プロローグ:小さな羽ばたきが起こす風
王城の人払いされた謁見室で、少女は震えていた。
黒髪の頭を小刻みに揺らし、菫色の瞳に涙をにじませて。
王の御前に一人控え、獰猛な獅子を思わせる眼光に高みから射抜かれて、震えるなという方が無理である。
そもそも、社交界デビューもしていない十三歳の少女が、王の前にいること自体が異常事態だ。
「其方らの家系は代々、その類稀な頭脳と資質で、王家ひいてはこの国の発展に寄与し続けてきた――」
現在、謁見室に人は三人しかいない。
国王と少女と、少女の付き添いで壁際に控える遠戚の魔術師ネイサン・リドル。
それでも朗々と響く声と演説めいた調子で語りかけてくる王。
(ふ、普通に話してほしい……迫力が、怖いぃ)
見た目からして「権力!」といった言葉が浮かぶその姿。
銀髪に深い青の目。金銀の装飾に赤が目立つ豪奢な衣装。黒い斑点入りのふわふわの毛皮でトリミングされた、重そうな白に金の刺繍が入ったマントまで羽織り、少女から床が三段高い玉座に掛けている。
「成果を惜しみなく王家に捧げる忠義ゆえに、〈王の相談役〉の地位を当主に与え、長く信頼を預けてきた」
ことさら声を張り上げるわけではない。話しぶりもむしろ淡々としている。
王の声音自体は低く深く、穏やかですらある。
(でも威厳がすごくて。跪いてひれ伏さないと首をはねられそうで……でも、逃げるわけにもいかないしいぃ)
赤紫色のドレスのスカートの中で、少女は膝を震わせながら泣きそうだった。
いやもう泣いている。だって視界がぼやけている。
視界がぼやけようと玉座に腰掛ける王の威圧感はかわらない。
この国。シルベスタ王国を、大陸一の大国ヴィルテンブルク帝国と豊かさを競う国に押し上げた王。
そうこうするうちに、痺れを切らしたような圧倒的声量が謁見室中に響いた。
「ヴァストの娘よ!」
「は、ははははっ……ひ……いぃ……っ」
萎縮していた少女は上手く口が開かず、返事ひとつもめちゃくちゃで、声は蚊が鳴くような小さな声になった。
ただでさえ威圧的で声の大きい人が苦手であるのに、国家権力なんて恐ろしいものや、失敗できないプレッシャーもある。
それに少女の中にある、“前世”と“前々世”の記憶も刺激されて、つい身構えてしまうのだ。
人から「何故お前はここにいる」と罵倒され、物を投げつけられた恐怖。なにを言っても無駄という無力感。
「ヴァストの娘……其方の父は、かつて王家が託した古代遺物を余に無断で使った。其方の命を救うためにな」
王が玉座から腰を上げ、少女が控える場所へと降りてくる。
降りきる一段手前で足を止める。そういう溜めの演出はいらないぃ……と、少女は背中の半ばまで伸びた黒髪をふるふると小さく振って揺らす。
侍女がサイドの髪を綺麗に編んで結んだ、服と色を合わせたリボンの端がはねて、そこだけ見れば可憐で愛らしい侯爵令嬢である。
しかし、うつむけた顔は、涙目の怯え顔でひどいことになっていた。
「セシリア・ヴァスト」
少女――セシリア自身もひどい顔になっているとわかっていたが、頭を上げずにはいられなかった。
王の声や言葉、雰囲気にはそういった力がある。
「……はぃ」
王は、セシリアの父親と同世代。三人の子供がいる。
だが三人の子を持つ父親にはとても見えなかった。
(王太子の第一王子と、王家を抜け魔術師になった第二王子、それからいまのわたしより一つ年上の、末の王女)
王は王、それ以外には思えない。
五十がらみの、銀髪に金の王冠をいただく男はそういった人物だ。
目を奪われたように、セシリアは王の顔をじっと見詰める。それが不敬な振る舞いであることも忘れて。
彼女を不快に感じたのかもしれない。
「其方の、その身がいかに罪深い裏切りによって生かされているか……」
王がその目を冷ややかに細める。セシリアはびくっとして目をそらし、視線を頼りなげにさまよわせた。
王の眼差しが、セシリアが夢に見る氷色の眼差しと重なったために。
王が怖いからでも、その迫力に委縮してでもない。
本能的な恐怖を感じて、セシリアは己を抱き締めるようにして身を縮め、再びうつむいた。
「自ら罪を告白した殊勝さは認めてやる。だからこそ余は挽回の機会を与えた。見よ」
うながされてセシリアはうなずき、彼女と王との間に設置されている大理石の台へと目を向ける。
台の上に、厚い革表紙も物々しい古い書物が置いてあった。
本は沈黙している。当然だ、本は声を出して話しだしたりはしない。しかしその何者も寄せ付けない重く静かな沈黙の佇まいに、セシリアは動揺から立ち直る。
「……深園の書」
本物だ。十三歳の子供でしかないセシリアの言葉を聞いて、この王は本物をここに用意してくれた。
すぐさま処刑することだってできるのに、王城の地下深くに眠るこの本を。
「そうだ。失われた古代叡智を封じた書物。魔術師連合が大陸会議の審議に持ち込み、承認に時間がかかった……この意味わかるな?」
大陸七ヶ国の魔塔主が集まり、大陸全体の魔術魔法に関する規制や基準などを決める場。折角、自分を持ち直したのに、「な、んで」と、事の大きさに再びカタカタとセシリアの体が震え出す。
「この本が出庫されたと、大陸すべての国が知っている。本当にこの本を開くことが出来るのだろうな?」
(どうしてえぇっ! 王城の地下書庫から本を出すだけで、国際的な一大事にいぃぃ!?)
本来、この本が書庫から出るのは三年後だ。
その時はもっとさくっと、この王が書庫から出していた描写しか、セシリアが前世で読んだ小説にはなかったはずなのに。
(おかしい。それに本当にもう後には引けない。子供の思いつきでしたでは済まされない)
失敗したらセシリアも、別室待機のセシリアの父親も、代理で本の出庫申請を出して付き添ってくれているネイサン・リドルも、全員処刑される。
おそらくはこの場で。問答無用で。
「我が血筋の呪いを解き、己の罪を贖うと?」
「の、の……ろい……は、ともかく……」
「なんだと?」
ごうっ、と耳を塞ぐような唸り声に、ひっとセシリアは声を引き込んだ。
解呪の詳細は本を開かなければわからないが、本に書いてあることは間違いない。
小説では、王の息子である元第二王子のクリストファーが本を開き、その方法を確かに見つけていた。
(力尽きて、解呪できずにお亡くなりになるけれど……救いもなにもない鬱展開小説だから。でも――)
『深園の書』第四章の第三節……頁を飛ばすやり方をセシリアは好まない。
とはいえ頭から封印を解いていく時間はおそらく与えてはもらえないだろう。見るからに短気そうだ。
セシリアは深呼吸して王を仰ぎ見た。
「超一級封印魔術古書『深園の書』の封印は、解きます」
あどけなさの残る、声量もそれほどない声。
それでもその言葉はしんと静かな謁見室に伝わる。
怯えた鳴き声に近い声や不明瞭な返答とは異なる、確信に満ちたセシリアの声であり言葉であった。
(この世界で生きのびるためにも! この王は、約束は違えない)
そして謁見室に奇跡は起きた――。
長い間、誰にも、どんな魔術師も解けなかった、封印された本が開く。
それは小さな羽ばたきが起こした風のような、静かでなにが起きたわけでもないような奇跡だった。
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