1-2:今世こそは絶対に
――吐き気がするほど、嫌な夢を見た。
木製羽根が回る天井を眺めながら、クリストファー・ドゥクス・シルべスタは、悪夢の余韻で皺を刻む、眉間にかかった銀髪ごと額を軽くつかむ。
金の装飾に術式付与された四枚の羽根は、場が帯びる魔力を拡散し霧消させる効果がある。
塔内は実験や研究素材などの影響で、魔力が濃いため取り付けているものだ。
執務室だな……自分の居場所を確認し、寝そべっていた黒い革張りのソファから上半身を起こして、クリストファーは額に手を当てたまま、深く長い息を吐く。
「昼寝から起きたと思えば、絶望したようなため息吐いて。美女に振られる夢でも見たか?」
からかうような声が聞こえ、クリストファーは氷色の目を気怠げに細めてテーブルの向こう岸を見た。人の声でようやく夢から覚めた気分になった。
悪夢はいつも生々しく、いくつもの過去をクリストファーに突きつける。いまが本当に“いま”なのか怪しくさせるほどに。
「そんなところかな。それは大陸会議の議事録?」
一人掛けのソファに、黒ローブを着た図体の大きい赤髪で茶色目の男が、書類の束を手に足を組んで座っている。
魔塔主補佐のジェフ・ギブンスン。クリストファーの右腕である彼がいつ入室したかはわからないが、ここにいる理由ならわかる。
一週間前、大陸七ヶ国の各魔術師連合の長が集まる会議から戻った。その議事録が清書されて届く頃だ。
「ああ、さっき届いた」
「会議の内容なら、塔に戻ってすぐ、対応が必要なことは話したはずだよ」
「うちの魔塔主は、面倒くさがりで説明を端折るからな」
クリストファーの問いかけにぶっきらぼうな口調でジェフは答える。その行儀の悪さとは裏腹に、真剣な面持ちで目は書類の文字を追っている。
真面目なことだと思いながら、クリストファーは長椅子のソファーの真ん中に姿勢よく座り直した。
地厚な白絹に金銀の細い糸で細かな紋様が入った、彼のローブがさらさらと衣擦れの音を立てる。
塔で一番偉いと一目でわかるローブは、権威的だが嫌いではない。わかりやすさにひれ伏す者は一定数いる。
「情報を取捨選択していると言ってほしいね」
「余計にタチが悪い」
寝ている間に髪紐が緩んだらしい。胸元にかかる銀髪を首の後ろで一つに束ね直しながらのクリストファーの言葉に、推定六つ上の師を同じくする兄弟子は、書類を読みながら顔を顰める。
推定六つというのは、生まれ年不明な貧民街の元浮浪児であるからだ。
魔術師に彼のような人は珍しい。魔術も一種の学問である以上、端的にいって金と時間がかかる。
やはり貴族や富裕層出身者が多く、それに資質を持つ血を継ぐ魔術の家系もあるくらいには、魔力量などの適性は生得的で遺伝も多少は影響する。
ジェフは各地を放浪していた師と子供の頃に巡り合い、その資質を見出されて戸籍と学ぶ機会を得ている。
「留守を任せている君に隠すことはないよ」
それはそうと、やけに体が重く怠い。
おそらく夢に魔力の制御を乱していたのだろう。クリストファーは生まれつき魔力過多で、常にその制御を意識しないと己の魔力が己の身体を蝕む。
おまけに周囲の魔力濃度の影響も受けやすい。天井で回る羽根はそれを防ぐための魔道具だ。
(これは、魔力酔いを起こしかけているな……)
テーブルに保温されたお茶の用意があることに気がついて、クリストファーは白手袋の手を動かした。
お茶の道具に向けて人差し指の先で術式を刻み魔力を放つ。
すると、見えない給仕がいるようにティーポットからカップへとお茶が注がれ、お茶の入ったカップはクリストファーの前へ差し出されるように移動した。
人を魅了する優雅な所作でカップを口に運んだ彼に、ジェフが書類を下ろして呆れ返った顔を見せる。
「ん?」
「……寝起きにさらっと、とんでもなく高度な魔術を即席で披露するな」
「邪魔しちゃ悪いと思ってさ。君の心配は晴れた?」
物を動かす術式自体は簡単だ。しかしお茶を静かに注いで、一滴も零さず音も立てずカップを運ぶとなると、緻密な計算と魔力の制御と操作が必要になる。地味だが高度な魔術はそれなりに魔力も使う。
上級の魔術師でないと難しく、自分の手を使った方が簡単で早い。クリストファーも不調を隠し、魔力を消費するためでなければそうする。
「史上最年少、十八歳の魔塔主が、最初の大陸会議で虐められてないか気にしてたんだろ?」
魔力によって生み出される、奇跡や不思議な現象は大きく二つに分けられる。
竜や精霊など人外の力、魔石や魔性植物など、自然にある魔力現象の、魔法。
人間が、組んだ術式を魔力を使い発動させる技法である、魔術。
魔塔とは、そんな魔法魔術の専門機関にして魔術師を統括する組織。魔術師連合の本部の通称だ。
本部代表である組織の長は、慣例で“魔塔主”と呼ばれる。大陸テリアにある他の国も同様。クリストファーはここシルベスタ王国の魔塔主に就任して、三ヶ月と半月を越したばかりである。
「議事録を読む限り、お前の主導で進んだ会議だったみたいだな……」
「認定試験については、ご意見いただいたヴィルテンブルク帝国に運営を譲ったけれどね」
大陸会議は年四回実施される、大陸七ヶ国の魔塔主が集まる会議だ。
魔法魔術の規制や法規、魔術師認定の統一基準、国をまたぐ竜や魔獣災害など、一国におさまらない魔法魔術に関する事が大陸会議で決議されている。
「ああいった仕事は他所に任せて、たまに口出すくらいの立場が丁度いい」
にっこりと微笑んでクリストファーは、カップをテーブルに置いた。
魔術師の認定試験は大陸共通なため、その実施運営を担うのは名誉なことではある。ここ何年かはシルベスタ王国がその役目を担っていた。
だが労力のかかる仕事だ。人員や経費もばかにならない。魔術師の質がどうのと難癖もつけられやすい。
「採点や判定結果を見るに傾向を読まれつつある、やる気がある国に任せるのが一番だよ」
「王国の代替わりした若造に一発かますつもりが、逆手に取られて面倒押し付けられた訳か。そういうとこ元第二王子らしいよな……」
「十五の時に継承権を放棄して、臣に下りて魔術師なると自ら宣言した不肖の王子だけどね。一業界の長としての立ち回りくらいはできないと、国の威信にも関わる」
魔術界はいま、王国と帝国の二強と言われている。
魔術師の数や新規魔術の件数が多いからだが、実際はそうでもない。
魔法薬研究など特定分野で他国の追従を許さない国、良質な魔石などの素材産出国。そういった国から供給の優先順位を変えられたら、魔術師の数で勝負する国はたちまち活動に困ることになる。
軽んじられるのも、嫌厭されるのも、どちらもよくない。あれも政治の場だ。
「王族ということで若干警戒もされたけれど、信用はおいおい築いていくよ」
魔法魔術が社会や人に与える影響は大きくても、魔術師自体は一個人でしかない。
国家権力による独占や迫害を防ぎ、その圧力を牽制するため、各国の魔術師連合は互いに連携して大陸単位の団結を形成している。大陸最大の中立機関としてもその力は大きい。
王家に、権力に渡り合える力……過ぎ去った人生では持ち得なかったものだ。
ぱらぱらと弄ぶように書類を繰り始めたジェフに苦笑しながら、両手の指を組み合わせてクリストファーはソファの背もたれに身を預ける。
「あれは、いつ王城禁書庫から出すんだ?」
「ん?」
「『深園の書』だよ。地下書庫から出すのに、国王・王城図書館・封印古書管理会・魔術師連合の承認がいる超一級封印魔術古書って、どんな本だよ一体?」
「ああ」
そういえば聞いていない。最凶と名高い禁書だから、出庫日の知らせは王城から必ず入るはずだ。万一、盗難や紛失があれば一大事である。
必要な承認を三つ揃えた上で魔術師連合に回してきた、圧力めいた申請であったのに。
「国内審議で処理できただろ、どうして大陸審議に持ち込んだ? 王家や王城関係は面白くないはずだ」
「まあね。王家や王城との良好な関係も大事だけれど、魔術師の面子と政治的な配慮も必要なんだよ」
「配慮?」
「なにしろ発見から約三〇〇年、凶悪な封印で中身を知ろうと挑んだ魔術師を比喩ではなく屠ってきた。封印強度最強にして最凶の封印魔術古書……魔術師にとっても色々と思うところがある本だ」
はるか昔、征服王が大陸全土を治めた統一王朝の時代。
魔法魔術はその技法が頂点に達して栄華を極め、王朝が滅んだと同時にその多くが廃れて失われた。
古代叡智と呼ばれる当時の知識や技法は、それを記した本だけが残されている。
“封印魔術古書”と呼称される、強固な封印で本とその内容が守られ、いまを生きる者には読めない本。
(正直、見たくもない本だけど……本来、あれが出庫されるのは三年後のはずだ)
他でもない、クリストファーが王の密命であの本を渡されて、その記述を守る封印に命を落とすのだから。
クリストファーは、同じ人生を繰り返している。
シルベスタ王国の魔力過多の第二王子として生まれ育ち、十五歳で王家を出て臣に下りて魔塔に属する魔術師になり、十八歳で史上最年少の魔塔主の座に就く。
人生における主だった経歴は、“今世”でもほぼ同じように辿っている。
ただクリストファーの境遇とその経緯はまるで異なる。
彼自身で変えてきた、もう二度と愚かな人生を繰り返さないために。
(回帰する人生の記憶が蘇るのは、いつも“彼女”の処刑後だったのに……)
記憶は悪夢として、五歳の時に蘇った。
繰り返すうちに思い出した。自由と選択肢を奪われ、蔑まれ、搾取される人生。
必ず同じ道を進み、二十歳の時に婚約者セシリア・ヴァストの処刑を命じられ、二十一歳で王命で『深園の書』を開いて死ぬ。
(どうして今回に限って、子供の時に記憶が蘇った?)
それに同い年だったはずの“彼女”が、五つ年下になっている。
いま十三歳のはずだが、婚約どころか出会ってすらもいない。
考えてもなにもわからないが、今世ではクリストファーが選択肢を奪われる前に手が打てる。
(なにが起きようと、今世こそは絶対に“彼女”の死を、悲劇を回避する)
以前の人生では、十五歳になっても魔力の制御ができないことで、王子として見切りをつけられ臣下に落とされていた。
だから臣下に落とされた後に出会う師を、十歳で探し出して王城に魔術の教師として招き、十五歳より前に魔力の制御を完全にして、自ら王家を出て魔塔に入った。
王である父や王太子の兄とも良好な関係を築き、公爵位も所領も、王族の血筋を持つ者としての特権も、もぎ取れるだけもぎ取って。
すべては“彼女”のために。
自分のような男と関わらず、平穏に生きられるならそれでいい。
(けれど出会っていないからといって、本当に安全で大丈夫だといえるのか……?)
彼女の処刑は突然命じられ、その理由をクリストファーは王から聞かされていない。
ただ処刑か、死よりもむごい罰に堕とすか選べと言われただけ。
国と王を陰で支える彼女の父親に罪を被せ、クリストファーを縛る人質だった彼女を処刑する理由がわからない。
――パンッ!
目の前でなにか破裂したような音に、クリストファーは我に返った。
「は……?」
「お前、さては魔力酔いかなにか起こしているな? 大体、うなされて寝てるとそうなる。魔力暴走はないだろうが、お前の人間辞めてる魔力はなあ……っ」
音は、一人掛けソファから身を乗り出しているジェフが手を打った音だった。
「昼を抜いて糖分不足なだけだよ。なにか言った?」
「……やっぱり封印解除狙いかって、聞いた」
「単に名義貸しの資料調査だと思うね。申請者ネイサン・リドルは、“学究のヴァスト家”の遠戚だ。現当主は文献学の権威で王城図書館長。政治や社交界では存在感ゼロの侯爵家だけど、知の領域では覇者だ。だから簡単に承認が揃ったんだよ」
封印魔術古書に関する申請には、魔術師資格がいる。ヴァスト家に魔術師はいない。
「“その弟子一名”ってあったぞ」
「ヴァスト家の助手では? ネイサン・リドルは十年以上、魔術界から姿を消している魔術師だ。弟子の噂もない」
「……詳しいな」
「大陸会議に持ち込むなら、執行部に経歴照会くらいするよ」
ヴァスト家が関わるならなおさらだ、クリストファーは氷色の目をわずかに細める。
回帰する人生は細部まで同じではない。境遇を変えてもいるから多少想定外の事柄は起きる。
ジェフがそうだ。彼はこれまでのクリストファーの人生では接点がなかった。
(細部は変わっても、人生の大筋は変わらない。境遇を変えても面白いほどその流れに向かっていく……だから僕の死に関わる本も開くことはないだろう)
そう思っていた。
まさか魔術師でもない人間が解除に成功するなどと、この時点ではクリストファーも考えもしていなかった。
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