2-3:“彼女”がいない人生
王都の中心部を東西に流れる川沿いに建つ魔塔から、馬車を使えば十分ほどで東の城門へに着く。王城の正面入口でもある最も近い門だが、クリストファーはさらに北へ回った。
御者にいつも通り王城で待機を言いつけて馬車を降り、十数メートル歩いて、遊歩道と呼ぶには薄暗い小道へと入っていく。いくつかある王家の私有庭園の一つだが、暗い森の中を歩くような陰気な庭なので訪れる者はいない。
「気兼ねなく訓練できていいと、師匠は言っていたけれど」
遊歩道の終点に、寂れた門があった。
鬱蒼としげる木々の垂れ下がる枝に隠れるような、長年の風雨の汚れが目立つ柱に簡素な鉄柵の門を通り抜けて、クリストファーがさらに先を進めば、六角の塔で主棟の左右を挟む石造りの離宮が現れる。
目と鼻の先にある、王城の豪勢な宮殿建物とはほど遠いみすぼらしい離宮は、かつて彼が暮らしていた場所だ。
少し距離を置いた正面で足を止め、クリストファーはまるで幽閉塔のような建物を見上げる。
「一理あるな」
かつては執政の場だった、由緒ある建物ではあるらしい。
その証拠に中央の最上階にあたる壁は、シルベスタ王家を示す紋章に飾られている。だがもういまは置き捨てられた場所だ。建物の裏手も暗い森で、離宮があると覚えている王都の民は、貴族も含めてきっと少ない。
離宮といえば広い庭園を挟んで西にある、王城の宮殿建物を小さくしたような建物を皆思い浮かべる。
ここを使うのは隠されるべき王族である。心神耗弱であったり、王家に疵がつくような問題行動を起こしたり、あるいは罪を犯したような。
「僕もその一人だった。それは今世においても消えない事実だ」
数ヶ月に一度、ここを訪れる。そうしないと忘れそうになる。
幼いうちに回帰していた人生を思い出し、クリストファーは先回りして己の境遇を変えた。
虐げられず、奪われず、縛られることがないように。
「周囲の者達が今世でまったく違う顔を見せるのは、僕がそうしたから。彼等がそうであったわけじゃない」
そうなるようにしたが、今世の人々はあまりにクリストファーに優しい。
クリストファーが記憶する過ぎ去った人生が、今世の人々と無関係なことは理解している。
けれど、過ぎ去った人生と今世のクリストファーが同じであれば、きっとまた同じ状況が繰り返される。向けられる冷酷さや敵意や無関心さも同じに違いない。だから気を許すわけにはいかない。
「少なくとも繰り返してきた道を進み、辿りつく結末を断ち切るまでは……」
建物の紋章から地面へと視線を下ろし、クリストファーは深く息を吐くと離宮に背を向けた。
きた道を戻るために再び歩き出す。
(二十歳。僕が婚約者だったセシリアを処刑した年齢だ。いまのところそんな事態になる気配はない。だがいまのセシリアがその年齢に達するまであと五年ある)
いまだ“彼女”とは出会っていない。クリストファーの五つ年下になった“彼女”はまだ十五歳の少女だ。
長く領地に暮らしていて、二年ほど前から王都にいることは知っている。
社交界デビューを考えてなら、どこかでクリストファーと出くわす可能性はある。王家を出たため王子としての公務はないが、公爵位と領地を持つ貴族だ。必要最小限ながら社交活動は行っているし、王族の交流もある。
(とはいえ、王都にいても屋敷の外にあまり出ず、他家の令嬢とも交流していないようだ)
クリストファーとの出会いと婚約がなくなっているから、十三歳から王城で妃教育を受けることもない。
社交のためでなく、王都の「学園」へ通うためかとも考えた。
セシリアの両親も兄も卒業生だが、入学する様子もない。おそらく必要ないのだろう。八歳で魔法魔術に関する本を読んで理解していたのだから。
*****
八歳で引き合わされたクリストファーの婚約者候補は、セシリア・ヴァストという名の、黒髪に菫色の瞳をした儚げで小柄な少女だった。
引き合わされた後、大人達が離れてすぐクリストファーは、魔力過多を理由にセシリアに自分に近づくなと言った。
(けれど、どの人生でも彼女は、僕にこともなげに言う)
『ですが、いまは大丈夫ですよね』
『それはっ、魔力を抑える魔道具をつけているから……。でもすぐに壊れて、魔力暴走で周囲を巻き込む。酷い目にあう前に離れた方がいいよ』
クリストファーは苛立ちを抑えきれない口調で少女に言った、いま出会ったばかりの相手に。
離宮内部の惨状、怪我をし、同僚を失う目にあい、忌まわしいと思う感情を隠さず仕える使用人達……なにも知らないから大丈夫なんて言える。
けれど少女は首を傾げ、うーんと小さく唸り考え込む表情を見せただけだった。
『“すぐ”って、どれくらいですか?』
『え?』
『王城からこの家まで馬車で二十分くらいかな……王子様のお出かけって大変そうだし……とりあえずお支度からここまで三時間としますね。パーティが始まってから終わりまで四時間くらい……半日、性能が保つ魔道具なら巻き込まれないと思うのです……けど』
『……セシリア嬢?』
『実験用地もあってお庭は広いので離れれば大丈夫かも……? あっでも、魔力暴走って魔力を魔法として放出するって、本で読んだことはあっても威力は知らなくて……はっ、そもそも魔道具は今日つけたのでしょうか』
少女らしい優しさでも、同情の言葉でもないと、はっきりわかった。
まさか酷い目にあいたくなければと言われて、魔道具の有効時間や、魔力暴走の威力を考えるなんて、クリストファーには思いもよらないことだった。彼自身、耐えるのに必死で考えたこともない。
おそらくは大人達も同じだろう。
『君……本当に八歳? 怖くないの?』
『怖いので……魔道具が一番早く壊れた時ってどれくらいですか?』
『……五日くらいかな、たぶん。大体半月で長いとひと月は保つけど。魔道具は今朝つけ直された』
『今日は大丈夫そうですね。心配ならお客様が少ない所へ行きましょう』
クリストファーの手をつかんで、セシリアは実験用地だとかいうヴァスト家の屋敷の裏庭へと彼を案内した。
いや、今日だけでなく君が巻き込まれるのを心配したのだけどとクリストファーは思ったけれど、「今日は大丈夫」という言葉と彼女の手に心が軽くなるのを感じた。
実験用地は土ばかりの地面が幾つもレンガで区切られていた。休眠中と言われたがさっぱりわからない。説明しだすと長くなりそうな気配を感じたので、とりあえずクリストファーは頷いておいた。
『魔道具はひとつですか?』
『両腕と足と耳に……え、ちょっと、汚れるよ!? せめてこれを敷いてっ』
侯爵家の令嬢らしく綺麗なドレスを着たまま、近くに落ちていた小枝を拾い地面に膝をつこうとしたセシリアに、クリストファーはぎょっとして声を上げ、慌てて持っていたハンカチを地面に敷いた。
彼には理解できない数式を土の上に書き始め、途中で手を止めては彼に質問し、また計算に戻る少女をただ側に立って眺める。
(侍従に言われたのと、ずいぶん違う)
ご令嬢を飽きさせないようにと色々な話題を、魔力遮断布のカーテン越しに芸を仕込むように覚えさせられたが必要なかった。
静かで、なんの思惑も向けられない時間。
眺めている内に、クリストファーが生まれてから現在までに使った魔術具のおおよその数、その性能差、効果期限の標準の範囲が割り出されていく。しばらくして一区切りついたらしく、ふうっと少女は息を吐いて顔を上げた。
『あの……いまになって、気がついたのですが……』
『うん』
『おおよそだから正確さに欠けて……役に立たない、かも……』
しょんぼりとひどく申し訳なさそうな顔した少女を見て、クリストファーは物心ついて初めて心から笑ってしまった。ああ、この女の子はクリストファーでも、魔力暴走でもなく、クリストファーの魔力を抑える魔道具の不安定さを怖いと思っている。
離宮に新たに補充されたメイドも侍女もどこか怯えた目で彼を見るのに。
ヴァスト家が、何故、“学究のヴァスト”と呼ばれているのかわかった気がした。
*****
「どうしてこんなこと思い出すのかな」
あのセシリアは、今世のクリストファーの人生にはいない。出会っていないのだから。
薄暗い遊歩道から明るい午後の日が差す王城内の通路に出て、クリストファーは遠目に見える宮殿建物に目を細めた。同じ名前で、“学究のヴァスト”との繋がりを感じる、この大陸で唯一無二の技法を持つ少女があの地下にいる。
「<深園の解錠師>セシリア・リドル……」
セシリアと初めて会った時に似た驚きを、つい最近、クリストファーに与えた人物。
リドル家の戸籍に入れたのは、ネイサン・リドルが“学究のヴァスト”の血筋を感じてだろう。
あの能力を見てしまえば、彼の取った人を食ったやり方も、代理人となって魔法魔術審査会へ新規技法の申請を出したのも納得できる。彼女個人ではなくその技法へ魔術界の目を向けさせるためだ。
王城と魔術界を互いに牽制させて、どちらの力も使い、どちらからも弟子を守ろうしている。
嫌な性格だ。アルバスでの彼の評判は、底辺と頂点に分かれている。
「さて」
二級封印魔術古書の解錠がなされ、塔に戻ってすぐクリストファーは国王へ謁見を申し込み、二日後の返事をもらった。最短といっていい返事だ。
「偉大なる王の城。地下深くに隠れるお姫様を、塔の上までどう連れ出そう」
<深園の解錠師>の持つ知識を得たい。
魔術師連合としてもあの解錠技術は応用が効く、結界解除に長ける魔術師は少ないのだ。
それに、もう一つ。
彼女の師のネイサン・リドルは、現在、ヴァスト家の王都屋敷の離れに暮らしている。弟子の彼女もそこにいる。
本邸には出入りしていないかもしれないが、セシリア・ヴァストの話が聞けるかもしれない。
それとなくクリストファーが彼女の話を集めようとしても、“幻の侯爵令嬢”と言われている噂しかない。
「あら、クリストファー様ではありませんか!」
あれこれと考えを巡らせながら、庭園に面した王城の廊下を歩いていたところを、後ろから呼び止める声にクリストファーは振り返った。
華やかな金髪に緑色の瞳をした女性が侍女を複数連れ、大輪の花のような存在感でゆっくりと向かってくる。
「ごきげんよう、ベアトリス・ラッセル公爵令嬢。もう義姉上とお呼びした方がいいですか」
ベアトリスが侍女達が、惚けてため息を吐く。
そんな優雅な所作と微笑みでクリストファーは兄の婚約者に挨拶した。兄の王太子オスカー・アリアス・シルベスタとの婚姻はあと三ヶ月後に迫っている。
クリストファーと同い年の公爵令嬢は、回帰していた人生では彼を侮蔑的な目で睨むだけで、顔を合わせてもまともに話そうとせず、セシリアのことも一方的に毛嫌いしていた。
黒髪と菫色の瞳が神秘的で可憐な容姿を持ち、物静かで落ち着いた佇まいのセシリアとは対照的で、妃教育でもなにかにつけ比較されていたことが理由のようだ。
公爵令嬢としての矜持はあったらしく、セシリアに対し少し嫌味を言う程度でそれほど実害はない人だったが、王太子派閥の者達がセシリアの悪評を流しても見て見ぬふりをした。
それが今世においては――。
「ごきげんよう。魔塔主のあなたが王城にいらっしゃるなんて、お仕事かしら?」
「ええまあ」
曖昧な笑みと返答でクリストファーがではこれで、と早足で歩み去ろうとする前に、「ちょっとお待ちなさい」とローブの袖を令嬢らしからぬ早技で鷲掴みにされる。
「あなたいい加減に婚約者をお決めになられたら? いくら王子ではなくなったからって、そう自由奔放にしていいわけではなくてよ」
「自由奔放にしているわけでは。そんなことより兄上との幸福な新生活に思いを馳せては?」
王城の廊下でする話ではない。
継承権争いが起きていない今世で……ベアトリスはいらぬお節介を焼いてくる、ただの気のいい未来の兄嫁だ。
しかし、彼女のお節介に同調し、クリストファーとの縁組を望む家からの令嬢の売り込みが増えている。
(継承権を放棄しても、僕の子には継承位がつくからな……)
この人は自分の子の地位を脅かされていいのだろうか。
それにセシリア以外、クリストファーには考えられない。
魔術師だが、次代になにか残す気もない。
「おや、クリスに……ベアトリスも? 二人揃ってこんな場所で立ち話とは」
前方から淡い金髪をきらきらさせて護衛と共にやってきた、四つ年上の兄の姿にクリストファーは内心げんなりしながら臣下の礼をとる。どうやら二人は庭園で休憩時間を過ごす約束でもしていたようだ。間が悪い。
「クリス、私にそういうのはいいといつも言ってる」
「いいえ、兄上は王太子殿下です」
相手は嫌がるがここは王城、こういったささいな振る舞いの積み重ねは大事だ。
子供の頃から徹底して、魔術にしか興味なしの姿勢を貫き、第二王子派閥の形成を未然に防いだ上で継承権を放棄している。だが、クリストファー本人がだめなら、生まれるかどうかもわからない子供の代でと考える者がいないわけではない。ベアトリスに売り込みが来ているのがその証拠だ。
「クリス、お前も一緒にどうだ?」
「あいにくと、僕は仕事で来ましたので」
「どうせ相手は父上で、お茶できるくらいの余裕はあるだろう。一杯付き合えロウル公」
「王太子ともあろう人が、なんてくだらない命令を……」
一杯だけだと断って、共に庭園に出る。温室近くの四阿にすでに用意は整えられていた。クリストファーが共に現れてもさして慌てることもなく席が用意される。そして話題といえば。
「いい加減、婚約者を選ばないのか」
似た者夫婦めと、口元に運んだカップの影でクリストファーはぼやく。
「わたくしも丁度その話をしようとしていましたの」
「しようとではなく、していましたね」
「もしかして心に決めた方でもいらっしゃるの?」
「……そのようなご令嬢に、出会えないだけです」
そう答えた後に、喉を通るお茶が少しばかり苦く感じる。
さっさと飲み干して離れよう。まだ父相手に政治的な駆け引きをやっている方がマシだ。
<深園の解錠師>に魔塔にも出入りしてもらう。
おそらくセシリア・リドルと父は『深園の書』に関してなにか隠している。
出入り程度なら許容するだろう。<深園の解錠師>を独占するつもりはないとも示せる。
「よし、なら好みなり理想を教えろ。私が探そう」
「余計なお世話ですよ」
「ものは試しで言ってみろ」
兄を止めろとベアトリスを見れば、期待に満ちた目でクリストファーを見ている。父も放置しているというのに。
おそらく理由はクリストファーの考えと同じだ。
「……そうですね。僕が驚くような能力資質を持っていて、驕ることなく、聡明で芯が強く、愛らしく可憐で楽しい女性でしょうか?」
クリストファーの目の前でベアトリスが肩をすくめる。失礼な反応だ。
兄上と、退席の挨拶に声を掛ければ、彼は難しい案件の書類を読むような顔をしていた。
「クリス……いくらお前でも、それは高望みがすぎる」
「巡り会えたなら幸運でしょうね。短い時間で申し訳ありません、お誘いいただきありがとうございます」
にっこりと一礼してクリストファーは、四阿を後にする。
テラスから廊下へ入ろうとして、ふと、兄とその婚約者をクリストファーは振り返った。
仲睦まじく幸福そうで……遠いなと、知らず彼は呟いていた。
(このまま無関係に“彼女”の人生が進んでいくとして……結末を越えた先、どう生きる)
それについてはまだ、クリストファーは深く考えないようにしている。
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