかも似ているような気がしてくる。
「……閣下?」
彼女の手を取る指に、わずかに込めた力を感じ取ったのだろう。
首を少し傾けたセシリアを、クリストファーはくるりと回転させた。
突然の少し強引なリードに驚き、華やかにドレスを大きく翻しながら、支えるクリストファーの手を握り返したセシリアを彼は見つめた。きょとんとクリストファーを見ている様子が可愛らしい。
ふわりとスズランの花に似た香りが、クリストファーの鼻腔をくすぐった。消えてしまった過去の婚約者と同じ香りは、強烈な懐かしさを伴って彼を刺激する。
いたずらを仕掛けたような笑みに見えるように、クリストファーは苦笑した。
「ふふっ、驚いた? ダンスのことは忘れて、いまみたいに僕を見てほしいな」
「え?」
「いくらでも君に合わせるから」
いまならセシリアに、レディ・リドルについて尋ねられる。
クリストファー自身も、魔塔主としてもそうすべきだとわかっている。
(けれど、いまのこの時間を壊したくない……叶わないと思っていたんだ)
クリストファーの婚約者ではない、侯爵令嬢のセシリア・ヴァスト。
今世の“彼女”がどんな人物であっても、今度は絶対この手を離したりしないとクリストファーは強く思った。
流れる曲は終わりへと近づいている。
*****
セシリアをリードするクリストファーは、まさに多くの令嬢が思い描く理想の王子様のそれだった。
人々の視線を集める彼と踊ることになり、真っ白になっていたセシリアを気遣い話しかけてきたクリストファーに応じようとして、今度はステップが遅れて爪先で彼の足を踏みそうになった。
それでも彼は何事もなかったように、誰にもそのことを悟らせることなくセシリアを滑らかにターンさせる。
(すごい。クリストファー様って、ダンスのリードもこんなに上手いんだ)
曲に合わせ、そっと柔らかく傾けられる重心にどちらへ足を動かしどう回ればいいのか、なんとなくわかる。
ことさら腕を引くことも導こうとすることもなく、セシリアを優雅に支えて踊らせる。
まるで魔法だ。彼は魔術師だけれど。
なにより、セシリアの中にある前々世の記憶や、前世で読んだ小説の中のクリストファーとはまるで違う。
冷ややかなはずの氷色の眼差しはセシリアを優しく見つめ、本当に彼から大切にされていると錯覚させる丁寧なエスコート。
踊りながら時折言葉を交わす、クリストファーの声が甘く囁くように聞こえる。
明け方の悪夢が尾を引いていただけに、好意的なベアトリスをはじめとする王家の人々以上に、クリストファーの態度はセシリアを困惑をさせた。
(……彼がこんなに親切でやさしいのは、きっと今世のセシリア・ヴァストだから)
クリストファーの五つ年下で婚約者ではない。
これまでろくに接点もなかった、十五歳の社交デビューもしていない侯爵家の令嬢。
今世では、王の後継者を巡る派閥争いも起きていない。
誰もセシリアに敵意を向けないし、向ける必要もない。
(それに今世の彼は古代遺物のことをきっと知らない。『深園の書』の内容に関わるから、王様は王家の呪いを解いた取引を彼にも伏せているはず。だから考えもしないよね、子供の頃の辛い思いをしたのはわたしのせいだなんて)
クリストファーが現れる直前、セシリアは前々世のことを思い出していた。
婚約者として蔑ろにされていた、かつてのセシリア・ヴァストの記憶を。
いまの一欠片の優しさも向けられないほど、前々世のセシリアはクリストファーから疎まれていたのだと実感する。
(彼は魔術師だから……古代遺物の不正使用のこと、気づいていたか知っていたのだろうな。当時のセシリアの思考や感情も覚えていたら、もっと詳しいことがわかるのに)
思い出した記憶は、前々世でセシリアが見聞きしたものが映画のように流れていくだけ。
夢の中での意識や感情はかつての人生を追体験する、いまのセシリアのものだ。
「レディ……」
「はい」
不意に呼びかけられて、セシリアはほとんど無意識に返事をしてすぐしまったと思った。
クリストファーに「レディ・リドル」と呼びかけられた時みたいに返事をしてしまった。
(も、もしかしてまだ疑っていて試された……?!)
そろりとクリストファーの表情を上目にうかがったセシリアだったが、特に探っている感じではなかったのでほっとする。それによく考えたら、侯爵令嬢のセシリア・ヴァストの方が「レディ」と呼ばれておかしくない身分だ。
(むしろなんだか気遣わし気に見られているような気がする……。さっき足を踏みそうになったから、どうカバーしながら踊るか考えてる? マリーは運動神経は関係ないって言うけれど……集中しよう)
初対面の印象が良いわけでもない。ここでさらに迷惑をかけて嫌われ、余計な処刑フラグが立っても困る。
魔塔主の彼は、にこにこと微笑みながら圧力をかけてくる人だけれど、基本的にクリストファーは物腰柔らかでやさしい。令嬢の誰にでも丁寧に気遣うのだろう。
(でも……セシリア・ヴァストとして会ったのは今日で二度目なのに……)
ゆっくりと大広間を巡るように、クリストファーのリードで踊りながらセシリアは考える。
普段、クリストファーと会っているのはセシリア・リドルだ。
魔塔に通うようになって一ヶ月半ばかり。ようやく彼と接することにも慣れて、最初の頃の恐怖も少しずつ薄れて大丈夫になってきている。なにより彼と魔法魔術について彼と意見を交わすのは楽しい。
前々世の記憶や前世の小説にはない彼の一面も知ったけれど、こういった理想の王子様みたいな顔は知らない。
(なんだろう……なんだか胸の奥がもやもやする)
そんなことを考えていたら、不意にセシリアの手を握るようにクリストファーが指に力を込めた。
同時に、くるりと少し派手な動きで回転させられる。
驚いて呆気に取られていたら、ダンスのことは忘れて自分を見て欲しいとクリストファーに囁かれ、セシリアは困惑を深めた。胸の奥のもやもやも深くなる。
「いくらでも君に合わせるから」
考え事をしていたせいか、ダンスのことなのにそう思えないように聞こえる。
セシリアはクリストファーを見上げて、処刑の記憶に見た冷やかさなど少しもない彼の眼差しに、またすぐに俯いた。
(この甘い優しさは、今世のセシリア・ヴァストに向けられてる……でも今世だって、前々世と変わらない)
古代遺物がセシリアに使われていなかったら、クリストファーは魔力過多で苦しまずに済んだかもしれないことは変わらない。小説に書かれていた、彼の回想の過酷さを考えたら憎まれないはずがないのだ。
今世のセシリア・ヴァストだって優しくされる資格はない。
(あ、だからこんな気分なのかな……いつか彼が怖くなくなって仲良くなれるかもって、少し思いかけていたから)
流れる曲は静かに終わり、まるであらかじめそう決められていたように大広間の真ん中に立っていたセシリアは、クリストファーと向き合って礼をした。
「セシリア〜! 我が妹がこんなに素敵な淑女になっていたなんて! 誇らしいよ〜」
ダンスの余韻もセシリアの感傷も吹き飛ばす、兄アーサーの朗らかな声にセシリアはドレスのスカートを少しつまんでクリストファーの側を通り過ぎた。クリストファーの背後からこちらヘ向かってやってくる兄の元へ早足で向い、ぽすんと正面から抱きつく。
「……お兄様」
「おやおや。さすがに閣下のお相手は緊張が過ぎた?」
周囲にはわからない程度にセシリアは頷き、王家の人々のなかに置いてけぼりなんてひどいです……と小声で訴えた。重々承知していたようで、ごめんごめんとアーサーはセシリアに謝る。
「私もそのつもりはなかったよ。でも敬意を払うべき先輩殿に呼ばれちゃってさ。ところが普段の彼らしくもなく、わざわざここで話すようなことでもないことを言う……まったくどうしてだろうね、閣下?」
片マントを羽織った腕にセシリアを抱き寄せて、アーサーはいつの間にかセシリア達に近づいていたクリストファーに略式の臣下の礼を取った。彼が王家を独立した公爵であることは閣下と呼んでわかっているはずなのに。
「僕にそういった挨拶は不要だよ。アーサー殿、先日魔塔では世話になったね」
「王家の忠臣として一応敬意は払っておこうかと。今宵は王族として参加しているようにお見受けしましたので」
「まさか、シーズン最初で顔を出したまでだよ」
にこやかに親しげに話している二人だけれど、なんとなく牽制しあっているようにも感じられる。
アーサーの腕にちょこんと指をかけてセシリアはおろおろする。
「あの……お兄様」
「そうだ。私が外していた間、相手をしてくださった閣下にお礼申し上げなければいけないね、セシリア」
腕の中からそっとアーサーに押し出されて、セシリアは少しばかりおずおずとクリストファーの前に再び立った。
「あ、ありがとうございます」
「どういたしまして。こちらこそデビューを迎える前に、最初のダンスの相手になれて光栄だ」
にっこりと微笑んだクリストファーに手を取られ、指先に儀礼的な口付けを落とされる。
固まりかけたセシリアをすぐさま、アーサーがまた彼の片腕の中に回収してくれた。
「少し疲れたかな、セシリア。我が妹はまだ本格的な社交に慣れていないので、愛らしさに免じてお許しください」
「……魔塔で挨拶した時も思ったけれど、少々過保護じゃないかな」
「我が妹は、“ヴァストの至宝”ですから」
「お、お兄様……こんな場で……」
「どうして? 王太子殿下にも学友だった頃に散々自慢していまさらだよ。だからてっきり王家の方々が閣下に引き合わせでもしたのかと、ヴァスト家に打診もなしにありえないのにねえ」
肩をすくめたアーサーに、あっとセシリアは気がついた。
踊っている最中に感じた視線はそういったことだったのかと、セシリアは夜会の場であることも忘れてふるふると首を振った。
(う、うっかり……回避した婚約が戻ってくるところだったなんて……!)
慌ててセシリアはぎゅっとアーサーの袖を掴んで彼に訴えた。
高位貴族令嬢としては、やや無作法な、大きめの声で。
「お、お兄様が戻ってくるまで相手をって、王太子殿下が気遣って閣下にお願いしてくださっただけですっ!」
「それはかつての学友の気遣いに、私からも後でしっかりお礼を言わないといけないね。帰ろうか」
「え、でも」
「大丈夫。必要な挨拶や説明は、君が踊っている間にしておいたよっ。では、クリストファー閣下」
「そうだね。僕からも兄上やベアトリス嬢には説明しておこう。またどこかでね、セシリア嬢」
にっこりと微笑んだクリストファーが、セシリアの知るクリストファー様だった。
あれは、ちょっとご機嫌が悪い方の微笑みだ。
どうやら婚約は回避したままで大丈夫になりそうだと、セシリアはほっとした。
記憶格差とお互い知らないことによるすれ違い。
セシリアへの疑いを深めつつも無意識に受け入れ始めてもいる、クリストファーの感情が重い。
回帰記憶で積み重なっているクリストファーの感情とは反対に、セシリアの感情は転生でリセットされているため落差は仕方ないのですが、前々世の自分に同情したり、レディ・リドルとして本来の自分にちょっぴりやきもちめいた気分になったりと少しもやもやもしています。
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