2-10:ヴァストの令息
ヴァスト家の書庫は、魔術界以外で唯一、王都と領地の屋敷間の転移陣を有している。
「父の高祖父、アルヴィン・ヴァストが“封印魔術古書の等級分け”で得た褒賞さ」
「ここの許可を得るまで、このアタシも知らないなんて……」
「そりゃあ、“公にしないこと”が条件だからね。はい、これ持って」
侯爵令息のアーサー・ヴァストは魔術師のネイサン・リドルがぼやくのを聞きながら、腕に抱えていた籠を彼に渡す。
紺地の丈長な室内着の袖を持ち上げ、アーサーは重厚な書庫の扉に埋め込まれた、鶏の卵大の紫水晶が魔石化した鍵の核に触れる。
人体が持つ魔力で登録利用者を判別し、開閉する鍵の魔道具だ。
アーサーはこの鍵が子供の頃から好きだ。その興味はいまの魔力波動研究へと繋がっている。
「ったく、この鍵もだけど、とんでもないもの持ってんだから」
「ご先祖様の恩恵さ。これは王城禁書庫が発掘された際、近くに転がってたのを貰ったらしいよ」
どういう経緯だ……と、籠の中の包みを見下ろし、眉間に皺を寄せるネイサンに構わず、アーサーは書庫の寄木細工の床が美しい、広い閲覧室を進んでいく。
書庫と呼ばれているが、実際は、本邸北端廊下と連結した三角形の建造物だ。
三角形の各頂点は、三辺よりやや背の高い円筒状の建物となっている。
アーサーにとってこの書庫は、“学究のヴァスト”を具現化した場所で、妹セシリアとの交流の場所でもある。
(ああ君は覚えているだろうか――三歳を過ぎて歩き回れるようになった頃、どうやって重い扉を開けて入ってきたのか、書庫で勉強していた私の側にやってきて、大きな菫色の目を開いてペン先をじっと見つめていたのを)
閲覧室は無数の書架、天板の上下が資料で埋もれたいくつも並ぶ大机。なお溢れた資料がここかしこの床を侵食している。西奥には蒐集物のギャラリーがあり、ギャラリーの終点が円形広間となっていた。
「大体、本邸の半分近い大きさってどうなのよ」
「結構手狭なのだよ。領地と資料を行き来させる転移陣がなければ、とてもやってられない」
(何日も高熱を出した後、突然、魔術に関する本を片っ端から取り出し、床に円を描くように積み上げた中心で読み耽りだした、その姿! まるで結界の中で世界を読み解く小さな賢者だった!)
アーサーにとってセシリアは、ふかふかした清潔な布に包まれていた時から心躍る存在である。
小さい小さい手足をばたつかせ、彼の左手の小指を握って、口をもぐもぐさせながら眠る。その無防備な愛らしさは忘れられない。
そこにアーサーは絶対を見た気がしたのだ。
(兄と妹というつながりは、互いの境遇がいかに変わろうと不変だからねえ。それが苦しい血筋ももちろんあるだろうけれど、私にとっては福音さ)
そして東向きの窓辺に、アーサーは妹セシリアの姿を見つけた。
窓辺に作り付けられたソファの上で膝と本を抱え、静かに頁を繰っている。
黒髪の少女の姿にアーサーは、右手を胸に、左手を掲げ、顎の長さに切り揃えた同じ黒髪を揺らし、興奮もあらわに天井を仰いだ。
「ああっ本当に! 我が妹と書庫の組み合わせときたら! いつ見ても最高にして至宝だよ〜。君もそう思うだろう? ネイサン」
己の興奮を伝えるアーサーに対し、ネイサンは「こいつと距離を置きたい」と感情をその整った渋面に乗せる。
アーサーの周囲の人間がよく見せる表情ではあるが、ネイサンのそれは清々しいほど純粋に「離れたい」なので好感が持てる。なにより妹セシリアの才能を高く評価し、教える立場でいながら己の見識で縛らない。
「……アンタ本当ブレないわね」
「ん、なにがだい? 我が友よ」
「だれが友だ」
滅多に聞けない低い美声で吐き捨てられたが、アーサーは気にしにない。
毒舌家でひねくれ者のネイサンは、丁度、十才年上の遠戚である。本来は目上の人間として敬うべきところ、本家の令息に敬われても気持ち悪いの一言で、いまの気安い関係になっている。
室内着のアーサの隣で、濃い灰色のスーツ姿で籠を抱え、栗色の直毛長髪の頭を片手に押さえるネイサンの姿は、妙に生真面目なおかしみがあった。
(ま、かなり面倒くさい性格のおじ殿だが、関わる他人としては面倒くさくない。面倒見もいいしねえ)
「その過剰な妹愛」
「当然さ、兄だもの」
「ああそう。で、兄が兄なら妹もよ……」
呆れ果てたネイサンの呟きは、セシリアに向けられる。アーサーの声などまったく聞こえていない様子で、黙々と書物に集中し、まるで静寂を保つ防護結界に包まれているようだ。
その足元では、白髪をまとめた十歳くらいの侍女が小さな丸椅子に腰掛けていた。
主に渡す次の本を持って待機している。
リトラこと精霊リトラディスが化けている侍女はアーサーに気がつくと、「マスターの兄」と呟いて丸椅子を下り彼等の元にやってくる。
アーサーは優雅な所作でその長身を屈め、リトラと目線を合わせた。
「やあ、我が妹の白き護り手殿よ。ここに入って何時間が経ったかな?」
「マスターの兄よ。五時間三十二分十八、十九、二十……」
「素晴らしい正確さにして、そろそろ我が妹と護り手殿に捧げものをする時間だねえ。円形広間に準備しよう。コケモモジャムとチーズのタルトに鹿肉のパテはいかがかな? 本は私が預かろう」
「供物、供物っ」
リトラが両手に持っている本を預かってアーサーは、ネイサンと呼びかけた。
「護り手殿と用意を頼むよ。お茶は後でケイネスが持ってくる」
「マスターの先生。行くべし!」
「おとぼけ両生類が指図すんじゃないわよ、ったく」
ぶつぶつぼやくネイサンの後を、ぴょんぴょんとリトラが跳ねるようについていく。
閲覧室から続くギャラリーの奥へと向かう彼等を見送って、アーサーは静かにセシリアに歩み寄った。
読書に集中しているセシリアの正面からがばっと腕を回し、本ごと抱擁して頬擦りに首を振る。
「セシリア〜! 今度はなにに興味を持ったんだい? 真理を探究する妹の姿はいつまでも見ていたいけれど、補給はしないといけないよ〜」
「ひゃっ!? お兄様……」
「うん。薬草? 調合、植生と土壌……君が解錠した准一級封印魔術古書『七貴石と効能の書』と。近頃、通い始めた魔塔がらみかい。<深園の解錠師>殿?」
出窓に積まれた本の背表紙の文字をざっと眺め、アーサーが問いかければセシリアはこくりとうなずく。
「お仕事で」
「察するに、調べるべきものを、調べているといったところかな?」
「どうしてわかるのですか!?」
「そりゃあ、兄としてかわいい妹のやり方は熟知している」
はあぁ、と感嘆のため息でアーサーを見上げるセシリアの眼差しと、問いかけに応じる言葉に彼は思わず笑みを浮かべてしまう。
領地でも王都でも、ヴァスト家の書庫と自室でほぼ占められていたセシリアの世界がずいぶんと拡張したものだ。
そして世界が拡張しても、アーサーはまだ彼女にとって尊敬と信頼を向けられる兄だということがうれしい。
(魔法魔術なんて特殊領域へと、その関心を向けているというのに)
封印魔術古書の等級分けに関する功績はあるが、あれは専門とする異分野からの偶然の発見に過ぎない。
(ヴァストにとってはほぼ手付かずの領域だ。心躍るねえ)
「まだ十五歳だというのに仕事だなんて、なんて立派だろう私の妹は」
「大袈裟です」
「君ねえ。魔塔ってすごいんだよ。魔術師の中でもエリートばかり集まる所だよ」
よいしょっ、と窓辺の作り付けのソファから妹を抱え下ろして、アーサーは軽食を用意させている円形広間へとエスコートの腕を差し出す。ちょこんと乗せてくる細い指がかわいらしい。
創造神の存在証明に関しては諸説あるものの、まあいるというのなら感謝したい。
次期当主として侯爵家を引き継ぐアーサーにとって、セシリアは生まれた時から小さな灯火だ。
(こんなに小さくて、かわいくて、愛らしいのに、当代のヴァストの集大成なのだから!)
ぐっと、エスコートする腕とは反対側でアーサーは手を拳に握る。
立ち並ぶ書架やそこかしこの大机に積まれた書物や資料を横目に、アーサーはセシリアを伴って進みながら、黙考している様子の妹にゆったりと話しかけた。
「難しい課題のようだね」
「……お兄様は、ペトラ病という病気をご存知ですか?」
「東部を中心に南部にもかかる風土病だね。たしか……大樹海に接する辺境伯領が発生頻度が高かったかな? 感染症とされているけれど、疫学的に不審な点も多いと軍医殿が言っていたような……」
「そうなのですか? いくつか読んだ本にはそこまで書かれては」
「ごく最近出てきた話で、まだ本にはないと思うよ」
びっくりしたように目を見開いているけれど、アーサーの方がびっくりである。
数時間で一体何冊読んでいたのか、あとであの精霊に聞いてみようかとアーサーは考える。
ネイサンはおとぼけ精霊などと呼ぶが、セシリアの行動を秒単位で完全に記録している。彼の話では攻撃力もなかなか高い精霊だというし、実に立派なセシリアの護り手だ。
「たしか軍医殿からそんな資料も少し見せてもらった気もするけれど……だめだねえ私は。セシリアのように一読した資料を覚えてはいられない」
ギャラリーの陳列棚にあるカラスの剥製の羽を突き、鉱石標本を覗くアーサーに「わたしは覚えるのとは……」と呟いたセシリアに、「違うのだったね」と返す。
「しかし、結果としては同じだよ」
セシリアは、彼女が関心と集中を持って見たものをほぼ完全に記憶できる。
本人が言うには、目にしたそのまま精巧な絵のように写し取って記憶し、その像を思い出して本を読むように確認しているそうで、覚えるのとは違うとはそういう意味だ。
「その資料はお借りできますか?」
「うーん、どうかなあ。東部や辺境伯領の記録ならいくらでも提供できるけれど」
「え……お兄様もペトラ病の研究を?」
ぱちぱちと瞬きして、アーサーの上着の袖をぎゅっと掴んできたセシリアに、あははと彼は笑った。
どうやらいま妹の頭の中は、ペトラ病に関連することでいっぱいのようだ。
「違う違うっ。私は魔力波動の研究をしているだろう? 東部は竜害が多いから討伐記録や関連資料を集めているのさ。軍医殿の話もそんなつながりの雑談で……」
「竜害……?」
「そう、いまのところ竜くらい魔力の強い生物の魔力波動でないと探索できないからねえ。よく出る地域を絞り観測データを取りつつ、過去の記録と照らし合わせるなど色々と模索中さ。やあ、揃っているようだね」
円形広間に到着し、天の運行を描く天井画の下、大理石の広い円卓の上に並ぶ軽食とお茶の用意に、アーサーはネイサンとリトラに礼を言い、広間の隅に控える家令のケイネスを労う。
「人に任せて、遅い。このおとぼけがうるさいったら」
「マスターの先生が、供物はマスターが来るまで待てと言う。私は寛容なるものだから捧げの儀式はいらない」
「この調子よ……アンタさっさと席につきなさい」
ネイサンが席に招くが動かないセシリアに、おやとアーサーは彼女を見下ろした。
うつむき加減に軽く握った手を口元に、「竜害……」と呟き、なにか考え込んでいる。これはどうやら自分が話したことが、妹の琴線に触れたようだとアーサーは悟った。
「マスター、供物もういい?」
「なにぼさっとしてんのよ」
「うーん……護り手殿とネイサンはちょっと静かに! そして、ケイネス」
アーサーは家令に向けて左手の甲を示すように手を挙げた。その小指には、彼が父から次期当主の証として与えられた印章の指輪がある。
よく心得ているヴァスト家の家令はアーサーの意図を察して一礼し、円形広間から彼が望むものを取りに出ていった。
「セシリア、とりあえず座らないかい?」
そっと、セシリアの頭を撫でてアーサーは微笑む。
はっと我に返ってセシリアが慌てて自分の席を探しだして、苦笑しながらここだよと空いている椅子を引く。
「どうやら、調べるべきものは定まったかな?」
「あ、はい。お兄様の話を聞いていて……気になることがいくつか。最初はペトラ病の治療薬について探して、処方はわかっているから魔塔の研究を待った方がいいかなって……それでそもそもどういう症状かとか風土病というからにはなにか……あ、ネイサンおじ様……」
セシリアは子供の頃から、思考に言葉が追いつかないことがままある。
一生懸命、頭の中にあるものを、そのまま伝えようとする姿は健気で大変かわいい。しかしおそらく大半の者には、唐突すぎるか飛躍がすぎてついていけないはずだ。
「いつも言うけど一呼吸おきなさいよ、アンタは……いまは別に好きに喋ればいいけど」
「ネイサン、君のそういうところを私は高く評価している」
「はいはい、おとぼけが拗ねるから。もう手をつけてよしでいいわね」
「もちろん」
「マスターの兄よ、供物はたしかに受け取った」
侍女の少女の姿でリトラが、鹿肉のパテを乗せた切り分けたパンにかぶりつく。
「今後もセシリアを守ってくれたまえ、白き護り手殿よ」
「アンタらのそのやりとり、いるの? 兄妹揃って機密の塊が……込み入った話をするなら三秒待て」
仏頂面でお茶のカップを口に運びつつ、ネイサンがパチン、と指を鳴らす。
円形広間の壁に沿って立ち上った、薄緑の仄かな光が天井より低い位置でドームを形成する。
「あ、ネイサンおじさま。ありがとうございます」
「ええっ、ネイサン! なになに、なんだいこれ!? 結界とかそういうの?」
「えっと、結界ではなく……内と外を別の空間として区切っていて、話が漏れないように」
尋ねるアーサーを無視して、リトラの「こっちおすすめ」という言葉に従っているネイサンに、少しばかり相手にされない寂しさを覚えつつ、彼の弟子であるセシリアの説明に耳を傾ける。
(なるほどねえ。上級魔術師、アルバスの元教授だけはあるか。ま、それはともかく)
セシリアの正面の席に着いたアーサーは、テーブルに両肘をついて頬を支え、にっこりと彼女に話しかける。
「それで、セシリア。君はなにを望むかな?」
「望む?」
お茶のカップを持って、こてんと黒髪を揺らして首を傾げる妹がかわいい。
きっとこのかわいらしさの構図は、計算すれば黄金比になっているに違いない。
「君一人でも十分に結果は出すだろう。けれどね、私の話でなにか思い至ったのであれば、私にできることもあると思うんだ」
「そ、そんなっ、わけにはっ! お兄様の研究は技官も扱えると、色々なところから期待されてますし、守秘義務もありますし、お忙しいですしぃ……っ」
どうしよう。かわいく賢い上に優しく思慮深いなんて……ヴァストの血筋は、自分が心躍る関心事以外、わりとどうでもいいろくでなしが多いのに。こんなの兄としてはなんでもしてしまう。
父は理性と立場で比較的そちらには寄っていないが、アーサーはかなり典型的なヴァストだと自認している。
「アーサー様、これは……」
「ネイサン、ケイネスは入れるのかな」
アーサの問いかけにネイサンは、リトラにタルトを取ってやりながら構わないと答えるように片手を振る。
それを見て、ヴァスト家の家令は円形広間の入口で止めた足を進めて、アーサーの元へとやってきた。
手にしていた便箋と封筒他、手紙の道具一式を載せた銀盆をテーブルへと置く。
恭しく、再び部屋の隅へと控えたケイネスから、アーサーは再びセシリアへと視線を戻した。
手紙の道具一式を不思議そうに見詰めている。
「さて、かわいい我が妹よ。少し整理しよう。君は魔塔の要請を受け、二級封印魔術古書を解錠し、いまはペトラ病について調べている」
「はい」
「その目的はたぶん当初は治療薬。おそらく処方が封印魔術古書にあったのかな。だとしたらおそらく魔法薬で魔塔の領域だ。だから君は別の観点からペトラ病について考察を深めることにした」
うん、と力強くセシリアがうなずく。
言葉の追いつかない説明をわかってもらえている喜びが、アーサーに向けられた菫色の瞳に見えて、もちろんだともと胸の内で彼は呟く。
「風土病とされる原因不明の病、その症状などを調べていたけれど、これと取っ掛かりもなかったところ、私の話を聞いてなにか思い当たるか、気に掛かるものの輪郭が見えてきた」
「はい」
「これはもう私も協力者でいいのじゃないかな?」
「は、……?」
つられて返事をしかけて途中で口を閉じた、セシリアの用心深さにアーサーは苦笑した。
「なら、私からかわいい妹にひとつ提案だ」
「提案?」
「ペトラ病にせよ、竜害にせよ、大樹海に接した辺境伯領には痛手だ。この国の防衛にも関わる。なにかしらの解明は間違いなく国益に叶い、私利私欲でなく、特定勢力への加担でなく、知見を集め挑める脅威への対抗となる」
つまり、ヴァスト家の権限を行使できるのさ、と。
アーサーはペンを取り、便箋にさらさらと定型の文句といくつかの文言を書き入れる。
封筒に便箋を入れて、封蝋を垂らし、左小指の指輪を押し付ける。
「ヴァストが手にできない資料はない。まして私の研究資料などなおさらね。ケイネス、これを私の職場へ大至急で届けてくれるかい。一介の主任研究員ではなく、侯爵令息アーサー・ヴァストの書簡だ」
次期当主として彼もまた振るうことを許された、ヴァスト家の力を行使したアーサーは、ぽかんとしているセシリアに実にきらきらした愉しげな笑みを向けた。
「面白そうだから手伝わせておくれ、我が妹よ」
アーサー個人では資料は機密なので持ち出せないけれど、ヴァスト家の権限で侯爵家管理に置くなら強制的に持ち出せます。ただこの権限は、アーサーが確認したような条件(国益になり・私利私欲でなく・特定勢力への加担でもなく・知をもって脅威に備えるものである)をクリアしていないといけないのです。
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